B1-1

「ハジメ」をあたしは知らない。金色を両目に宿した彼の姿をあたしは見たことがない。
あたしが知っているのは「イズル」という名前であり、あたしが見てきたのは黒い髪を長くその背に流し、赤い眼球でこちらを睨み付ける彼の姿だった。
そして、そうした認識のねじれはなにもあたしに限ったことではないのだろうと心得ていた。
きっと誰もが「ハジメ」を知らず、「イズル」を知っているのだとばかり思っていた。

だからこそ「ハジメ」は「イズル」になったはずなのだ。
誰にも存在を認めてもらえない、希望に憧れるだけの予備学科生から、全ての希望を体現する存在へと生まれ変わることを望んだはずなのだ。
「ハジメ」は「超高校級の希望」になりたいと真に望んでいたはずなのだ。

絶望が蔓延るこの世界で、あたしは運良く生き長らえてしまっていた。
あたしには希望をもって戦うだけの意思などなく、けれども絶望に身を堕とすだけの理由もまた存在しなかった。
故にこの世界の空気がどれ程淀もうとも、街を歩くおかしなクマが何人の人を殺そうとも、同じ町の住人が一人、また一人といなくなってしまおうとも、
あたしは「関係ない」「知ったことではない」と無視を決め込んで、ただ、あたしのことだけを大事にしようとして、生きてきた。

いいことは、きっと一つもしていなかった。この世界であたしが行うことといったら、専ら「悪いこと」であった。
それは、おかしなクマの暴動により死体だらけになったコンビニエンスストアにそっと侵入して、今日明日分くらいのご飯になりそうなものを頂戴したり、
幸運にも生きたまま逃げ出すことの叶った人のいた場所に「たまたま落ちていた」鞄を自分のものにしてしまったり、
……そうした、昨今の荒んだ子供なら並み一通り経験していそうな、いっそ可愛らしいとさえ思える悪戯レベルの悪事であった。

それらの「悪いこと」が犯罪であることは重々承知していた。
けれどもその犯罪を、あたしみたいな希望でも絶望でもない人間がはたらく「悪いこと」を、咎め、裁く人はもういない。
この国の「悪いこと」に対する抑止力はもう随分前に枯れ果ててしまっていた。
きっと今の子供達は「罪」という言葉の意味を分かっていない。サイバンショも、ケイサツショも、もしかしたらガッコウだって、知らないかもしれない。

この世界は変わってしまった。けれどもあたしは「希望」のようにその変化を悲しむことも、「絶望」のようにその変化を喜ぶこともできなかった。

数年前までは当然のようにあったはずのものを懐かしみながら、その全てが失われた今の生活に順応したふりをしながら、あたしはあたしのためだけに生きている。
たまに「拾った」お金でお風呂に入って、たまに「拾った」温かいご飯を食べて、たまに布団で眠れる生活。
十分だと思った。希望にも絶望にもなれないあたしがこうしてこの世界に生かされていること自体、奇跡のようなことなのだと心得ていたからだ。

この世界は変わってしまった。その世界であたしは生きていた。生きたいとは思わなかったけれど、死んでしまいたいとはもっと思えなかったから、生きていた。

「ねえ君、香菜さんだよね」

あたしの名前が呼ばれたのは、そんな頃だった。
いつものように漫然と生きるはずだった今日という日。そこに「あたしの名前が呼ばれる」などという非日常が、異常な事態が、起きてしまった。
あたしは思わず振り返るより先に、空を見上げた。この劇的な瞬間のことを覚えておきたい。そう思ったが故のほぼ反射的な首の動きだった。
けれども、実はそうしたことをする必要などまるでなかったのだ。
だってこの空は昨日も、一昨日も、1か月前も1年前もこのような感じで、きっと明日も、明後日も、1か月先も1年後も変わらないのだろうと確信できたからだ。

アスファルトと同じ色をした空。深呼吸などしようものなら咳き込んでしまう程に濁った空気。
雨はねっとりとした臭いを放っていて、強く吹き付ける風が鼻先を掠めれば、ほら、どこかで爆発でもあったのだろう、僅かに火薬の気配がする。

「……」

この世界は変わってしまった。変わってしまったまま、ずっと変わらなかった。今までもこれからも変わらないまま、だからあたしもきっとこのままだ。

あたしは笑った。小さく笑った。おそらくは数か月ぶりに笑った。笑って、そして振り向いた。
そこには、希望にも絶望にもなれていないあたしでさえ名前を知る、あまりにも有名な人物が立っていて、思わず身構えてしまったのだった。
苗木、とその名前を声に出せば、彼は安心したように眉を下げる。あたしは彼が何故安心したのか分からず、眉を上げる。

