今世、カードの裏の泥梨より

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「俺はお前と一緒に、同じように苦しめているものと、これからもそうできると思っていたよ。事情は違えど、ありのままでいられない生き辛さは同じ色をしていて、それを……互いに尊重し合える関係だった。俺も居心地がよかったんだ、お前と一緒にいるのは、とても」
「……うん、教えてくれてありがとう」
「なあケイト、辛いのは今だけかもしれないじゃないか。社会に出て、自分の居場所を自分で選べる存在になれたならきっと……状況は変わるはずだ。何も今、此処までのリスクを冒さなくたって」
「うん、それはオレも少し思ったよ。でもねトレイ、忘れているみたいだけどさ」

 その後に続く言葉がもうトレイには分かる。分かってしまう。だって彼の心の過半数はもう、まともに生きていかれるかどうかさえ分からないような異世界に、そこに戻らんとするあの少女に向けられているのだから。

「オレ、この世界から逃げるためにこんなことをしているんじゃないんだよ。あの子といつまでも一緒にいたいから、あの子に忘れられたくないから、あの子の思い出になりたくないから、行くんだよ」

 そんな旅路の危険性を彼は全く顧みない。向こうでどんな悲惨な生活を強いられようとも、社会に適合できず野垂れ死にすることになったとしても、構わないとさえ思っている。どんなリスクも、どんな損失も、「あの子と一緒に生きられる」のならば全部帳消しなのだ。他には何も要らないのだ。何も。

「あの子の『いいね』が欲しいんだ。もう、それだけでいいって思っちゃったんだ」

 ほんの数週間前まで毎日のように大量に貰っていたであろう、マジカメの評価ボタン「いいね」になぞらえて、彼はそう言った。
 監督生はマジカメを使わない。スマホは支給されているらしいが、彼女はSNSやネットニュースにおける流行り廃りとは無縁の場所にいた。そんな彼女から「いいね」を得ることの重みはトレイでさえ察せてしまう。スマホの液晶画面を通してではない、ありのままのケイト・ダイヤモンド。それに付けられる心からの「いいね」があるとするならば……成る程それは確かに彼にとって、かけがえのないものになるに違いない。

 今をラフに、楽にと心がけて生きてきたはずの彼が、苦しみながらも誰か一人を此処まで必死に、切実に想うことを選んでいる。残りの人生、全てあの子と共に在りたいという熱意と、こちらの世界を完全に見限ってしまいたくはないという情とが彼の中に混在するせいで、彼はその身を二つに分かとうとするような禁術の開発に勤しんでいる。
 これはきっとそういう、愛みたいなもののせいだ。この痛みも後悔も、愛のせい。そうした仮説を立てることで、今この場においてトレイは僅かながら救われた。そうとでも思っていなければ、遣る瀬無さと寂しさで気が違ってしまいそうだった。

「許してほしい、トレイ」

 笑顔のまま、絞り出すように紡がれたその言葉に、果たしてどこまで応えることができるだろうかとトレイは考える。俺はこの友人の為したこと、これから為そうとすることを、さて、どこまで許せるだろう。

 少なからずトレイを楽しませてくれていたマジカメの投稿をいきなり絶やしたこと。文化祭の盛り上げ役として期待されていたその役柄を放棄し、このような静かな場所で勉強漬けになっていること。自らのユニーク魔法と親和性が高いからなどという驕りのもと、その身を滅ぼしかねないような禁術レベルの魔法の習得に躍起になっていること。その魔法でケイト・ダイヤモンドを二人に分けようとしていること。分身の方をこの世界に置き去りにして、本体はあの子と一緒に、おそらくは二度とは戻ることの叶わない場所へ向かうつもりであること。残された分身の世話を、あろうことかトレイに求めてきたこと。そんな「彼らしくないこと」を無数に積み上げてまで叶えたい願いが「誰かに忘れられたくない」「誰かの思い出になりたくない」という、ひどくささやかで臆病で、トレイにだって叶えてやれそうな……でもこの対話の場を設けなければ叶えてやりたいと思うこともなかったであろうものであったこと。その願いの先にいた「誰か」が監督生であったこと。彼は彼の愛のために「共に生きたい」という至極まっとうな願いを叶えようとしているだけであること。

「許すよ、全部」

 それら全てを咀嚼し飲み下したトレイが出した結論に、彼は一瞬、笑顔を引きつらせた。まさかそう返ってくるとは思っていなかった、というような、少し間抜けで馬鹿正直な驚きの表情がそこにあった。場違いにもトレイは少し笑いたくなった。小さく吹き出した彼に染まるようにして、ケイトも頬を緩めた。

