君は赤い春を見たか

入江は焦っていた。いつもなら人を振り回し、その反応を楽しむことにこそ人生の意義を見出しているような男だったのに、
今では自分の言葉が目の前の少女に何かしらの影響を与えてしまうという、そんな当たり前のことに酷く怯えてしまっていたのだ。
その恐怖は入江から声を奪った。

この気丈で、人の何倍も強い筈の少女と関わることは、入江にとってプラスに働いていた。
簡単に騙せない頭の切れる人間と居るのは楽しい。自分に煩雑な説明を要求しない人間は好きだ。
来るもの拒まず、去るもの追わずといった姿勢を貫き、自分に一切なびくことをしない彼女は入江にとってとても珍しい存在だった。
しかも、それを怪訝に思った入江が、こちらから多大なアプローチを掛けているのに、である。

君はボクのことが嫌いなの?
かつてそう尋ねた入江に、少女は何がおかしいのか声を上げて笑った。

『どうしたのよ。貴方の良き理解者ともあろう人が、あたしの心を読めないの?』

彼女は自分の喉元に手を当てた。女の子らしい小さなその手は自信と尊厳に満ちていた。
読めるものなら読んでみなさい。手玉に取れるものなら取ってみなさい。そんな姿勢を彼女は崩さない。
いつだって、そのままの彼女が変わらぬままにそこに居た。彼女を手に入れる為には入江がそこへ降り立ち、靴底を付けるだけで良かったのだ。
しかし自らその場所へ降り立つことを入江のプライドは認めなかったのだ。彼女が一歩、たった一歩で良いから足を踏み出してくれる瞬間を入江はずっと窺っていたのだ。

彼女は人間に対する好き嫌いをはっきりさせている人間で、それ故に自分は嫌われてはいない、寧ろ好かれているという確信があった。
だからこそ、こちらからの決定的な声掛けを避けてきたのだ。それは駆け引きに似ていた。お互いがお互いの感情を口に出すことを避けていた。
入江の場合、それはプライドに因るものだったが、彼女のそれは「ただ面白いから」だとか、きっとその程度なのだろう。
それが益々悔しいことのように思われて、入江はこの宙に揺れる関係を続けていたのだ。
……誤解されないように言っておくと、こうした想いには勝ち負けが存在するというのが入江の持論であり、彼はそうしたことだけを考えていたのであり、

香菜ちゃん、顔を上げて」

こんな風に彼女の心が折れてしまうことを待ち望んでいた訳では決してない。

……彼女はもう一人の少女のように脆くない。その代わりに気が強く、毒舌で、傍若無人である。だからこそその強靭な精神が保たれているのだと言った方が正しい。
その生き方はとても淡泊で、後腐れのない気楽なものだと思った。
入江もどちらかといえばそうした生き方に甘んじてきた人間であり、だからこそ自分に似た、しかし自分より格上の相手である彼女のことが気になったのだ。
……そう、彼女は入江のような「人を騙して楽しむ」といった危険なことをしない点において、入江よりも遥かに安定した基盤を手に入れていた。
それは彼女の自信にも繋がり、自信がその精神を益々強靭なものにした。彼女は安全地帯に居た。そこを気に入ってもいたようである。
面白くない人生だと思いながら、しかし楽しそうに毎日を送る彼女を興味深いと思ったのだ。

その彼女が今、あてがわれた小さな個室の真ん中で座り込んでいる。
カーテンは鋏か何かで縦に横にと引き裂かれている。まだ昼間である筈なのに窓の外は暗い。彼女が勝手に雨戸を閉めてしまったせいらしい。
花瓶は粉々に割れて、無造作に千切られた鮮やかな花びらが水たまりの上で揺れている。ガラスの破片が光を反射して怪しく光っている。
床に飛び散っている羽毛は布団のものなのか、枕のものなのか、それとも彼女が抱えている穴のあいたクッションのものなのか。
その白い筈のクッションの一部が赤く染まっていることに気付いた入江は、乱した髪のまま微動だにしない彼女の腕にそっと触れた。

「見せて。怪我をしているよね」

「……」

「足は大丈夫?また破片で切ってしまうといけないから、先ずスリッパを履こうか」

すると驚くべきことが起きた。彼女はその手を乱暴に振り払ったのだ。
これは今までなら有り得なかった筈の光景であった。つまりは彼女が入江を拒絶したのだ。
そのことに入江は驚き、しかし当惑していることは悟られないようにそっと、彼女の名前を呼ぶ。

「……香菜ちゃん」

「放っておいてよ」

ぴしゃりと言い放たれた言葉はしかし震えていた。
行き場を失った手を宙に漂わせたまま、入江はもう一度、この空間を見渡した。この小さな部屋に満たされた狂気に入江は怯んだ。
この3歳下の少女は、それでいて入江に一目置かせた少女は、そうした未熟な精神を持ち合わせてはいないものと勝手に思い込んでいたのだ。
感情を爆発させることなどないのだと思っていた。涙を流したり、声を荒げたり、そうした激情に訴えることの極端に少ない彼女に好感を抱いていたのだ。

