今世、カードの裏の泥梨より

<6>

 ケイト・ダイヤモンドの凍結していたマジカメはその日から再始動した。一日に何枚もの写真を投稿し、その全てに膨大な数の「いいね」が付いた。所謂「バズり」の常連となり、彼がマジカメ界隈での知名度を取り戻すまで、そう時間は掛からなかった。誰もがきっと、あの頃のケイト・ダイヤモンドが戻ってきたと確信したに違いなかった。
 だがトレイは知っている。百を超え、千を超え、時に万に迫りさえする「いいね」を毎日のように貰っても、それらの価値はたった一人の「いいね」の足元にも及ばないことを知っている。千や万の人々に忘れ去られようとも、たった一人に覚えていてもらえるならばそれでいいと彼が本気で思っていたことを、トレイだけは分かっている。そうしたかつての諦めのもとに今の彼があることを、トレイだけが覚えている。

 もう、マジカメは彼の「手段」ではない。彼はもう、生きるためにマジカメを起動させたりしない。ただの娯楽として、程々に楽しむための趣味として、以前よりもずっと気軽な気持ちで、心から楽しそうにスマホを構える彼を見る度、トレイは胸の奥が熱くなる。
 熱くなって、熱くなって、そしてふとした瞬間に急速に冷える。
 でも、トレイはその冷たさに絶望したりしない。彼の変化を悲しんだりしない。どんなに悲惨な状況であったとしても、彼が「もう、諦めない」ことを知っているからだ。彼が「此処にいる」「生きている」という事実こそが、彼のこれ以上ない頑張りと誠意の表れであることを、やはりいつものようにトレイだけが分かっているからだ。

「あの時は、ただお前の願いが叶わなかったことが悔しくて、そのことしか考えられなかったんだが……」
「ん?」
「監督生は、お前の知人……家族だとか、友人だとか、そうした存在に誠実であれとして、お前の本体をこっちに留め置かせた訳だろう?」

 その後、四年生になった二人はそれぞれ別の実習先を選んだ。奇しくも下宿先が近所であったために、毎日、朝夕の通学時には必ずと言っていい程に顔を合わせてはいたが、日々の相談事やちょっとした愚痴が、互いの居場所、研修先の違いによって少しずつ噛み合わなくなっていく様を、トレイもケイトもひしひしと感じていた。

「そんな言葉が出てきたってことは、監督生にも『本体のふりをして分身を置き続けることは不実だ』っていう認識があったってことなんだよな。それなのに、よくその……」
「不実の権化みたいな『分身』の方じゃなきゃ嫌だ、なんて言葉が出てきたな、って?」

 互いが身を置く場所は少しずつ離れていく。共通の話題も少しずつ減っていく。こうして毎日会うことだってきっといつかはできなくなる。けれども二人とも、そのことに悲嘆したりはしなかった。トレイがケイトのことを不安に思うことも、ケイトがトレイに対して不信を抱くこともなかった。

「あの子、言ってくれたんだよね、私なら何にも問題ないって。私は本物だろうと偽物だろうと構わない、なら本物の貴方を求めてくれるところで貴方は生きるべきだ、って」
「……恐れ入るな。俺はとてもじゃないがそんなこと、言えそうにない」
「そうだね。オレと『オレくん』の区別が付いていないならまだしも、偽物だって分かったうえで敢えてそっちを選ぼうとするのは流石に、普通じゃなかったよね。でもオレ、本当に嬉しかったんだ」
「偽物じゃなきゃ嫌だ、って言われたことが?」
「いや、それがさ」

 二人にそれぞれ訪れた「ほんの少し」の変化のおかげで、二人の明日は今日もこうして保証される。また明日、と憂いなく言い合える。

「あの子、オレのこと叱ったんだよね。それはもう凄い剣幕で」

 そう告げてから、彼はコホンと咳払いをして声を不自然に高く上げた。次いで立ち止まり、トレイが振り返ったことを確認してから、ぐいとこちらを真っ直ぐに見上げる。大きく見開いた目のまるい形が彼女にそっくりだったものだから、トレイはこの友人が何をしようとしているのかにすぐさま勘付いてしまう。

「他を蔑ろにすることでしか私を想えないような愛なんてこっちから願い下げなんですよ! 貴方のことを想っているのが私だけなんて、そんな馬鹿げた想定はすぐに捨ててください!」
「!」

 彼女の仕草や口調を真似て発されたそれは、ケイトの声であると分かっているはずなのに何故だか本当に「監督生」であるように聞こえた。並々ならぬ決意をその大きく丸い目に宿し、公平性と誠意を重んじる、ただひたすらに真面目であった人。その気質が故にある意味生きやすそうで、また生き辛そうでもあった、普通の女の子。少なからず懐かしさを覚えながら、トレイは彼女の真似をするケイトの声を、愉快と穏やかさの混じった不思議な心地で聞く。
 叱られるという行為、またはそれを想起させるものにトレイは若干の苦手意識があったはずだが、今、迫力のある彼女の怒声の再現を聞いても、幼少の頃のささやかなトラウマはトレイの脳裏で暴れ出したりはしなかった。あんなこともあったなと、本当に辛く苦しかったことさえ笑い合える時間があることを、トレイは改めて有難く思った。