「お前のしたことで何が許せないか、考えてみた。でも結局、許せないものなんか何一つなかったよ。どれもお前が本当にしたくてしたことだ。お前がお前の願いのために生きようとしているだけのことだ。お前の想いもお前の願いも、否定されるべきものじゃない。これで俺が『許せない』なんて言おうものなら、それはもうきっと、ただの僻みだ」
「……」
「話してくれてありがとう。さっきは急に怒鳴って悪かったな。でもそれだって許してくれよ? 仲間を失いたくなくて、駄々を捏ねていただけなんだ。俺だって寂しかっただけなんだ」

 足掻くだけ足掻いた。トレイが繰り出した手札の一つ、どれか一つでも、もしかしたら彼の心変わりの一助になってくれやしないかと、祈るように一回一回、深呼吸を重ねながら言葉を紡いだ。その全てがこうして彼の穏やかな、かつ嬉しそうな笑顔に躱されてしまった今、トレイにできることは何もない。諦めるしかない。諦めて、受け入れて、彼を送り出す準備をして……。
 大丈夫だ、上手くやれる。この友人のためならそれくらいのことは造作もなくできる。トレイ自身を蝕む苦痛は塗り替えてしまおう。苦痛さえ思い出に変わってしまうような遠い時まで、何度でも、何度でも。

「まあ、此処までトレイのこと落ち込ませておいて、実はそんな魔法完成しませんでした! っていうオチになる可能性の方がずっと高いんだけどね」
「できるさ。お前ならできる」

 ほぼ空っぽになった心のまま、絞り出すようにそう告げた。なんとなく、応援の言葉をかけるならこの形が相応しいような気がしたし、何よりトレイ自身がこの友人の限界を見てみたいと思ったのだ。
 おかしな法で統制されたハーツラビュル寮、問題ばかり起こしがちな寮生たちを束ねる位置にある上級トランプ兵。普段は寮長の好む秩序のために暗黙の了解として「大人しくしている」彼が、このような形で見せた本気はトレイの心地を湧き立たせていた。彼は、俺の友人は、己が野望のためにどこまでやれるのだろうと、俺もいつか何を犠牲にしてでも欲しいものが出来たとき、彼ほどの力を出せるだろうかと、そんなことを思って少なからず、わくわくしたのだ。

 大丈夫だ、俺はまだ待てる。そんな変化が我が身に起こるまではじっとしていられる。友人は一足先に旅立った。それだけのことだ。

「ありがとう」
「……」
「オレ、絶対完成させるよ。形が崩れるその時まで、誰にも分身だってバレないような、完璧に精巧で丈夫な『オレくん』にしてみせる。だから傍に置いてね。それなりにでいいから『オレくん』のこと、大事にしてあげてね」

 不自然な鼻声と語尾の震えに、トレイは小さく笑いながら「勿論だ」と相槌を打ちつつ顔を伏せた。
 ああ、そんな風に感極まってくれるくらいには俺に情があるのかと再認識し、やはり嬉しくなる。嬉しくて、虚しくて、泣けてきてしまいそうになる。

「トレイも……恋、してみなよ。これ、本当に凄いんだって」

 そうだろう、そうだろうとも。それはもう凄いものであるに違いない。あのケイト・ダイヤモンドに「ここ」までさせるものなのだから。マジカメを己が楽しみとラフさの象徴として行使し続け、「今」の保証に躍起になるばかりであった彼に、ずっと先の未来まで求めさせる程度には力のあるものなのだろうから。

「『映える』のを撮るのが馬鹿らしくなるくらい、面白いことを探さなくてもよくなるくらい、いつ何処で何を見ても楽しいんだ。何もかもが鮮やかなんだ。世界の彩度がびっくりするくらい上がるんだよ」

 トレイは顔を上げた。彼はへへっと照れたように笑いながらボールペンを置き、両手の親指と人差し指で小さなフレームを作った。彼の目から見たそのフレームには、泣きそうな表情をしたトレイが映っているに違いなかった。
 一方、トレイの目で見るそのフレームには、ピントを合わせるように左目を瞑った彼の笑顔がいっぱいに詰め込まれていて、トレイはその眩しすぎる笑みが、彼自身の手によってマジカメに「本日のケイくん」として投稿されないことを、心から残念に、そして寂しく思った。

