神のレンズ

まだ外は暗く、私は枕元に置いてある時計を手に取った。淡いライトが「5:30」と示していて、溜め息を吐かざるを得なかった。
いくらなんでも早すぎる。けれどもう一眠りする勇気はなかった。今日という日を寝過ごしてしまえば、私はこの後悔を死ぬまで引きずることになるだろうと確信していたからだ。

冷たいフローリングに足を着け、まだ両親が寝静まっている1階へと下り、洗面所で顔を洗った。
冷たい水を手で掬い、ちゃぷちゃぷと心地よい音を耳に流し込むようにして聞いていた。
泡を洗い流すその水は、その冷たさをもってして私の肌に朝の訪れを告げる。今日が特別な日であることを、この水道管から流れ出る水さえも知っている。

「……」

あの合宿が終わってから数か月が経った。この肌を突き刺すような寒さが過ぎれば、私は高校生になる。
既に進学する高校は決まっている。3年間、お世話になった中学とも、あと数週間でお別れだ。
そのことに少しだけ寂しさを感じながら、けれど残りの中学生活をしっかりと噛み締めて、私は穏やかに毎日を過ごしていた。平穏なその日々を享受していた。

『来週の日曜は空いているか。』

私の携帯に、そんなメッセージが届くまでは。

両親を起こさないようにそっと階段を上り、部屋の電気を付けて私は立ち尽くした。
どうしよう。後4時間以上の猶予の中で、私は何を為せばいい。
私の頭は混乱していた。心臓が走った後のように大きな揺れを見せていて、ともすれば病気ではないだろうかとも思えるその正直な鼓動に苦笑する。
解っている。この心臓の揺れが病気などではないことくらい、ちゃんと解っている。私は自分の思いに気付けない程に、自身に無関心である訳ではない。
私の思いくらい、心臓の主張がなくともちゃんと、解っている。今日は私の好きな人に会う日なのだと、その人から再会の誘いを受けて、舞い上がっているのだと、知っている。

私は机の上の携帯電話を取り上げて、メールボックスを開いた。
最後の履歴には、顔文字も絵文字も一切使われていない、彼のシンプルな一文が刻まれている。

『明日、朝10時に××駅前で。』

その携帯を握り締め、私は大きく深呼吸をする。私は私で、他の何者でもないのだと、心の中で唱えている。
この不可思議な心臓の鼓動ですら私の物で、私が所有する物であって、私がこの鼓動に飲まれてしまう訳にはいかないのだと、言い聞かせている。

……この、自分が自分でなくなってしまうような感じは、何度経験しても慣れない。
一時期は本当に病気だと疑って、U-17の合宿所でパニックになりかけたことすらある。あの時の私の慌てようといったら、今思い出しても顔から火が出てしまう程に恥ずかしい。
幸いなのは、そのパニックを目の当たりにしたのが、私の友人だけであったということだろう。
その不可思議な鼓動の原因であったあの人物には、私の愚かな当惑はまだ、知られていない筈だ。知られていない、と信じたい。

もっと沢山、彼と時間を重ねるようなことがあって、私が彼の名前を呼ぶことにすっかり慣れてしまったとしたら、
何の緊張も困惑もなく、笑うことができるような日が来たとしたら、そんな幸福なことが私の身に起こるのなら、その時には、そうした私の愚かな部分も話してみよう。
貴方のことを考えて胸が苦しくなった時に、悪い病気かと疑ってしまって恐ろしくなったことがあるのだと、笑い話にしてみよう。

彼はどんな顔をするだろうか。決して饒舌ではない彼は、しかし意外にもその端正な顔に様々な表情を浮かべる。
雨に降られれば不機嫌そうに眉をひそめるし、転ぶ私に呆れたように笑って手を差し伸べてくれたこともある。
きっと、「どうして病気だなんて発想に至るんだ」と、呆れたように溜め息を吐かれてしまうかもしれない。
15歳にもなって、それまで一度も恋をしたことがなかったのかと驚かれるかもしれない。
もしくは、そうした私の愚かささえも彼が知り尽くしているのだとしたら、「お前らしいな」と言われてしまうのかもしれない。
どれだってよかった。そんな愚かな過去をいつまでも告白できなかったとしても、それはそれでよかったのだ。