「ボクのこと、知ってくれているんだね」

「そりゃあ、知っているわよ。有名人だもの」

「君だって希望ヶ峰学園では有名だったじゃないか。ボクなんかよりもずっと立派な超高校級の称号を貰っていたのに、何故だか頑なに予備学科を希望して……」

希望ヶ峰学園。懐かしさを抱くことさえ難しくなるような位置にその過去はあって、故にあたしは笑うことも憤ることもできずにただ、肩を竦めた。
確かにあたしはあの学園の生徒だった。そして苗木はあたしの一つ下、78期生の後輩。「超高校級の幸運」の称号を貰い、あの学園への切符を手にしたのだ。
「幸運」を才能として引き当てる取り組みはあたしの代、77期生でも行われていた。
77期生の「幸運」こと白いワカメは、この苗木のことを「ボクの後輩でありボクなんかよりもずっと素晴らしい幸運」と称して、可愛がっていた……ような気がする。

あの学園での居心地は悪くなかった。超高校級という称号さえあれば、あたしは大きな顔をして廊下を歩くことができたのだ。
個々の才能を伸ばすことを目的としているため、生徒が合同で受ける授業というものは極端に少なく、
最低限の一般教養だけ学んだ生徒たちは、他の時間を全て「才能を磨く」ことに費やしている、という有様であった。
最先端の施設と最高峰の指導者を掻き集めて作られたあれは、最早、俗世から隔離された小さな「町」のようにも見えた。

その「町」を維持するにはお金がかかる。超高校級の称号を持たない生徒たちが大勢この学園に「予備学科」として通っているのはそのためであった。
称号があれば「町」は無料で生徒を歓迎してくれる。けれども称号を持たないものがこの「町」の門をくぐろうとしたとき、門は残忍な面を露わにする。
法外な入学金と授業料を突き付けて、才能ではなく財産でのふるい分けを行うのだ。
それでも、希望ヶ峰学園には入学を希望する生徒が後を絶たなかった。実は私も、その一人だった。

入学試験の2日目、個人面接の場に訪れた学園長から「超高校級の××」という称号を頂戴してしまう。
そんな馬鹿げた奇跡さえなければ、きっとあたしは何の変哲もない、希望に夢を見る予備学科の一人として、希望に夢を見る「ふり」をして生きていたのだろう。
もしかしたら、その「希望に夢を見るふり」を続けることに疲れ果ててしまって、あの集団自殺にさえ参加していた……かもしれない。

けれどもあたしはこうして生きている。希望のためでも絶望のためでもなく、あたしのため、あたしだけのために生きている。
希望も絶望も知ったことではない。希望も絶望もあたしの何をも救ってくれたりなどしない。
だからあたしは「エノシマジュンコ」を恐れる必要はないし、「ナエギマコト」を敬う必要もないのだ。
あたしはこれまでもあたしだけを大事にしてきたし、これからもあたしだけを大事にしていればいいはずだったのだ。

「昔のことなんかもう思い出せないわ。それより、どうしたの? あたしの力が必要だから探しに来た……ようには見えないけれど」

昔のことなど思い出せない。
……そう告げたあたしは、けれどもこの青年の名前をしっかりと覚えている。
こんな出来の悪い嘘、彼ならすぐに見抜いてしまうだろう。けれどもそうした出来の悪い嘘を指摘するような無粋な真似は、きっとこの青年には、できないはずだ。
そうしたいつもの傲慢を振りかざしてあたしは笑った。青年はそうしたあたしの傲慢と尊大さを許すように目を細めつつ、口を開いた。

「日向くんが、君に会いたがっているんだ」

「ヒナタ? ……悪いけれど、記憶にないわ。人違いじゃないかしら」

「あれっ、知らないの? じゃあ君に会いたがっているのは日向くんじゃなくて、カムクラくんの方だったのかな」

火薬の気配が強くなった。遠くで鈍い轟音がした。ぽつ、ぽつと嫌な臭いのする雨が降ってきた。
不自然なところで固まってしまったあたしの頬を雨粒が叩く。そういえば今日はまだ顔を洗えていない。綺麗な水が、見つからなかったのだ。

「人違いよ」

「でもね、香菜さん」

「あたしに会いたいと思ってくれる人間なんてもう何処にもいないわ。家族は殺されたし、親友も死んだ。イズルだってもう生きていないはずよ。
……それとも未来機関は、死んだ人間を生き戻せるような技術でも完成させているのかしら」

「それが……生きていたんだよ。君の言うイズルくんはちゃんといるんだ」

強力な麻薬でも投与されたかのような、いっそ病気を疑う程に強い動悸だった。心臓が、あたしを殺しにかかっている勢いで暴れていた。
ここ数年、命の危機に見舞われてもあまり驚くことをしなくなっていたこの臓器は、
けれども「イズル」というたった一人の名前と、彼が「生きている」という事実に、どうしようもなく震えていたのだ。

あたしの知る人、あたしを知る人がまだ生きていた。あたしに会いたいと思ってくれていた。苗木はそれを伝えに来てくれたのだ。
それはあたしが、もう信じることを完全にやめてしまっていたはずの「希望」というものに見えて、この青年はあたしに確かな希望を運んできてくれて……。
成る程確かにそういう意味では、苗木誠という人間はまさしく「超高校級の希望」であるのかもしれなかった。

2019.6.19
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