「まるで魔法みたいに」

 それからの日々に関して、トレイから語れることはあまり残っていない。監督生はこれまで通りの在り方を貫き、あらゆるトラブルに巻き込まれる形で介入しては、魔力の一切を持たない身でありながら、確実に何かを残していった。ハッピーエンドを招かぬまま、それでも彼女はみんなの何かを「ほんの少し」ずつ、救っていった。その順番は奇しくも、今年の入学式の数日後にトレイが監督生の前で説明した寮の順番と、ひとつも狂わぬことなく綺麗に揃っていて、故に「ああきっと次で終わるのだろう」と、「あの寮に揺蕩う高尚な精神にほんの少しの変化をもたらすことが、きっと彼女の最後の役目なのだろう」と、極自然に思えてしまったのだった。
 多少の誤差はあったものの、異分子を連れた時間は概ねその通りに流れた。その裏でケイトと監督生がどのような時間を過ごしたのかに関してはトレイの知るところではない。ただ更新が絶えたままのマジカメが「彼がまだ諦めていない」ということを沈黙のうちに示唆していた。そして薔薇塗りの際に必ず現れ出ていた分身の質……一度に出せる数であったり時間であったり、個々の分身が繰り出せる魔法の強さであったり、そうした全て……の向上が「彼がユニーク魔法の精度を順調に磨いている」ということを、雄弁に示していた。

 そんなある日、一度だけ、ケイトが監督生を連れてデートに出掛けたことがあった。彼はあろうことかそのデートの予定日を、ハーツラビュルの重要イベントである「何でもない日」にぴったり被せてきたのだ。

「さあトレイくん、今日も手際よく行こっか!」

 そう告げて、トレイの肩を叩き微笑む寮服姿のケイトが、ユニーク魔法で増やした分身の方であると気付くのにそう時間は掛からなかった。けれどもトレイはそれを指摘しないままに相槌を打ち、マジカルペンを手に取った。それが本体であろうが分身であろうが、薔薇を完璧に塗り分けた上でパーティーをつつながく終えられるなら、トレイとしてはもうそれでよかったのだ。

 目の前に現れる彼が本体であるか分身であるか、彼にあのような話をされるもうずっと前から、トレイはなんとなく判別が付くようになっていた。見分けるためのポイントがあるとかそういうことではなく、本当に感覚として「違う」と思ってしまうのが常だった。けれどもそれを彼自身に指摘したことは一度もない。トレイとケイトの関係において「彼が本物でなければならない理由」など、存在しなかったからだ。
 寮生として、一枚のトランプ兵としての動きを果たすのに、本物である必要はついぞない。プライベートな出来事でトレイと一緒に遊んでいるときだって、本物と遜色なく分身が楽しんでくれるのならば特に拘りはなかった。その体の真偽などいちいち問いたくはない。それが分身であったとしても「今日はこちらよりも大事な用事が別にあったのだろう」と解釈し、一人静かに納得すればいい。事実、トレイはこれまでにも何度かそうやって、分身との時間を何度も過ごしてきた。今回も、そうすればいいだけの話だった。

 ただ、いつもなら薔薇を塗る際に五人にまで数を増やすその分身が、この日はずっと一人のままであったこと。パーティーを終え、翌朝の食堂で顔を合わせたときもまだ分身の方が出てきていたことが、トレイの不安を煽った。その後、本体は無事にトレイの前へと姿を見せたが、それはあの「何でもない日」から一週間が経過した後のことで、その間、何食わぬ顔で授業へと出席し、共に食事を取り、クラスメイトと談笑していた分身の方の彼を思い出しながら、トレイは彼のユニーク魔法が恐るべきスピードで進化していることを改めて思い知り、こっそりと戦慄したのだった。

「おかえり。どうだった? この一週間、楽しかったか?」

 お前、本当にやり遂げてしまうんだな。
 そう念押しする代わりに笑顔を湛えた。詰問する代わりに迎え入れた。彼は大きく目を見開いてから、ひどく大きな所作で笑いつつ、「もう何度も言ったことだけどさ、その、思ってても言わないってヤツ、どうかと思うな!」と、いつもの抗議を為した。笑顔での抗議ただ一回、それだけで、彼は俺が「ずっと前から本体と分身の区別が付いていたことを隠していた」という事実を、あっさりと許した。

「いろんなところへ行ってきたんだ。薔薇の王国に夕焼けの草原、輝石の国にちょっとだけ里帰りしてから、珊瑚の海にも……。アズールくんってマジで凄いんだね、丸一日水中にいても平気な水中呼吸薬なんて、大人でもなかなか作れないよ!」
「おいおい、そんなところにまで……って、ちょっと待て、アズール? お前、あの寮長と契約してきたのか!」
「あっ駄目だよ、表向きはポイントカードの利用で受け取ったってことになってるんだからさ。まあ、ちょっとカードの枚数が足りなかったみたいで、その分は労働力で支払ったんだけど」
「労働力?」
「今回、オレくんはもう一人いたんだよね。その一人がさ、モストロラウンジに引きこもってずーっと野菜を切る仕事をしてたってワケ。へへっ、こっちはいくらトレイくんでも気が付かなかったでしょ?」

