3分デート

(U-17翌年)

駅のホームの向こう側に、見知った人影を見つけた。
入江の足はすぐさま動いていた。大学の最寄り駅に向かう電車から飛び出して階段を駆け上がる。
普段からテニスで鍛えた足ならば、2段飛ばしで階段を駆け上がることだって容易い。
行き交う人の間をすり抜けるようにして入江は走った。向かいのホームに下りる階段に足をかけながら、その「見知った人物」に掛ける言葉を考える。

さて、どんな風に声を掛けよう。
入江は思考を巡らせようとして、しかし悩む程の選択肢がないことに気付き、苦笑した。
入江が大学に向かう電車と、その人物が高校に向かう電車の向きが異なっていることを、相手は知っているからだ。
「偶然だね、ボクもこの電車なんだ」などと言おうものなら、白い目で「冗談はその丸眼鏡だけにしておいたほうがいいわよ」と返ってくるだろう。
つまり偶然を装って相手の前に現れることは不可能なのだ。それならば仕方あるまいと、入江は正直になることを選んだ。

相手を煙に巻くことの方が多い自分が、逆に煙に巻かれてしまう。彼女はそうした人物だった。
だからこそ、入江は大学へ遅刻する可能性を顧みず電車を飛び出し、向かいのホームへと駆けたのだ。その程度には、入江はその相手を気に入っていたのだろう。

「やあ、香菜ちゃん。おはよう」

制服を着た彼女の肩を両手で掴み、ひょいと顔を出して微笑めば、その端正な顔に埋め込まれた目が驚きに見開かれる。
けれどそれは一瞬で、直ぐにいつもの顔に戻り、眉をひそめて入江をくいと見上げるのだ。

「……なんで入江さんが此処に居るのよ」

香菜ちゃんが見えたから、追いかけてきたんだ。ボクも大学に通うために、向かいの電車に乗るからね」

もう電車が去った後のホームを指差せば、彼女は呆れたように溜め息を吐いた。
この少女は高校1年、入江は大学1年生だ。3つも年上である入江に対して、しかし彼女は敬語を使わない。
年上に対してあるべき敬意というものが彼女には微塵も感じられないのだ。
しかしそれは、入江が彼女に軽侮されていることを示すものでは決してなかった。そもそも彼女は誰に対しても敬語を使わなかったし、今となっては敬意など要らないのだ。
こうした関係になってまで、敬語を使われるのも窮屈だと入江は思っていたからだ。

「来てくれたところ悪いけれど、後1分で電車が来るから」

彼女は内側に付けた腕時計を見て、肩を竦め、笑ってみせる。およそ高校生とは思えない、大人びた美しい顔の造りは、いつ見ても恐るべきものだ。
入江と並んでいても、この二人に3歳の年の差があるとは誰も考えないだろう。
彼女が高校の制服を着ていなければ、入江の方が年下に見られてしまうかもしれない。

「酷いね、ムードがないよ」

「この忙しい朝の時間帯にムードを求めるなんて、入江さんは余程、暇なのね」

暇な筈がない。朝は5分の遅れで全てが狂う程に時間の密度が濃く、少しの遅延も許されない。朝が苦手な人間の宿命だった。
その忙しい朝の時間を割いてまで、向かいのホームから駆けてきた入江の心境を、少しくらい汲んでくれてもよさそうなところだが、彼女はそれをしないらしい。
もっとも、そんな彼女だからこそ入江は気に入っているのだけれど。辛辣な言葉を投げ、入江の言葉に簡単にはなびかない彼女から目が離せないのだけれど。

「そこは空気を読んで「1本遅らせようかな」とか、可愛く言ってくれてもいいんじゃないかな。ボクだって遅刻を覚悟して電車を降りたんだよ」

「あはは、あたしがそんなことを言う人間に見えるの?」

彼女は肩を震わせて小さく笑った。
勿論、そんなこと、微塵も思っていない。それでも入江はそう紡ぎたかったのだ。
自分のどんな言葉になら彼女が揺らぐのか、どんな行動に彼女がその表情を変えるのか、知りたかったのだ。
結果として、その殆どが空振りに終わり、いつもの涼しげな表情か、眉をひそめた不機嫌で呆れたような表情しか見せてくれないのだけれど。
それでもいいと思える程には、入江はこの関係を大事に抱きかかえていたのだけれど。

「ほら、早く行きなさいよ。次の電車に乗り遅れたら、本当に遅刻しちゃうわよ」

「いいよ、一度くらいサボっても。……そうだ、君がこのホームに残ってくれないのなら、ボクが君の降りる駅まで同行しようか」

それは冗談だったのだが、彼女はその言葉に顔色を変える。
馬鹿なことを言わないで、とらしくない大声を出して、その小さな手で入江の背中をぐいと階段の方へ押す。
冗談だよ、と付け足そうとしたが、その前に彼女がやや早口で紡いだ。

「入江さんの卒業が1年遅れたら、一緒に暮らせるようになる日も1年、先延ばしになるんだからね」

パチン、と頭の中で膨らんでいた風船が、派手な音を立てて割れてしまった。
振り返れば、彼女は首を傾げている。自分の発言が入江にどれほどの衝撃を与えたかを、解っていないような表情だった。
果たして、聞こえたのは入江に都合のいい空耳だったのだろうか。それを確かめるため、入江は踵を返そうとした彼女の腕を掴んで引き止めた。

「……ボクと一緒に暮らすの?」

すると彼女は呆気に取られたような表情をして、しかし次の瞬間、声をあげて笑い始めた。
ああ、そうか、そうよね。そんな言葉を紡ぎながら肩を震わせている。
そうして彼女の口から零れ出たとんでもない言葉に、入江はいつもの冷静さを失って狼狽せざるを得なかった。

「なんだ、違ったのね。あんたが時折、将来の家の話や子供の話を随分と楽しそうにするから、てっきりあたしのことだと思っていたわ。
そう、別の人がいたの。それならそれでいいのよ、あたしは一人でも生きていけるから」

「い、いる訳がない!君と暮らす話に決まっているだろう!」

慌てて口にした言葉は、朝の空気に相応しくない大音量で駅のホームに響いた。
ボクは何を言っているんだと、入江は居たたまれない気持ちになり、俯いて額に手を当てる。
羞恥に耐えながら顔を上げれば、クスクスとそのアルトの声音を震わせる彼女と、目が合った。

そこには、頬を少しだけ染めた彼女が、入江の見たことのないような顔で笑っていたのだ。

「……ボクを手の平で転がして遊ぶのは止めてくれないか」

「そうね、考えておくわ。思っていた以上に嬉しかったから」

そう言って、やって来た電車に乗り込む。空いた座席に即座に座った彼女は、こちらを振り向き小さく手を振った。
入江は呆気に取られた顔のままに手を振り返す。電車が走り出すと同時に、階段を駆け上がった。大学の授業に遅刻する訳にはいかないと思ったからだ。

2015.6.24

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