今世、カードの裏の泥梨より

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 トレイ・クローバーが「それ」に気が付いたのは、冬休みが明けた頃のことだったように思う。
 二月に開催される総合文化祭に向けて、学園中が落ち着かない空気を見せ始めており、トレイもまた己がサイエンス部の活動、および実行委員長を務めるリドルの補佐として慌ただしく動き回る日々を過ごしていた。学園に「監督生」という異分子がいるという一点を除けば、去年とさほど変わらない状況であったように思う。そう、さほど変わらない。けれどもトレイは強烈な違和感を覚えていた。
 耐え難い違和感、不安さえ覚えてしまうその変化。けれどもその正体に辿り着くまでにトレイは少々時間を要した。彼がこの時期、いつも以上に多忙だったから、というのも勿論あるが、一番の理由として、トレイが「喪失」にひどく鈍い人間であったから、ということを前置きしておかなければいけない。

 トレイは誰に対しても一線を引き、適切な距離で接するのを常としていた。ある一定まで距離を詰めることも、詰めすぎた距離から即座に離れることも得意だった。ただそれらの歩み寄りも後退りも、トレイの望む「程々」のために行われているものであったため、彼は「自分のために」歩み寄る方法を知らなかった。失われたものを取り戻すためにどう手を伸ばしたらいいか、その知識も技量もトレイにはついぞ欠けていたのだった。
 そもそもの問題として、取り戻すための手が彼にはもう余っていない。彼の体に生える二本の腕のうち、一本を家族もとい家業へ、もう一本を幼馴染かつ寮長の彼へと差し出すので精いっぱい。だから何かをこの手から取り零したとして、掬い上げることができない。どうせ掬い上げられない喪失ならば、気付かぬままに忘れ去った方がいい。喪失による悲嘆も、強すぎる執着も、彼の目指す「程々」には不要な代物に違いなかった。
 失ったことに気付かず、悲しむことなくそのまま忘れてしまえたなら。あるいは気付いてしまったとしてもそのまま仕方がないと放り捨ててしまえる程度の執着であったなら。そう意識して一線を引いてきたはずだった。そうした結果、トレイの人生はずっと楽なものになった。

 それでも今日、トレイはその楽な生き方をかなぐり捨てて、失われようとしているものの正体に辿り着いた。喪失による悲嘆を覚悟し、強すぎる執着を認めた上で、「これ」を取り零す訳にはいかないと判断して此処へ来たのだ。
 ほんの半年前なら絶対にこんなことしなかったろうな……と、図書館への道を歩きながらトレイは思う。彼に起きた「ほんの少し」の変化は間違いなく彼を戸惑わせていた。けれども彼をうんざりさせるような変化でないこともまた確かだった。

 彼の感覚を以前より鋭敏にし、また彼を以前より少しだけ諦め悪い性へと駆り立てたのは、間違いなく、三年生になってすぐの頃に起きたあの事件であろう。幼馴染であるリドルのオーバーブロットを経て、トレイは「ほんの少し」変わった。
 その「ほんの少し」の変化を経ているのは何もトレイに限ったことではない。リドルも、サバナクロー寮やオクタヴィネル寮の彼等も、詳しくは知らないがおそらくスカラビア寮の面子だって、それぞれの寮で起こった「何か」を経て少しずつ変わっていた。その変化の起点には必ずと言っていい程に彼女がいた。
 ならばこの変化さえもきっと、彼女の仕業に違いない。

「ケイト、此処にいたのか」

 図書館の一階、自習のための机が並べられているエリア、その一番端に彼はいた。机の上に本が数冊積み上げられており、特に分厚く大きな一冊はノートの隣に広げられていた。装飾の凝ったボールペンのヘッドを時折カチカチと鳴らしつつ、ノートへ熱心に何かを書き込んでいた。愛用のスマートフォンは積み上げた本の壁の向こう側、彼が立ち上がって身を乗り出さなければ届かないような位置に画面を伏せて置かれていて、トレイは一瞬、笑うことを忘れそうになってしまう。

「あれっ、トレイくん。おつかれー!」

 彼がスマホを伏せて……画面の見えない状態で机に置いているところを、トレイは初めて見た。

「こんなとこでどうしたのさ。サイエンス部の準備はしなくていいの?」
「いや、カフェのアイデアに煮詰まってさ。今の学園で一番人のいなさそうな場所をと思って此処に来たらお前がいたから、びっくりしたよ」
「へへ、そっか。ちょっと仮眠でもしてく? ケイくんタイマーが一時間きっかりで優しく起こしてあげるよ」
「はは、それじゃあお言葉に甘えようかな。向かいの席、いいか?」
「もっちろん! はい、どーぞ」

