今世、カードの裏の泥梨より

<6>

「……思考実験? 唐突だな」

『簡単に言えば、相手が何を一番大事にしているかを知るための心理テストのようなものです。ウィンターホリデーの終わり頃、グリムにエースにデュース、それにスカラビアやオクタヴィネルの皆さんと一緒に、幾つか遊びました。トロッコ問題、テセウスの船、シュレーディンガーの猫、マリーの部屋……。これらの思考実験に、勿論正解はありません。どのように考えるのも自由です。互いの価値観や信条を明かしながら、分かち合いながら、みんなと沢山、話をしました。どれも非常に興味深かったのですが、私が最も印象に残ったのは、アーシェングロット先輩が出してくれた、スワンプマンという命題です』

 実のところ、トレイはこの思考実験や心理テストなるものが苦手だった。人情深く義理堅い苦労人であるように見える自分の、結局は程々のところまでしか人と関われないという「粗」が、己の回答により暴かれていくような気分になってしまうからだ。今ではそうした恐れもなくなったが、以前なら誘われても絶対に断っただろうなと思いつつ、さて監督生の興味を引いたその思考実験とはどのようなものかと、少しばかりわくわくしながら読み進めた。

『沼地で運悪く死んでしまった男のすぐ傍に落ちた雷が、何らかの不思議な力で、沼で出来た男そっくりの存在を作り出してしまう話です。その沼から出てきた泥の存在はそのまま、家族の待つ自宅へ帰り、翌朝になれば職場へ出勤し、男が生きていた頃と何も変わらない毎日を過ごしていくそうです。見た目も同じ、記憶も同じ、能力も同じ、傍目には何も違いが分からない。でもその人の本物はもう死んでいて、二度と戻って来ることはない。この場合、その存在は男の人であると言えるかどうか』

「……」

『そんなつまらない泥人形が男と同義であっていいはずがない、とすぐさま断言したのはリーチ先輩たちでした。同じように機能するのなら真偽なんて何の問題にもならない、とはバイパー先輩の談です。他にも様々な意見が出ましたが、私は、男の帰りを待っていたであろう家族の立場に立って考えました』

 トレイは思わず手紙を畳んだ。パン、という紙の乾いた音が異様な鋭さで鼓膜に刺さった。全力疾走の直後にも勝るほどに心臓の拍動が煩く、このままでは暴れに暴れて体から飛び出していってしまうのではないかとさえ錯覚した。
 やられた。何が「ところで」だ。本題もいいところではないか。そう思いながら頭を抱えて背中を曲げ、震える息を落ち着かせるためにゆっくりと吐いた。大人しくなりつつある心拍にほっとしつつ、トレイは改めて体を起こし、畳んだ手紙に改めて指を掛けた。

「……ああ、教えてくれ。お前は『そいつ』のことを、どう考えたんだ?」

 そいつ、とは、泥で出来た男のことだけを指しているのではない。この先に書かれているのも、単なる思考実験の一回答などでは決してない。今からトレイが読むことになるのは、彼女の、友に向けられた愛の言葉だ。正確には、友が全身全霊を賭けて作り出した、丈夫で精巧で長持ちする、彼と何ら遜色ない「分身」への愛の言葉だ。

 ケイトの本体こそこちらの世界に残るべきとした、その理由ならトレイは既にケイトから何度も聞いた。彼のこれまで生きてきた18年を重んじたが故の選択だったと。自らの信じた公平性と誠意に忠実に考えた結果、本物の手を取ることだけはどうしてもできなかったのだと。
 だが、おそらくこれから述べられるのは、彼女が「本物の手を取れなかった理由」ではなく「望んで分身の手を取った理由」の方だ。彼の分身でも構わない、その方がずっといい。そうとまで監督生に思わしめた本当の理由が、此処には書かれているはずなのだ。

『私が、男の帰りを待つ家族であったなら、私は男が無事に帰ってきてくれたことを喜んだでしょう。特別な力を持たない私は、きっと男が泥で出来ていることに気付かないままであるはずです。故に真実としては違っていたとしても、私の中では間違いなく、その泥は私の愛した人です。私にとっては魂の真偽などよりも、私の認知による確信の可否が大事でした。私が、その人だと何の疑いもなく認識できる程に完璧な擬態であったなら、私は男への愛を確信して生きていけるはずでした』

「……うん」

『この、気付かないままでいられるのなら本物として変わらず愛していきたい、という私の意見には、デュースが賛同してくれました。でもその後でアルアジーム先輩が言ったんですよね、泥の気持ちはどうなるんだ、って。愛した家族を一生騙し続けなければならなくなる、男の人格と記憶を有した泥の心痛をお前は見過ごしてしまうのか、って』