「どうせあたしは何もできない人間だわ。人を苦しませることが得意なの。ねえ、入江さんも知っているでしょう」

それは甚だ彼女らしくない言葉だった。自己評価の低さと強烈な自己嫌悪がそこにあった。
それはこの合宿所にやって来ている、もう一人の少女の存在に裏打ちされたものだと、入江は彼女との付き合いの中で察せるようになっていた。

「あたしはたった一人も助けることができないのよ。こんなに近くに居るのに」

その「たった一人」が、今もコートで仕事をしているであろう、あの針金細工の身体を持つ少女だと入江は理解していた。
彼女はそのことについて何も話さない。しかし二人の間に何かしらの出来事があったことは容易に想像がついた。
それは本当に彼女が責められるべきものだろうか。しかしそれを確認する術を残念ながら入江は持たない。
彼女があの少女をあのような状態にしたのか、そうでなくとも彼女が原因を作ってしまったのか、あるいはただの自意識過剰に過ぎないのか、入江は知らない。
彼女の言う「たった一人」との間に生じた摩擦は、その「たった一人」に纏わりつく病気のほんの一因に過ぎないのかもしれない。
とにかく、目の前の少女は苦しんでいた。入江にはその事実だけで十分だった。

「早く居なくなってよ、ねえ」

そんな言葉を呟き続ける彼女の髪に手を掛けた。
振り払われないように、彼女の腕を別の腕で掴んだ。怪我をしている指先からは血が滴り続けていた。
彼女が顔を上げてくれないのなら、こちらから覗き込めばいい。入江はガラスの散らばる床に座り込んで、彼女の目を見た。それは揺れていた。

「びっくりだなあ。君にこんな一面があったなんて」

入江はもう迷わなかった。恐れてはいたが、その信念が揺らぐことはなかった。
少しでも鋭利な言葉を投げれば彼女は壊れてしまいそうだった。
もう一人の少女を形容するようなその弱くて脆い修飾が、今の彼女に当てはまってしまうことにまだ驚きこそ隠せずにいたが、それでもいいと思った。
つまりは彼女の弱さをこうして見つけてしまった今、彼女の強さに尊敬の意を示し、その揺るぎない強靭な精神に惹かれていた入江には、これ以上此処に居る理由がなくなった訳で、
それならば彼女の言う通りに一刻も早くこの空間から立ち去ることが、入江が取り得る最善の策である筈だったのであって、

香菜ちゃん、ボクに話せる?」

それでも此処に留まることを選んだのだから、つまりはそういうことなのだろう。

「思っていること、悩んでいること、苦しんでいること、全部話せるかい?」

すると彼女は、長い沈黙の末にゆっくりと顔を上げた。
人形のように整った美しい顔に、涙の筋が幾本も残っていた。ああ、この少女は生きているのだと、当然のことを思って入江は心から安堵したのだ。
そして彼女は、あの時と同じ言葉を紡ぐ。

「貴方の良き理解者ともあろう人が、私の心を読めないの?」

あの時の彼女は得意気に微笑んでいた。喉元に添えられた女の子らしい小さなその手は自信と尊厳に満ちていた。
今の彼女の目は縋るように揺れていて、その小さな手は強く握り締められていた。
けれどどちらの彼女も彼女であって、あの言葉の真意はあの時も今も変わってなどいなかったのだ。
あの言葉に隠された本当の意味を、入江はようやく理解するに至る。彼は頷き、彼女の目に宿った絶望を飲み込んで、言葉を続けた。

「ボクを騙すなんて、君も人が悪いな」

「!」

「気付いてあげられなくてごめんね」

揺れていた彼女の目に手を延べて、そっと拭った。零れそうだったからと付け足せば、いよいよ溢れて止まらなくなってしまった。
入江はとうとう笑うことができた。自分が目の前の人間の理解者たることなど、とうの昔に許されていたらしい。
更に言えば、もうとっくに自分は彼女に歩み寄られていたらしい。

『私の心を読んでください。』

あれはそういうことだったのだ。

香菜ちゃん、ボクはね、君が強いから好きなんだと思っていたけれど、そうじゃなかったみたいだ」

しかしそう言うと、ほんの少しだけ立ち直ったらしい彼女は、その美しい眉をひそめていつものように毒を吐いた。
血に濡れた手で、声を震わせながら、精一杯強がる目の前の少女。湧き上がった感情は入江には似合わないもので、だからこそ愛しいのだとようやく理解するに至ったのだ。

「何よそれ、あたしが強くないみたいじゃない」

2013.12.27
(過呼吸さんへのリクエスト作品「優しい人になりたい」修正 2015.6.25)

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