 椅子をそっと引いて、深く腰掛ける。肘を掴むようにして腕を組み、そこを枕にするようにして頬を乗せた。彼はそんなトレイの様子をニコニコと微笑みながら見るだけで、身を乗り出してスマホを手繰り寄せることも、図書館でくつろぐトレイくんとかレア画像じゃん、とはやし立てることもしなかった。
 パシャ、という撮影音。ピロン、という投稿音。画面いっぱいに表示されるトレイの寝顔。ハッシュタグが付くとするなら「#副寮長休憩中」「#いつもお疲れ様」「#意地でも眼鏡は外さない」「#まだ起こしちゃ駄目だよ」とか、その辺りだろう。
 その一連の流れこそがケイト・ダイヤモンドの常であったし、そうした友に写真を撮られること自体がトレイの常でさえあった。今は総合文化祭の準備中で、多くの生徒がマジカメの投稿機能を利用している。その流れの中にトレイの寝顔は埋もれていくはずで、故に獲得する「いいね」の数はやや少なめになるだろう。それでもマジカメ界隈では相当の知名度を誇るケイトの投稿だ、三桁を超える反応を得られることは想像に難くない。事実、去年も一昨年もそうしていた。三年に上がってからも、マジフト大会の事故があった頃も、期末テストを直前に控えていた時期でさえ、彼の投稿は止まなかった。

「VDCのオーディション、残念だったな」
「ああ、あれ? 別にいいのいいの! 思い出作りのために応募しただけだったから、むしろ落とされてラッキーって感じ? 本気で最高の舞台を作ろうとしてるみんなの中に、オレみたいな気持ちの奴が混ざっちゃ失礼でしょ、きっとね」
「軽音部の活動は?」
「うーん、今のところはリリアちゃんに任せてる。オレ一人いなくても何とかなるっしょ!」

 この頃は学園全体が総合文化祭に力を注いでいる時期であったため、授業の宿題は常よりも大幅に量を減らしていた。勿論、近日にテストなどあるはずもないし、大きなレポート課題も出ていない。文化祭に力を入れなくていい運動部の生徒達もまた、基本的に活発でお祭り好きであるため、文化部の準備にちょっかいを出しに行ったり、あるいはその体力や運動能力を買われて手伝いに駆り出されていたりなど、何らかの形で総合文化祭に関わることがほとんどだった。故に図書館の人気は皆無に等しく、誰の靴音も、誰の声も聞こえなかった。そんな中で何かに憑かれたかのように一心不乱に勉学へと励む生徒の「異様な」姿は、トレイの心臓を跳ねさせるに十分な威力を孕んでいた。

「なあケイト、そのスマホさ、調子悪いのか?」
「んーん、ちゃんと動くよ。何にも問題なし!」
「最後に投稿した写真、覚えてるか?」
「うん、ルークくんがオーディション合格者に向けて飛ばした矢に、一年生の子たちがびっくりして腰を抜かしちゃったところでしょ? みんなの顔、最高に面白かったよね! あれが実質、エーデュースコンビの合格祝いになっちゃってさ。OBの先輩たちも『#VDC出場決定』のタグを見つけて拡散してくれたから、あの投稿だけ『いいね』の数が桁違いで」
「あれ以上に楽しいものはもう、見つかりそうにないか?」

 一向にスマホへと手を伸ばさない彼に代わり、トレイは自らのポケットから己がそれを操作してマジカメを開いた。トレイのマジカメは所謂「閲覧用」とでも言うべき代物で、アカウントを作ったその日にテスト投稿したケーキの写真を除き、一切の投稿がなかった。けれども副寮長という役柄上、あらゆる寮の生徒と話をする機会だけは多く、「本当に見るだけのアカウントだが、それでもいいなら教えておこうか」という決まりきった前置きのもとに、相互フォローというものをかなりの数、増やしていた。
 タイムラインへ毎日のように流れてくる、知人たちが投稿したと思しき数多の写真、トレイはそれに反応することもあったししないこともあった。見ていて不快になるようなものがあれば遠慮なくミュート設定にした。そんなトレイがリアルでは勿論のこと、SNS上では殊更に信用を置いているのがこの人物、ケイトのアカウントだった。彼は人を不快にさせるような投稿を絶対にしない。悪だくみや攻撃の手段として彼のマジカメが使われることはトレイの知る限りでは一度もなく、故にトレイのマジカメのタイムライン上においては、彼の投稿が唯一信用のおけるものであり、絶対の安寧であったと言ってもいい。
 そして今のトレイのマジカメには、その「安寧」が全く見当たらない。