 偽物の側の心痛。思わぬ指摘にトレイの心臓はまた、跳ねた。残念ながらトレイはこれまで、本体である友の心情にしか目を向けておらず、無条件に排斥の対象となった分身がその時どんな気持ちでいるかなど、一度も考えたことがなかった。あれだけ精巧に作られ、個々の自我を持って仕事に勉強にお喋りにと、まるで個別に生きているかのように振る舞えるあの分身たちだ。痛みだけ都合よく感じないように出来ている、などということはきっと在り得ない。でも、見過ごしていた。考えるまでもなく、沼よりも肉体が、カードの分身よりも本体が、優位であり、大事であり、かけがえがないはずだから、と。
 そんなトレイが取り零したもの、監督生さえ始めは取り零していたであろう部分を、彼女はカリムの指摘を受けて見事に拾い上げることに成功する。成功して、彼女は更に考える。

『先輩の言葉で、はっとさせられました。私には覚悟が足りなかったようです。私が決意し、納得して、受け入れるだけでは不十分でした。泥の形で戻ってきてくれた相手がその選択を後悔せずに済むような、そうした迎え入れ方でなければ本当の意味では報われないと、知りました。この思考実験は私の気持ちにとても大きな課題を残しました。私はそれから長い時間を掛けて、私なりの正解を探しました。私の気持ちも泥の気持ちも、どちらも公平に救われるような正解を。誰のことも騙さず、誰のことも裏切らないような誠意ある考え方を。辛すぎる真実を踏まえた上で、それでも導き出すことの叶う唯一の、幸いを』

「……」

『だからもし、私のところへ「彼」が帰ってきてくれたなら。真実を私に知られても尚、私と一緒にいたい、一緒に行きたいと、変わらず願ってくれたなら』

 息を飲む。敢えて「彼」と此処で強調してきた彼女の意図を、きっとトレイは正しく汲み取っている。
 肌が粟立つ。視界がぐらつく。諦めることを「ほんの少し」やめてみようと思えたあの日から、どうにも涙脆くなってしまって、いけない。

『彼が偽物であることよりも、本物の彼に二度と会えなくなることよりも、そうまでして私と一緒にいようとしてくれていることへの感謝を、一番に伝えたい。私を選んでくれてありがとうと、変わらず貴方のことが大好きだと、言いたい。彼が偽物であるという真実を受け入れた上で、それでも、彼の想いは変わらず本物であるという事実を喜べたなら、その時やっと私は、彼を愛していたと、彼の愛を心から信じていたと、そう言えるはずだと思いました』

 偽物であったとしても構わない、ではなく、偽物だと知った上でそちらの手を取りたいと願った彼女の覚悟。予め偽物だと知らされた上で送り込まれた彼であったとしても、本物のケイト・ダイヤモンドと何ら変わらず愛してみせようと誓える程の、決意。

『以上が、私に、偽物のケイトさんの手を取らせた理由です』

 その瞬間、何かに呼ばれたような気がして、トレイはふと顔を上げた。勿論人気などありはしなかったが、トレイの涙に濡れた目はあるものを捉えた。談話室のあちこちに漂うトランプのカードのうち、ダイヤの四が描かれたそれ。都合よく吹き込んできたと思しき初夏の生温い風に掬い上げられたカードは、薄暗い宵闇の中、くるくると楽しそうに回っていた。

「なあ、よかったな」

 カードは答えない。

「お前、こんなに愛されてるんだな」

 トレイは泣き止めない。

『私と一緒に居たところで、ケイトさんには……クローバー先輩の想定しているような幸せはやって来ないと思いますよ』
 かつてのトレイに冷たくそう告げた彼女。真面目で慎重で、公平性と誠意を重んじる質に違わない信念を抱えていた彼女。遠すぎる距離、捻れた次元を前にして、絆を結ぶことをすっかり諦めていたと思しき彼女。そんなあの子がここまで彼のことを想えるようになるまでに、一体どれ程の決意を固めなければならなかったのだろう。帰還の日、白い光の向こうで分身の手を取るまでに、一体どれ程の覚悟を決めなければならなかったのだろう。

『私にとって、これ程までに精巧な偽物を作り出してまで私との絆を守ろうとしてくれているという彼の意思は、もう二度と本物の彼に会えないという真実よりも遥かに嬉しく、幸福で、愛に足るものでした』

 長い、本当に長い時間を掛けたはずだ。沢山一人で悩み、考えたはずだ。それ以上に沢山、ケイトと話し合いの場を設けては想いを交わし合ったはずだ。
 その結果、将来に残る不安材料さえも「貴方に傷付けられることなど在り得ない」ではなく「貴方に付けられた傷なら私は何だって喜べる」とさえ断言してみせたというケイトの話を思い出し、トレイは改めて恐れ入る。傷さえ喜んでみせると断言できる程の絆を、今も遥か遠くの異世界でかたく結び続けているであろう彼女のことを、トレイはただただ、称賛したかった。

『たとえ誰に嗤われようとも、愚行だと蔑まれようとも、これが私の選択です。私は私の信じる全てを守りつつ、どんな彼であったとしても愛せるという確信にまで至れたことを、誇りに思っています』

