※参考文献:ゲーテ「銀杏の葉」(原書はドイツ語であり、この短編には「訳文」をお借りしています)
真っ赤な二片(ふたひら)とお読みいただけると幸い
お気に入りの詩集が捲られる音がする。何度も何度も繰り返し読んできたものだから、その紙質が擦れる音を私の耳は正確に覚えきっているのだ。
その懐かしく愛しい音は私のすぐ横で聞こえてくる。誰かがベッドに腰かけてそれを読んでいるのだ。
けれども、誰だろう?
耳は意識が覚醒すると共に音を拾い始めるけれど、目は瞼を上げなければ存在を捉えることができない。
今の、高い熱にうなされてぼうっとした思考しか展開できない私には、それが「誰」であるのかを知ることができない。
「誰ですか?」と尋ねようにも、喉が痺れるように痛くて声が出ない。
私はただ、情けない呼吸を繰り返しながら、詩集のページが捲られる音に耳を澄ませることしかできない。
そうした私の状況を知ってか知らずか、その人はページを捲る手を止めた。
好きな音が絶えてしまったことを私は少しだけ残念に思ったけれど、次の瞬間聞こえてきた音がそんな気持ちを暴力的な勢いで吹き飛ばした。
「……『これは、元々は一枚であった葉が分かたれて二枚になったのでしょうか』」
私はすぐに「『銀杏の葉』だ」と思った。
そして同時に「彼の声だ」とも思った。
何度も読み返したその詩集のそのページにはもう癖のようなものが付いていて、無造作に広げればその詩に辿り着くようになっていた。
それ程に、その『銀杏の葉』は私にとってのお気に入りなのだった。
その「お気に入り」を口ずさむ存在に、私はつい先日、部屋の合鍵を渡したばかりだった。
成る程、確かにこの部屋に入ることのできる人物など、彼を置いて他にいるはずもなかったのだ。
そうしたことをすぐに思い至れない程に、今の私は身体的に参っていた。
頭も喉も目蓋も使い物にならなくて、ただ、深く深く眠ることで体調が少しでも回復することを祈る他になかったのだ。
「『それとも、二枚の葉が相手を見つけて一枚になったのでしょうか』」
そうしたボロボロの私の傍で、彼が詩集を読んでいる。
何処で私の不調を聞きつけたのかは分からないけれど、とにかく彼はあの合鍵を使ってこの部屋に入っている。
そうして、熱にうなされている私の傍に、どれくらい長い時間であったのかは分からないけれど、いてくれている。
耳しか使い物にならないような状態の私の傍で、私のお気に入りの詩を奏でている。彼が「此処にいる」ことを知らしめるかのように、堂々とした声音で歌っている。
私の一番好きな詩を、私の一番好きな人が口ずさんでいる。
それらの状況を、長い時間をかけてようやく理解した私は……もう、何が何だか分からなくなってしまって、体を折り曲げて、ぐずるように泣き出してしまったのだった。
どうして目を開けることができないのだろう。
こんなにも喜ばしいことが、夢のようなことが起こっているのに、どうして私は風邪なんて引いてしまっているのだろう。
私の傍にいてくれるこの人に、どうして私の喉は「ありがとう」の一言も絞り出すことができないのだろう。
嗚咽は激しい咳に代わり、眩暈が一層強くなる。
バサ、と乾いた音を立てて詩集が落ちる。息を飲むようなささやかなそれの後で、「おやおや」と、いつもの声が降ってくる。
子供っぽく駄々を捏ねるように泣き出した私を見下ろすその目が、すっと細められる。
呆れるような、揶揄うような、諭すような、許すような、随分と尊大で寛大な目の細め方だ。そういう表情だと分かる。彼はそういう風に目を細める人だと知っている。
だから目蓋を開けずとも、分かってしまう。彼のことが、私の一番好きな人のことが、分かってしまう。
「どうしました? そんなに慌てて必死になって。病人は何もせず、死んだように眠っておくのが一番だというのに」
「……」
「貴方が蘇るまでの暇潰しに丁度いいものを見つけたので、当分は此処に居座るつもりです。構いませんね?」
ベッドの上で溶けるように臥せっていた私の身体に彼の手が伸びる。呆れたような溜め息と共に、くの字に曲がった私の背中が抱き起こされる。
読書灯の光が目蓋を刺した。今なら目が開けられそうだと思ったけれど、そうした予感を彼も感じ取ったのだろう、先手を打つように私の目を塞いできた。
手袋越しでも分かるその肌の冷たさが妙に心地よかった。
ついでとばかりに彼はその指先で、私の幼さの証である涙を拭い取っていった。彼の白い手袋には小さな塩辛い染みが付いてしまっているのだろう。
更についでとばかりに、彼は子供と戯れるように私をあやしてきた。
この人が小さな子供と仲良くしているところなんて想像も付かなかったけれど、
こんな風に有無を言わさず、力の加減を忘れたかのように抱きしめられたことなどなかったから、私はつい、彼に似合わない形容を当て嵌めてしまったのだった。
「……まで」
「何か?」
私は目を開けることを諦めて、喉に力を入れてみた。
狂ったように咳を吐き出したおかげで空気の通りがよくなったのかもしれない、僅かなら音を編むことができそうだった。
風邪を移してしまうかもしれない、とか、お仕事は大丈夫なんですか、とか、尋ねるべきこと、言うべきことは他にも沢山ある。
けれどもそうした全てを高熱の中に押し込んで、風邪のせいだと思うことにして、私はまた幼い頃に戻ったような駄々を、捏ねてみる。
「最後まで、読んで」
彼はいよいよ声を上げて笑った。笑いながら私を再びベッドにそっと沈めて、枕の位置を整えて、もう一度だけ、私の目を塞いだ。
「私の子守歌は高くつきますよ、お嬢さん」
楽しそうな声音だと、分かる。愉快そうに目が細められていることだって、分かる。
そうした理解に及べてしまう程に、彼はこれまでもずっと私の傍にいてくれた。
これからもそうであればいい、と思う。そうであってほしい、と思う。思うだけで、信じることはできない。未来に確信を抱くことは殊の外、難しい。
「……『こうした問いの答えを、私はようやく見つけました』」
けれども私が「蘇る」までの間だけは、彼は此処にいてくれる。彼がそう言ったから、私は信じられる。
その希望と共に眠りについた私が、近い未来に「蘇る」のなら、彼がくれた希望と共に私が蘇ることが約束されているのなら。
……それは「貴方が私を蘇らせてくれる」ということと、果たして何が違うのだろう。
「『私の歌を読んだ貴方は、お気付きになりませんか? ……私も「一枚」であると同時に、貴方と結ばれた「二枚」であったのだということを』」
10秒足らずの余韻を置いてから、彼は次のページに手を掛ける。
お気に入りの詩集が捲られる音がする。何度も何度も繰り返し読んできたものだから、その紙質が擦れる音を私の耳は正確に覚えきっている。
その懐かしく愛しい音は私のすぐ横で聞こえてくる。私の一番好きな詩を、私の一番好きな人が口ずさんでいる。
この奇跡のような時間をくれた彼に対する「ありがとう」は、私が「蘇った」後に取っておくことにしよう。
「早く良くなって、私の隣に立ちなさい。一枚では少々、心もとないのでね」
2019.7.12
早く元気になあれ!