「あれ以来、お前の投稿を見ていないんだ。写真が気に入らなくて後で片っ端から消しているのかとも思ったが、そうじゃないらしいな」
「えっ、そんなことトレイくんに分かりっこないでしょ? マジカメなんて、いつも一日に一回くらいしか見てなかったじゃない」
「思うところがあって、ケイトの投稿に通知機能を付けた。だからお前が後で投稿を取り消したとしても、オレのスマホには『投稿した』って事実だけは確実に残るようになってる」
「げっ、勝手に何してくれちゃってんの……。いや、まあいいけどね。それだってマジカメの使い方だし」

 投稿がなくなった、という、ただそれだけの事実ならトレイはもう随分と前、彼の投稿が三日絶えた時点で気付いていた。毎日あれだけ楽しそうに投稿を続けていた彼のマジカメが止まったこと、もう既にそれだけで異常事態には違いなかった。ただ、その段階ではトレイは動けなかった。トレイが本当に気付かなければならないのは「そんなこと」ではなかったからだ。

 彼のマジカメは趣味である。同時に彼が「今をラフに、楽しく生きる」ための手段でもある。彼のアイデンティティとさえ称せてしまえそうな「マジカメを楽しむケイト・ダイヤモンド」が失われたという、その事実は一体、何を意味しているのか?

 トレイが本当に気付かなければならなかったのはこの点であり、そしてこの気付きはトレイ自身で得なければならないものだった。彼に「最近、投稿していないじゃないか。どうしたんだ?」などと素直に問うたところで、胸の内を明かしてくれるような奴ではないことは分かりきっていたからだ。
 彼の行動が何を意味しているのか、そこまで読み取ってから出なければトレイは声を掛けられない。証拠を掴むなり、逃げ場を塞ぐなり、とにかく相手に口を割らせるだけの情報と確信を得なければ動けない。そんな動きを彼に「思っているだけで口に出さないの、どうかと思うな!」とやや強めの語気で指摘されたこともあったが、トレイ自身はこの動き方を間違っているとは思わない。特にケイト、お前に対しては。

「あのさ、トレイくん大袈裟じゃない? マジカメを触らなくなる時期なんて誰にでもあるでしょ? 普通だよこんなの」
「お前の場合は普通じゃないから声を掛けたんだ。俺に例えるなら、今日を境にケーキや菓子の一切を作らなくなるようなものだぞ」
「……それは、ヤバいかもね」
「分かってくれるか」
「めっちゃ不本意だけど、その例えは正直、百点満点だよ。トレイくんってほんと、言葉の選びから例の挙げ方まで何もかも意地悪なんだから!」

 だって此処まで追いつめておかなければ、お前は逃げてしまうだろう。何もかも明らかにしてからじゃなきゃ、口を割ってくれないだろう。そうだよな、これまでずっとそうだったもんな。
 甘いものが嫌いだったなんていう、そんな些末な隠し事を指摘しただけでこの友人の笑顔は崩れた。数か月前のあの記憶がまだ新しく、色濃く残っている以上、トレイは殊更に慎重になる必要があったのだ。
 トレイは喪失の気配に疎い。けれど喪失を想定することくらいはできる。この友人をどのような形であったとしても「うしなう」ことは、トレイにとっては相応に、耐え難いことだ。身を割くような心持ちに落とされることくらい容易に想像が付いた。おそらくは、幼少の頃にリドルを外へと連れ出したことへの後悔、あれさえ上回る程の。

「もういいのか?」
「んー?」
「もう『ラフに』『楽しく』しなくてもよくなったのかって言ってるんだ」

 四秒の沈黙、二秒の溜め息、三秒を使ってボールペンをくるくると回してから、ものの一秒の間に分厚い本がパタンと閉じられる。あははと空笑いするその表情は底抜けに明るい。いつものケイトだ。とてもではないが、アイデンティティを手放しかけている人間のようには見えない。だからこそトレイは、彼のその笑顔が恐ろしい。
 ああ、そういえばその洒落た赤色のボールペン、監督生も同じものを持っていた。あの子のペンは確か、オレンジ色だったけれど。