「それに、私に偽物を宛がうことで私が将来傷付きやしないか、なんて心配、杞憂もいいところです。どんな苦痛も喪失も孤独も、貴方がくれるものなら何も怖くありません。血でも涙でも喜んで流してやります。甘く見ないでください、私のこと!」
「……ふっ、あはは! そうだ、そんな感じだった! 似てるじゃないかケイト」

 そして、その怒声を完全に彼女のものとして聞きながらぼんやりと、ああ確かに彼女が憤るのも無理のないことだったな、と考えてしまったのだった。

 ひたすらに真面目であった彼女のことだ。禁術レベルにまで磨き上げたユニーク魔法を使って「存在を二つに分ける」という、その試みにさえ最初は懐疑的であったに違いない。魔法のない世界から来た人間にとって、同じ姿をした人間が個々の自我をもって動く光景はおそろしく異様に映ったことだろう。
 加えて、その「分身」の方をこちらの世界に置いていくつもりだという話もまた、彼女を激昂させるに十分な威力を孕んでいたはずだ。公平性と誠意を重んじる彼女が、分身を本物と偽ってこの先ずっと生きていく、などという「不実の極み」に賛同してくれる可能性など、最初からないに等しかったのだ。

 ただ、彼女はその真面目で公平で誠実なその気質故の怒りではなく、更に別のところを起源として、ケイトに猛烈な憤りを抱いていたようだった。「甘く見ないでください」……つまり彼女は、自らの想い人であるケイトに「自分の想いを軽んじられた」から怒ったらしい。そして彼女の憤りに今更気が付いたトレイもまた、彼と同じく、監督生の想いとやらを甘く見ていた人間の一人に過ぎなかったのだろう。

 偽物でもいい。区別の付いてしまうトレイにはそうは思えなかった。区別が付かないが故に監督生はそう思えた。友人であるトレイと、恋人である彼女を分けた違いはそれくらいのものだろうと思っていた。トレイはそのように「甘く見ていた」のだ。
 監督生の想いはそんな軽いものではなかった、ということが分かる。生半可な覚悟ではなかったということも察しが付く。でもそれらが「どれ程」であったのかを推し量ってはやれない。そんなことができるほど、トレイは彼女のことを知らない。

「っていう感じでさ、なんていうかもう、本当に凄い怒声だった。あの子にあそこまで言わせた自分が、マジでダサくて、恥ずかしかった。だからもうあの子の言葉が虚勢だろうが何だろうが、信じてあげるしかなくなっちゃったんだよね」
「……」
「それでオレも、あの子に付けられた傷を喜んでみようと思った。同じものを喜び合えたなら、信じ合えたなら、それってちゃんと『公平で誠実』だと思わない?」

 監督生の気質になぞらえた言葉を紡ぎ、彼は笑った。そうだな、その通りだと力強く同意して、トレイは足を止めて、目を閉じた。
 目蓋の裏では五人に分身したケイトが、白い薔薇を見事な手際で赤く塗り替えている。記憶に色濃く焼き付いた、ハールラビュル寮での思い出だ。あの手札たち……ケイトが次々に繰り出していた分身のことを、彼女は一体、どう見ていたのだろう。

「……トレイくん?」
「いや、何でもない。話してくれてありがとな、ケイト」

 軽く首を振ってから目を開き、トレイは彼の制服の胸元を一瞥してから笑った。彼もその視線に気付いたのか、胸ポケットからマジカルペンを取り出し、夕方の空にかざしてひらひらと振った。
 彼のマジカルペンにはあの日以来、赤い魔水晶の半分を占める程のブロットが常に溜まっている。食事を摂っても、十分に休んでも、その汚れが落ちることはなかった。彼は何も語らなかったし、この件に関してはトレイもお得意の「思っていても言わない」を貫いていた。だがおおよそ推察はできる。要するにそのブロットこそが、遥か遠い異世界において彼の分身が今日も元気に生き続けていることの証明であるのだろう。
 魔法士の生命線でもある魔水晶、そこに溜まった「汚点」とも取れる濃いブロットを、けれども彼は実に誇らしそうに目を細めて眺めるのが常だった。その笑顔を彼女に見せてやれないことを、トレイはひどく残念に思った。

 彼女とはもっと話をしておくべきだったな、というちょっとした後悔がトレイの胸にストンと落ちていった。もうどうにもならないという点において、それは正しく「後悔」と呼ぶべき代物に違いなかった。

 その「話」の機会が、彼女からの一方的なものであるとはいえ思わぬ形でトレイのもとへとやって来たのは、そうした日々が一年近く過ぎた卒業式の前夜のことだった。式典に出席するため、久々に学び舎へと戻ってきた二人は、かつてのクラスメイト達への挨拶もそこそこに寮長からの呼び出しを食らったのだ。駆け付けた先、リドルの手でケイトとトレイに一通ずつ手渡された便箋、その差出人の欄にはオレンジ色のインクで監督生の名前が綴られていて、二人は顔を見合わせて驚くこととなった。

