6月に降る雪

「徳川さん、ちょっと寄り道してもいいですか?」

待ち合わせ場所に時間10分前にやって来た彼女は、目を輝かせて徳川の手を引いた。
今日は近くのカフェで昼食を取った後、水族館に行く予定だったが、まだ11時ということもあり、どのみち書店で時間を潰してから向かおうと思っていたところだった。
それよりも、この少女の目を輝かせたものの正体が知りたくて、徳川は僅かに微笑み、頷いた。

「何処へ行くんだい?」

「この駅の、線路を挟んで向こう側にある公園です。電車の中から外を眺めていて、見つけたんです」

確かにこの駅の向こうには広い公園があった。ブランコや滑り台という懐かしいカラフルな遊具が置かれていたが、おそらく少女の目的はそれではないのだろう。
一体、何を見に行こうとしているのだろう。しかしそれを今、尋ねてしまうのは少々勿体ない気がした。
どうせなら徳川も、その目的のものを前にして驚いてみたいと思ったのだ。彼女の高揚と感動に、自身が共鳴することができるのかどうか確かめてみたかった。

「それじゃあ、行きましょう!」

人の行き交う駅を出て、大通りを少し早足で通った。
梅雨の合間に訪れた晴天を体中に受けるようにして、彼女は空を見上げながら歩いていた。
徳川もそれに釣られるようにして見上げれば、重ね過ぎて空になってしまった空気の青が彼の目を覆った。
少女は鼻歌でも歌い出しそうな程の笑みを湛え、徳川の手を当然のように握っていた。
少しだけ染まる頬は、これから行こうとしている場所を思っての高揚だろうか。それとも、この握った手のせいだろうか。

「いい天気ですね」

透き通る空を飲み込むかのように、少女は大きく息を吸い込んだ。

この少女は世界に愛されている。徳川はそのように思うことがある。
日差しを、風を、空の青を、木々の葉が擦れる音を、握られた手の温度を、少女は至極楽しそうな笑顔で享受する。
生きていることそのものが、この場所で息をしていることが最大の享楽であるかのように、彼女は徳川の手を取り、共にその先へと速足で進むのだ。
その姿はあまりにも眩しすぎた。自分とは異なる存在なのだと、この少女の鮮やかな茶色の目に映るのは自分とは異なる世界なのだと、そう認めて、少しだけ不安に駆られる。
しかしそれは一瞬だった。不安に思う必要などなかったのだ。何故なら少女は決して徳川の手を離さないから。息をするように彼を鮮やかな世界へ連れ出すから。

「わあ、いい匂い!」

その言葉に視線を前へと戻せば、不思議な芳香を放つ木が歩道沿いに、その公園の敷地内に植えられていた。
見たことのない、白い葡萄のような花の付き方をするその木は、その葡萄の房から小さな花を雪のようにしんしんと降らせていた。
アスファルトに落ちた、小指の先よりも小さな白い花は、シンプルな4枚の花弁を持っていた。これと同じ形をした小さな花を、徳川は秋に見たことがあった。
特徴的な強い芳香を漂わせる点と、その小さな花をアスファルトに落とす光景は、11月に咲くあの花を思い出させた。

「……金木犀に似ているな」

「あ、私も思いました。金木犀もこんな風に、可愛い花を落とすんですよね」

少女が手を空にかざせば、そこに白い花が二つ、落ちてきた。
彼女の羽織っている紺色のカーディガンや、首元で二つに結ばれた髪の毛にもその花は落ちてきて、楽しそうに頬を綻ばせる少女を彩る。

「銀木犀という花があると聞いたことがあるが、それだろうか?」

「いえ、銀木犀は金木犀と同じように、10月や11月に咲く筈ですから、きっと別の花ですね。でもこれは、何だろう……?」

葡萄にも似た、三角錐を下向きにしたような房状に咲く花を彼女はじっと見つめ、首を捻った。
博識で花にも詳しく、花壇に咲く花や街路樹に植えられた木々の名前を直ぐに言い当ててしまう少女だが、この花は彼女にとって未知の領域だったらしい。
だからこそ、目を輝かせて徳川の手を引き、好奇心のままにその不思議な花を見上げているのだけれど。