 お土産だよ、と告げて、彼は小さな鞄の中から様々な小瓶やパックを取り出してきた。各地の有名かつ高価な香辛料や調味料の類がずらりとテーブルの上に並べられる様を、トレイは茫然と眺めることしかできなかった。

「あの子の分のお土産は買ってないんだ。だから内緒にしてね」

 そう念押ししてから、ケイトはろくに話せなくなったトレイの前で、各地で印象深かったことを土産話として沢山、沢山聞かせた。
 夕焼けの草原にそびえたつ険しい岩場が、眩しい夕日を受けて宝石のように煌めいていたこと。薔薇の王国では洒落たレンガ造りの街並みを歩きながら、花の香りのするソフトクリームを楽しんだこと。何の連絡もなしに突如実家へと帰省し、姉二人を含む家族をとんでもなく驚かせてきたこと。珊瑚の海はリーチ兄弟から聞いた話と遜色なく、冷たく薄暗く生き物の気配に乏しい場所で、だからこそ水上へ上がるギリギリのところで揺らめく青と緑の水の色がそれはそれは美しかったこと。初日の「何でもない日」に監督生を連れて出かけたのは賢者の島、RSAとNRCを挟んだところにある海辺で、監督生が偶然、足元にあるシーグラスを見つけたことをきっかけに、日が暮れるまで色の付いた丸いガラス集めに勤しみ、風邪が危ぶまれる程に体を冷やしたこと。そして、それら全てを沢山……本当に沢山、写真に収めながら、けれどもマジカメにはただの一枚も投稿しなかったこと。

「オレ、楽しんできたよ。この学園の外でできること、きっともう、一生分」
「……」
「今まで、何でもかんでもマジカメで共有してきたからさ、この一週間が本当の意味でオレだけのものでしかないってことが、すごく新鮮で、嬉しかった」

 この世界を発つ準備を着々と進める、そんな友を引き留めるだけの力がトレイにはない。だからトレイが今の彼に何を思おうと、どう感じようと、どんなに辛かろうと苛立とうと寂しかろうと、ただ相槌を打って同意するしかない。

「俺はこれからもお前のこと、お前がいなくなったって同じように旅行へ連れ出すよ」
「えっ?」
「楽しもうな、これから……卒業してからもずっと」

 トレイとケイトの関係において、彼が「本体でなければいけない理由」など、一つも存在しなかった。彼がいつもいつでも本体である、ということを強いるような窮屈な関係に拘泥したくはなかった。たまに本体の代わりとして現れる分身を、彼のささやかで可愛らしい不実として一人静かに飲み込み許すことが、これまでならできていた。翌日になればちゃんと本体が現れてくれるだろう、今日はたまたまそういう気分だっただけだ……そう思うことで、トレイはこれまでもこっそりと、彼の秘密を守ってきたのだ。
 その本体にもうすぐ、もう二度と会えなくなる。翌日になればちゃんと本体が現れてくれるだろうと思えた、その「翌日」が二度と来なくなる。そうした想定は殊の外、トレイには堪えた。そしておそらくは「彼が本体ではない」「本物はもうこの世界の何処にもいない」という事実を、その事実に気付いてしまうトレイただ一人だけで一生抱え続けていかねばならないことも、それと同等の苦しさを孕んでいることだろう。

 ただの一度でも「本体で来てくれ」「分身を寄越すなんて水臭い真似をするな」と、我が儘に近い主張をしていれば、何かが変わっていただろうかと、トレイは思う。そんな我が儘、長男として生まれ、息をするように「譲渡」「妥協」を繰り返してきた自分には、とてもできなかっただろうなということも弁えながら、それでもトレイはめでたい仮説を立てずにはいられない。自分にもし、我が儘になれる素養があったなら、もう少しマシなハッピーエンドを掴み取れたのではと思わずにはいられない。

 ……ああ、でも俺がそんな我が儘な有様であったなら、きっと俺達は友達にさえなれなかった。

「寂しくないさ。だってお前はちゃんと、いてくれるんだから」
「……」
「大丈夫だ、よく分かったよ。お前のユニーク魔法はもう完璧だ。二人に増えても三人に増えても、どれもやっぱりケイトで、俺の友達であることに変わりなかったんだな」

 こちらの世界に残される彼が分身であるという真実も、寂しくないなどという嘘も、いよいよ限界になってしまうなら塗り替えればいい。真実を嘘へ、嘘を真実へ。生きやすいように塗り替えて、生きづらい世界を生きていく。トレイはもう己が武器を行使することを惜しまない。楽になる道を選ぶことを、躊躇わない。
 

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