「二人の卒業に合わせて渡してほしいと、去年、彼女に頼まれていたんだ。今すぐ読んでくるといい」

 ケイトに手渡された、ノートのように分厚いそれと比べると、トレイへ宛てられた分は非常に寂しい量でしかないように思われた。けれども封を開ければ、濃い筆圧で五枚に渡りびっしりと書かれた彼女の言葉が目に飛び込んできて、これは相当の覚悟を決めて読むべきだろうなと瞬時に察し、トレイは思わず苦笑してしまったのだった。

「……ははっ、してやられたな。こんなことなら俺も、お前に何か書き渡しておけばよかった」

 たった五枚でこんなにも感慨深いのだ。これよりも遥かに分厚い封筒を渡されたケイトは今頃号泣しているのではあるまいか。そんなことを考えながら、トレイは人のいない談話室の椅子に腰かけて、順番に読み始めた。
 一枚目には俺の卒業を祝うための、実に礼儀正しい言葉から始まり、お菓子を頻繁に貰っていたことへの感謝、何でもない日で食べたトレイお手製のケーキが本当に美味しかったこと、リドルとの関係についてのちょっとした心配、卒業後の活躍についての応援と激励……など、当たり障りないことが監督生らしい真面目な文体で書き連ねられていた。
 二枚目と三枚目には監督生自身のことについて、トレイの前では最後まで見せることのなかった弱気な部分が少し、書かれていた。気丈に振る舞ってこそいたものの、右も左も分からない場所で暮らす日々は不安と恐怖の連続であったこと、そのため校内ですれ違う度にトレイと交わしたちょっとした挨拶や世間話にひどく励まされていたこと、マジフト大会を終えた次の日に「ケイトを頼む」と言われたことが本当に嬉しく誇らしかったこと、にもかかわらずケイトがあのような決断をしたことで、彼の友人であるトレイに恨まれていやしないかと心苦しく思っていたということ……。

『ケイトさんの本体を残しても、分身を置いて行っても、貴方は相応に傷付いたことでしょう。貴方に『頼む』とまで言ってもらえたにもかかわらず、私はケイトさんや貴方を苦しめる選択しかできませんでした。こうして言い訳がましく謝罪の言葉を書いてはいますが、正直……此処まで読むまでもなく、この手紙はもう貴方に破かれてしまっているかもしれないとさえ覚悟しています』

「おいおい、そんなことしないさ。これでも喜んでいるつもりだよ。思いがけずまた、お前と話をする機会が手に入った。もっと話しておけばよかったってずっと思っていたところだったんだ」

 そんな風に苦笑しながら読み進めていく。監督生は当然のことながら、トレイのことだけでなくケイトのことにも言及していた。彼との馴れ初めがどうであったとか、どんな時間を共に過ごしてきたかとか、そうした、一歩間違えれば惚気になりそうなことは一切書かないまま、真面目な彼女は簡潔に、けれども切実な言葉ばかりを使って、トレイの本当に知りたかったことだけをこの手紙の中へと置いて行ってくれていた。

『遠すぎる距離、捻れた次元、そんなところで結んだ絆はいつか千切れる。私はずっとそう考えていたので、ケイトさんに限らず、誰のことも嫌い過ぎないように、好きになりすぎないように、していました。でも彼はそんな私の保身を笑うように、私の一番欲しかったものを差し出してくれたんです。夢物語だと思っていた「距離にも次元にも切られることのない絆」を、私のため、私と一緒にいるために魔法で結ぼうとしてくれている。私が彼の気持ちを信頼する理由、保身をかなぐり捨てて彼を想う理由など、それだけで十分でした』

「……うん、知ってるよ。ケイトがどれだけお前のことを好きだったか、俺だってよく知ってる。疑ったことなんかないさ」

 そう独り言ちつつ静かに笑う。自らの涙腺が緩むのをトレイは感じて、参ったな、と呟きつつわざとらしく瞬きをする。事情も理由も大きく違えど、他者と距離を取って暮らすことで安寧を得ていたのはトレイもケイトも監督生も同じだったのだと認識し、その在り様が大きく崩れた今という時間を改めて得難い、本当に稀有なものだと思った。その起点には勿論、監督生がみんなにもたらした「ほんの少し」の変化があった。その変化のおかげで、ケイトもトレイも、それぞれが意識して作っていた距離を踏み越えることが叶ったのだ。
 その結果、長く保っていた安寧が崩れ、それぞれが大きく苦しむことになったとしても、……その「苦しみの喜び方」は、他でもない、誰よりも苦しかったはずのあの友が教えてくれた。だから問題ない。苦しいけれど、構わない。

 さて、きっと次くらいで留めを刺しにくるのではないかと覚悟しつつ四枚目を取り出したのだが、トレイのそうした予想に反し、彼女は「ところで」などという、これまでの話の流れをぶった切る接続詞を文頭に置き、突拍子もない話題を出してきたのだ。

『ところでクローバー先輩、思考実験はお好きですか?』
 

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