彼女が悩めば悩む程、その花が降らせる雪が彼女の髪や肩を彩り、徳川は苦笑して少女の肩に落ちた花をそっと払った。
おそらく、自分の肩にも花が落ちているのだろう。しかし気にはならなかった。どのみち、歩いていれば自然と肩や頭から落ちていくものだと思っていたからだ。
それでも、彼女の肩を彩りすぎていた花を払ってしまった。自らが花を被る分には構わなかったが、あまり飾られ過ぎた彼女を見ているのは正直、心臓に悪い。
この宝石のような目をした彼女には、この小さい雪の花が恐ろしい程に似合っていたのだ。
その雪が降るままに彼女を飾らせておけば、いつか徳川は彼女を直視することができなくなってしまうのではないかとさえ思ったのだ。

彼女は鞄から携帯を取り出して、何枚か写真を取り始めた。
特に華やかさのないその小さな花を撮っているのは、おそらく携帯のホーム画面に設定するためではなく、後で調べる時の資料とするためだろう。
学校の図書室や自宅のパソコンを駆使して、この花の名前を調べる少女の姿が容易に想像できた。
きっとその目は今のように、期待と好奇心に輝いているのだろう。そう確信できる程には、徳川はこの、宝石のような目をした少女と時間を重ねていたのだ。

この花の名前を見つけたその瞬間、少女の目はこれ以上ない程に美しく輝くのだろう。
歓喜に満ちたその色を見逃してしまうのはあまりにも惜しいような気がして、徳川はたった今思い付いたことを口に出してみる。

「昼から、図書館に行ってみるか」

「え、でも、水族館は、」

「魚やイルカは逃げないが、この花は次に会える時にはもう散ってしまっているだろう。それに、一人で探すよりも二人で資料を漁った方が効率もいい」

自分だけの好奇心に他人を付き合わせることへの罪悪感の方が勝っているらしく、少女は困ったように笑って返答を渋った。
けれど、徳川とて少女の好奇心に付き合おうという意図でこんな提案をした訳では決してないのだ。
水族館で、知らない魚やクラゲに目を輝かせる姿もそれはそれで眩しいものだったのだろう。
しかし二人はまだ学生だった。彼等の世界は広いようで狭く、少し顔を上げて遠くを見るだけで新しい発見があるものなのだ。
彼等はそうした時代に生きていた。だからこそ、そうした少しの発見を共有するというその事実が、胸を痛める程に愛しいのだと知っていたのだ。

「それだけでは時間が余るだろうから、適当に近くの百貨店を見て回ろう。確か、キリマンジャロの豆を売っているコーヒーの専門店もあった筈だ」

彼女の大好きなコーヒー豆の名前を出せば、直ぐに「行きます!」と返って来て、その予想通りの反応に徳川は思わず吹き出した。
彼等の予定は大きく変更された。けれど別に構わなかった。
学生である彼等は刹那的に生きていて、しかし彼等の時間は今日に限ったことではなく、これから先も共有されていくのだと、徳川も少女も信じていたからだ。

「では先に昼食を食べるか。本当に蕎麦屋で良かったのか?」

「はい!あのお蕎麦屋さん、ずっと気になっていましたから」

ぱっと笑みを浮かべた彼女の手を強く握り直して、徳川は元来た道を歩く。
アスファルトを白く彩る花。金木犀とは少し異なるが、それを連想させる強い芳香。銀木犀ではないのだとしたら、この房のように集まって咲く小さな花は一体、何なのだろう。

もし徳川が一人で此処を訪れたとして、かろうじて不思議な芳香の正体を確かめるためにその花を見上げるくらいで、特に足を止めることもなく通り過ぎてしまう筈だった。
徳川は花になど興味はなかった。学校の花壇に咲く有名な花の名前すらもいい当てることは困難だった。
しかし、彼の心は少女の目の輝きに共鳴する。あの花に対する興味を煽られるように、徳川もこの花の正体が気になり始めていたのだ。
その変化がおかしくて徳川は小さく笑った。おそらく人を好きになるとはこういうことなのだろう。

「あ、でも、一つだけ解ったことがあります」

「……それは?」

徳川の隣を歩く彼女の、頭についた白い花を再びそっと払えば、彼女は少しだけ照れたように肩を竦めて、歌うように紡いだ。

「溶けない雪は夏に降るんですね」

2015.7.1
※『6月中旬~下旬、小指の先よりも小さな白い花を、ブドウのような房状に咲かせる。散る時は雪のようにアスファルトに落ちる。
金木犀を連想させるような強い芳香を持つ。葉は鮮やかな緑で、そこまで分厚くない、一般的なもの。』
もしこの花に心当たりがありましたらご一報下さると嬉しいです。

追記……調査の結果、モクセイ科トネリコ属の「シマトネリコ」であることが判明しました。
2015.7.19

© 2024 雨袱紗