琥珀の見る海

少女が傘を持っていた。
ただそれだけのことだったのだが、今日という日があまりにも眩しい晴天だったので、その傘は使いどころのないままに終わってしまうのではないかと徳川は思っていた。
しかし彼女は日向に出るなり、その傘を得意気に広げたのだ。

「……日傘か」

「はい、友達がプレゼントしてくれたんです」

海の水を掻き集めたような青色をしたそれを、くるりと回して彼女は笑った。
日傘というと、レースがあしらわれた洒落たものをつい連想してしまいがちになるが、最近では晴雨兼用のものが多く売られている。
一見しただけでは日傘の機能を備えているのかどうか解らないその傘の布は、しかし太陽の日差しを完全に防ぐかのように、アスファルトに濃い影を落としていた。

「カーボンっていう素材が骨に使われていて、びっくりするくらい軽いんですよ」

持ってみますか?と差し出され、徳川もその日傘を手に取ったのだが、あまりの軽さに拍子抜けしてしまった。
強度を高めるための骨は驚く程に細く、こんなもので風に耐えられるのかと不安になる程の頼りなさだった。
しかし「軽くて丈夫」を売りにしているだけあって、触れてみると恐ろしい程に堅く、指先に力を込めたくらいではびくともしなかった。

可愛らしいデザインがプリントされていたり、レースのように布の端に小さく穴をあけて模様を付けていたりするようなものが流通している中で、
何の変哲もない無地の日傘でありながら、その日傘としての性能や耐久性に悉く拘ったものを選ぶ、彼女の友達のセンスに徳川は感嘆の息を零した。
徳川も知る、毒舌で美人の「友達」が、彼の脳裏で得意気にピースサインをして笑っている気がした。
この少女が日傘を欲しがっていたことなど、徳川は全く知らなかったからだ。思わぬところで差を付けられてしまい、徳川は絶妙な悔しさを噛み締めることとなってしまった。

しかし知っていたところで、徳川がこの、カーボンという素材でできた骨を持つ、シンプルな晴雨兼用の傘を購入したかと問われれば、間違いなく「否」だ。
男性が女性に贈るものにしては、その日傘はあまりにも装飾がなさ過ぎていたからだ。
シンプルな無地の傘よりも、もっと女の子らしい、花の模様やストライプが印刷された日傘を選んだだろう。色も青ではなく、もっと華やかなものを手に取った筈だ。

「コンパクトで、軽くて、青くて、最高ですね。徳川さんに自慢したくて、持って来ちゃいました」

それ故に、「友達からのプレゼント」であることを差し引いても、彼女がそのシンプルな機能性重視の傘にとても喜んでいるその様は、徳川にそれなりの衝撃を与えた。
……しかし、注意して見てみれば、彼女の提げているカバンも、羽織っている白いカーディガンも、トップスもスカートも、装飾の少ないシンプルなものばかりだった。
彼女の好みを窺い知るためのチャンスはこれまでにも幾度となくあったのに、彼は把握することをしなかったのだ。

彼女は、どんなものが好きなのだろう。
「青が好きなのか」と確認するように尋ねれば、彼女はその満面の笑みのままに大きく頷いた。

「綺麗ですよね。空の色、水の色、酸性の土に咲く紫陽花の色、秋のお花屋さんに並ぶリンドウの色」

「……夏の屋台に売られているかき氷の色は?」

「あれ、ばれちゃいましたか、ブルーハワイのシロップが好きだってこと」

少しだけ恥ずかしそうな声音が、くるくると回された青い日傘の中から聞こえてくる。
徳川の方が彼女よりも遥かに背が高いため、隣を歩いていると少女の顔を見ることが叶わないのだ。
そしてそれは少女も同じだったらしく、困ったように笑いながら傘を畳んだ。

相変わらず夏の日差しは降り注いでいて、日傘を畳まなければならない理由など何処にもないように感じられた。
それ故に、徳川は思い上がった仮説を立てた。
顔を見て話をすることができないから日傘を畳んだのだと、目を見ながら会話ができないことを少女も物足りなく思っていたのだと、そう解釈することにした。

眩しそうに手で顔に影を作った少女の、その鮮やかな茶色い目に徳川は息を飲む。
彼女の茶色い目は、明るい場所や外では不思議な色に変わる。琥珀色とも呼べそうな鮮やかな茶色が、陽の光を吸い込むようにキラキラと瞬くのだ。
日本人の目は黒や茶色の目をしていることが殆どで、徳川も例に漏れずそうだったのだが、彼女のような色の目を見たのは初めてだった。

茶色には違いないのだが、その色素は一般のそれよりもかなり明るい。彼女を目に留めるようになったのも、その琥珀色の瞳が原因だった。
そして、それは今でも続いている。こうしてたまに二人で会うようになった今も、徳川は彼女の、琥珀色をした目の輝きにまだ慣れない。
いつ見てもその目は鮮やかで、それ故にその色は徳川の心臓を射るのだ。
……もっとも、彼女の目が茶色いことには違いなかったのだが、「琥珀色をした宝石」という表現には、彼の贔屓がかなり加味されていたのだけれど。

「徳川さんは何色が好きですか?」

思わず「琥珀色」と答えそうになった自分の喉を徳川は右手で強く押さえた。
徳川は決して、彼女の目の色が美しかったから彼女を好きになった訳ではないのだ。それはただのきっかけに過ぎなかった。
では、とその理由を問いただされても、徳川は答えることなどできないのかもしれないけれど。寧ろそうした想いに明確な理由など付加できる筈がなかったのだけれど。

「群青色だ。かなり濃い青で、藍よりも少し暗い」

「……ああ、海の色ですね!」

「そうだな、俺にとっては馴染みの深い色だ」

ヨットを趣味としていた徳川にとって、海は身近な存在だった。テニスに打ち込む傍ら、16歳になると同時に自らヨットを操縦するための免許も取得していたのだ。
この少女は、どうなのだろうか。青を好む彼女は、同じように海のことも好きになってくれるのだろうか。
そうであればいいと思った。あの広すぎる、青すぎる海の上を彼女と渡りたいと思ったとして、あの青を共有したいと願ったとして、それは当然のことだったのだ。

「次に会う時は、行ってみるかい?海に」

そう問いかければ、彼女はその顔にぱっと花を咲かせた。
いいんですか!とはしゃぐ彼女に、否と返す選択肢など徳川が持ち合わせている筈がなかったのだ。
楽しみですね、と、早くも次の約束ができてしまったことに、少女は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌を湛えている。徳川も顔にこそ出さないが同じ気持ちだった。
少女は徳川の方をそっと見上げ、決して表情豊かではない彼の顔に、しかし何かを喜ぶかのように頷いて肩を竦める。

「それまでに帽子を買わないといけませんね」

「……その日傘はもう、お役御免か?」

少しだけからかうようにそう尋ねれば、彼女は困ったように肩を竦め、その琥珀色の目をすっと細めて彼を射る。
顔を見て話をすることができないから日傘を畳んだのだと、目を見ながら会話ができないことを少女も物足りなく思っていたのだと、徳川はそのように思い上がっていた。
しかしその思い上がった仮説は、少女の言葉により真実となるのだ。

「少なくとも、徳川さんに会う時はそうなりますね。だって日傘だと徳川さんの目を見て話ができないから」

この少女を海に連れていきたいと思った。
さあ、彼女の琥珀色は、どのような輝きを見せるのだろう?

2015.7.2

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