 この眩しすぎる程の誠実さと強さが羨ましい、などと軽率に言うことは最早、できなかった。その強さだってきっと、彼女が自らの愛の証明のため、気の遠くなるような長い時間をかけて悩み抜いた結果の産物であるのだろうと容易に察しが付いたからだ。

『だからもし今のクローバー先輩に、ケイトさんや私の現状を憂う気持ちが残っているのなら、それを……この手紙と一緒に燃やしてしまいませんか?』

 そんな誠実で強い彼女が為した「即火中」という豪快の過ぎる提案に、トレイは思わず泣くことを忘れて、吹き出してしまう。そうだった。この監督生という女の子、公平であるが故に遠慮を知らず、誠意を重んじるが故に好き嫌いを隠さず、真面目であるが故に正直が過ぎており、その上、加減というものを一切知らないのだった!
 帰還の日、リーチ兄弟へと豪快に舌を出し、手をひらひらと振って追い払うという実に邪険な素振りを見せていたことを思い出しながら、トレイは涙を拭いつつ声を上げて笑った。生きやすそうにも生き辛そうにも見えた彼女の気質の全てを思い出しながら、ああ結局のところ、俺が心配するまでもなかったのかもしれないな、と、妙な安心を得てしまったのだった。

『だってケイトさん、私のことも貴方のことも寂しくさせまいとして二人に増えたんでしょう。どちらも完全には諦めきれないとして、どちらの世界でも生きていこうとしてくれていたんでしょう。それなのに、私達がその選択を悲しんでいいはずがない。彼は幸せになるために、幸せにするために、手札を増やしたんです。ならばそこにいるのがどんな彼であろうとも、私達は彼の想いを受け取って、幸せになるべき。違いますか、クローバー先輩』

「っふふ、あはは! そう……そうだな。お前の言う通りだ」

 笑いながら立ち上がった。冷たい暖炉にマジカルペンで火をくべて、パチパチと薪が燃える音を聞きながらトレイはその場に屈んだ。大きくなる炎の光に照らす形で、五枚目の手紙、最後の段落に目を落とした。

『ユニーク魔法で作られた彼の分身は最後、形を崩す際、一枚のトランプカードになると聞いています。いずれ訪れる夢の終わり、その時に残るカードを、そちらの世界にいるケイトさんのところへ届けるのが、次の私の夢です』

「……」

『私の夢物語、距離や次元に切られることのない絆は、ケイトさんが叶えてくれました。だから次の物語は、私の力で叶えていきたい。いつか、分身と寸分違わないそちらのケイトさんに会える日が楽しみです。その頃にはクローバー先輩の頭にも、白髪が混じっているかもしれませんね』

 そうだろうなと呟いてから、最後の一文『だからそれまでケイトさんのこと、よろしくお願いします』を指でなぞり、小さく息だけで笑ってから手紙を畳んで、封筒に仕舞って、両手で強く強く掴んでから、炎の上で、パッと離した。

「ああ、こちらこそケイトのこと、よろしく頼むよ」

 燃え盛る炎が封筒をまるく包む。火花が元気よくパチパチと弾ける。濃い筆圧で書かれた彼女の言葉たちが少しずつ灰になっていく。オレンジ色の文字が同じくオレンジ色の炎に飲み込まれていく様を眺めていたトレイはふと、監督生とケイトが同じデザインのボールペンを持っていたことを思い出した。
 ケイトのインクは赤色、監督生の分はオレンジ色。装飾の凝ったそのペンを、恋人らしい「揃い」のアイテムとしてケイトはとても大事にしていた。きっと監督生もそうであったに違いなかった。彼女は果たしてあれを元の世界に持ち帰れたのだろうか。図書館でケイトが至極大事そうに握りしめていたあの赤いペンは今、どちらの世界に在るのだろう。

 どちらでも同じことですよ、大事だという思いがあるのなら。
 力強くそう告げた監督生が、暖炉の底の奈落から、炎を揺らめかせるようなささやかさで静かに微笑んだ気がした。まったくもってその通りだと、トレイは思った。

 さて、この手紙はあと数分で燃え尽きるはずだ。そうしたら手早く消火をして、散らばった灰を集めて、ほんの少しだけ持ち帰ろう。そして寮を出て、ケイトを探そう。おそらく薔薇の迷路の辺りで手紙を読んでいるだろうから、早めに見つけてやった方がいい。どうせ、俺の比ではないくらい、ボロボロに泣いているだろうから。「ほら、さっさと泣き止め」と、いつかとは逆の立場であいつを励ましてやらねばならない。彼の友人で在り続ける未来と、彼女の新しい夢物語が叶う日を諦められない、一人の……普通の男として。

『そこにいるのがどんな彼であろうとも、私達は彼の想いを受け取って、幸せになるべき。違いますか、クローバー先輩』
 ああそうだとも、監督生。幸せになってやろう。
 泥も、カードも、俺達も、そう在るべく生きていいはずなのだから。何も、誰も、どんな夢物語であったって、諦めなくていいはずなのだから。

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