6時を告げる目覚ましが1階で鳴り、母が朝食の用意を始める。私もクローゼットを開けて、昨晩に決めていた服を取り出す。
膝が少しだけ見えるスカートを履き、白いニットを被った。長い髪を肩のところで2つに束ねた。
ネックレスもイヤリングも、ブレスレットもない。友人は慣れた手つきで薄い化粧をしてみせるけれど、私はそんな技術どころか、そんな道具すら持っていない。
呆れた女の子だと思われるかもしれないけれど、私らしくないものをわざと付ける気にはどうしてもなれなかった。

窓を開ければ、空が徐々に明るくなってきていた。
見慣れた近所の屋根の色や、等間隔に並んだ電柱が、まだ日が昇っていないにもかかわらず、とても眩しい。
飽きる程に見てきた景色である筈なのに、別物のようで私は当惑する。……私の住んでいる町って、こんなに美しいところだったのかしら。

7時になり、朝食を食べてから歯を磨いて、自室に戻り、学校の図書室で借りていた本を読んでしまおうと開いた。
けれど、ページを捲るスピードがあまりにも遅く、途中でそんな自分に呆れて、栞を挟んで閉じてしまった。私の意識がもう此処になかったのだから、当然のことだったのだ。

鞄の中の荷物を確認して、9時に階段を降りた。
紺色のダッフルコートに袖を通し、踵の低い靴を履いて扉を開けた。
冷たい風が肌を刺すように吹き付け、思わず息を飲んだけれど、何故か、いつものような寒さは感じなかった。
雨上がりの空気のように町は澄んでいて、カラスの黒ですら眩しく見えた。草に降りた霜が少しずつ解け始めていて、宝石のようにキラキラと光っていた。

近所の庭には水仙が植えられていて、もう直ぐ花開くのだろうと思わせる大きな蕾が自己を主張していた。
濃い緑色の葉に水滴を付けた椿の、その花がアスファルトに幾つか落ちていた。
吐き出す息は白く、風に煽られるようにして空へと消えていった。千切れた雲が幾つかあるだけの空は透き通るように青くて、涙が出そうになった。
いつもと変わらない、町の風景である筈だった。
それなのに、どうしてこんなに美しいのだろう。どうして水仙の蕾や、アスファルトに落ちた椿の花に感嘆の声を零すのだろう。
吐き出された息の色を目に映して、胸が苦しくなるのは何故だろう。私はそうしたものを見るために家を出た訳ではないのに、この目に収めたい姿は、他にあるのに。

気付けば、私は走っていた。急ぐ必要など全くなかったのに、どうしても止まらなかった。
大きな通りに出て、駅の方角へ駆けた。通学に使っている定期券を使って、××駅を通る列車に飛び乗った。
息を整えながら、私は列車の曇った窓を指でそっと撫でて、外を覗き見た。
2月の寒空はやはりどうしようもなく青くて、私は今までこんなに美しい色を見逃していたのかと思い、眩暈がした。

30分ほど列車に揺られていると、××駅を告げるアナウンスが私の耳に飛び込んでくる。
鞄を持つ手をぎゅっと握り締め、私は開いたドアからホームへと足を下ろした。
通学時は通り過ぎるだけだったこの駅に、定期券を使ってやって来るのは初めてだった。
約束の時間が来るまで、この広い駅内を散策しても面白いかもしれないと思った。私に与えられたこの特殊なレンズは、きっと何もかもを楽しく、美しく見せてくれる筈だ。
けれど、そうすることを許さない状況が、私のレンズに飛び込んでくることになる。

「え……」

青を基調としたボーダーニット、その袖口から覗く白いシャツ、無地のズボン、グレーのマフラー。
その全てが見たことのないものばかりで、一瞬、別人ではないかと疑ったけれど、あの長身と目は間違いなく、私の知る彼のものだった。
さっと血の気が引いた。私は慌てて携帯を取り出した。10時に待ち合わせというのは私の勘違いで、本当は9時集合だったのかもしれないと思ったからだ。
けれど、目に飛び込んできたのはやはり「朝10時」の文字だった。

まだ、待ち合わせの時間まで30分もあるのに。

そう思って、しかし私は首を振って笑わざるを得なかった。早すぎる時間に家を出たのは、何も彼だけではなかったからだ。
彼の姿をこの目に捉えてしまった私に、駆け寄る以外の選択肢が用意されている筈もなかった。
私は驚きに跳ね上がった心臓の揺らぎを整えることも忘れて、アスファルトを強く、大きく蹴った。
世界は大きく瞬いていて、一瞬が永遠に感じられた。

「徳川さん」

2015.6.24

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