「答えてくれないか、ケイト」
「……あーあ、やっぱりかあ! 最初からオレを問い詰めるつもりで来たワケだ!」

 今の彼はもう「今をラフに、楽しく過ごしたい」とは思っていないように見える。
 そして、そんな「楽しく過ごす」という信条を手放した彼の居場所は、もうマジカメにはない。だから彼は投稿をやめた。彼の居場所は、誰にも告げられることなくひっそりと、マジカメから別の場所へと変わったのだ。

「副寮長の仕事にサイエンス部の活動に、実行委員長のリドルくんの補佐まで自主的にやっちゃってるようなトレイくんが、ちょっと疲れたくらいでわざわざこんなところに休憩に来るなんて、おかしいと思ったんだよ!」
「ふっ、あはは、その通りだな」
「……ねっトレイくん、顔上げて? 大事なことなんでしょう、ちゃんと目を見てゆっくり、時間を掛けて話そうよ。オレ、逃げないからさ」

 彼のそうした、ひどく誠実な言葉を受けてトレイは組んでいた腕をほどき、背筋を伸ばした。
 目を見てゆっくり……時間を掛けて……逃げないから……。それらは「ラフに、楽しく過ごす」ことを信条としていた頃のケイトからは出てくることなど想定できない、実に彼らしくない言葉だった。のっそりと顔を上げれば、柔和な表情でこそあるものの真摯な目をした友人がいる。トレイの見たことがない眼差しでこちらを指す友人がいる。

 ケイトへ改めて向き直るより先に、トレイはもう一度、机の上へと視線を走らせた。おおよそ三年生が勉強するようなものでないような難解な書物が積み上げられている。そのうちの一冊には赤い文字で「持ち出し禁止」と書かれたシールが貼られている。タイトルを認識したくなくて思わず目を逸らしたが、その逃した視線の先にさえ、ケイトの手元、赤いボールペンが白いノートに小さく影を落としている様が映りこんできて、ほら、もうどうしようもない。
 そのボールペンはやはり、監督生が使っていたものと同じ形だ。ただ、学園の購買に売っているのを見たことはない。……学外で、揃いのものを買ったのだろうか。もしくは二本を取り寄せて一本を贈ったのだろうか。

「まずお礼を言わないとね。踏み込んできてくれてありがとう、トレイくん」

 いつか、この友人とこうして腹を割って話し合える日が来ることを期待していた。お互い、本音に嘘を塗り重ねて、本音を散らして小さく潰して、そうやって「どうということのないように」生きていくのが得意だった。そうしなければならない理由は異なれど、その苦悩は悉く似ているように思われていた。その苦悩の、おそらくは根幹と呼べそうなところのものを互いに開き合える日が来ることを、期待していた。今がその時であるのなら、トレイは喜ぶべきであったのかもしれなかった。けれど、何故だろう。
 嫌な予感がする。

「まあ端的に言えば、勉強で忙しくなったからマジカメを触る余裕がなくなったって、それだけなんだけどさ。でもトレイの言うように、もう投稿を楽しいと思えなくなったってのも事実なんだよね」

 ハーツラビュルで起きたあの事件を経て、トレイは「ほんの少し」変わった。他者へとこうして踏み込めるだけの勇気を手に入れた。リドルも「ほんの少し」変わった。他者の生き方を尊重し意見に耳を傾けるだけの柔軟性と寛容さを手に入れた。それらが全てあの監督生のおかげだ、などと言うつもりはなかったが、魔法の一切を使えないあの小さな女の子が、それらの変化のトリガーとなったことは間違いない。
 そしてトレイやリドルに限ったことではないはずだが……この数か月であらゆる人物にもたらされた「ほんの少し」の変化は、どちらかと言えば「いいもの」であったように思う。だからこそ魔法の使えない無力な監督生は、多少の差はあれど基本的に好ましい存在として扱われている。彼女が誰に傷付けられるでもなくこの学園で安全に生き延びることができているのは、そうした好印象が上手く働いたことによるものでもあった、はずだ。

 だが、この変化はどうだろう。彼、ケイト・ダイヤモンドに彼女がもたらしたと思しきこの変化を、当人はともかく、トレイは「いいもの」とすることができるだろうか。今から交わされるであろう「話」を経ても尚、トレイはあの監督生のことを好ましく思えるだろうか。魔法ではない何らかの力により、魔法のような変化をこの学園にもたらし続けてきた、あの子のことを。
 

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