13:D.C.「名前の歌」

月色に輝く羽を男の子の小さな手に握らせると、あっという間に冷や汗は引き、つぶらな瞳がそっと開いた。
両親が泣いて安堵する様子を、ゲンと少女は一歩離れたところで見ていた。どちらからともなく顔を見合わせて「よかった」と告げれば、いよいよ笑うことができた。

男の子はソファに座って温かいスープを飲みながら、両親に今回のことを話した。
開けない夜のミオシティで、黒い生き物に追われる夢をずっと見ていたこと。
家の方へと逃げて両親に助けを求めようとしたけれど、彼等までその怖い生き物に目を付けられてしまい、苦しむことになるのではないかと考え、遠くへ遠くへと駆けていたこと。
冷たい海を掻き分けたこと、怖くて怖くて仕方なかったこと。それでも、両親の自分を呼ぶ声が聴こえていたから、心を折らずに済んだこと。

「ダークライは、君のことが嫌いだから君に悪夢を見せたわけじゃないんだよ。このポケモンは、そうしなきゃ生きていけないの。……ごめんね、許してくれる?」

今回の騒動の説明をしたのは、ゲンでも少女でもなく、空になったモンスターボールを抱えた小さなチャンピオンだった。
その、少し使い古されたモンスターボールで、野生のポケモンを捕まえることはできない。ボールの中に「戻ってきていない」だけで、そのボールの主は既にいるからだ。
男の子は、自分に悪夢を見せたダークライのことと、その悪夢から目を覚まさせてくれたクレセリアのことを真剣な表情で聞いていた。
許してくれる?との女の子の懇願に、ふわりと砂糖菓子のように笑ってから「気にしていないよ」と歌うように告げた。

「でもダークライは悪夢を見せなきゃ生きていけないんだね。なんだか、悲しいや」

「……そうだよね、悲しいよね。私、皆が悲しくならないようにしたかったんだけどなあ」

「そうなの?それじゃあクレセリアを呼ばなくちゃいけないね」

不思議なことを言う男の子に、小さなチャンピオンは「どういうこと?」と首を傾げた。
ゲンにも彼の言っていることがよく解らなかったのだが、クレセリアとの会話を経た少女にはその言葉の意味するところが解っているらしく、クスクスと楽しそうに笑っていた。

「悪夢が長引かないように、クレセリアにずっと傍にいてもらえばいいんだよ。すぐに目を覚ましてもらうんだ。いい夢に変えてもらうんだ。
そうすればダークライは生きていけるし、僕等は悪夢に苦しまなくても大丈夫でしょ?」

それを聞くや否や、小さなチャンピオンは弾かれたようにソファから立ち上がった。
縋るように二人の方を振り返った彼女は、震える声で「私を、満月島に、」と口にする。ゲンの隣にいた少女はやはり笑って頷いて、その小さな手を取る。

「クレセリアも貴方のことを待っているよ。私にはそういうこと、分かるの。素敵でしょう?」

細めた黒曜石の瞳は母のように温かい様相を呈していた。小さかった筈の背中はもう、覚束ない少女のものではなくなっていた。

クレセリアは、この小さなチャンピオンと共にダークライを探すことを選んだ。
赤と白の一般的なボールに収まったその珍しいポケモンは、優秀なポケモントレーナーである彼女とすっかり意気投合したようであった。

「いつか戻って来てくれるよね、そうしたらずっと一緒にいられるもの。これから皆と一緒にシンオウ地方を回って、ダークライを探すんだ」

彼女のポケットには、これで5つのボールが入っていることになる。
以前、少女を乗せてミオまでの海を渡ったというエンペルト。旅の序盤からずっと一緒だったらしい、電気タイプの凛々しいポケモン、レントラー。
マスターボールという、とても珍しい紫色のボールに入っている、あのギラティナ。そして、今回のクレセリアだ。
ダークライが入っていたと思しきモンスターボールを、まだ彼女は手放していない。それこそ、彼女が今もダークライを待ち続けているという証明であった。

クレセリアがいれば、もうミオシティにいる子供達が悪夢を見続けて苦しくなることもない。悪夢にうなされる子供を案じて、両親が心を痛めることもない。
クレセリア自身も、ダークライによる被害が少なくなることを願っている。そして何より、小さなチャンピオンもダークライに会いたがっている。

アイラさん、ゲンさん、ありがとう!私だけじゃダークライのことに気付けなかった。私じゃきっとクレセリアに会えなかった。二人だからできたんだよ!」

「……いや、アイラはともかく私は何も、」

「波動の力って素敵だね。皆が悲しくならないようにできる力なんだね!」

『皆が悲しくならないようにしたかったんだけどなあ。』
悲しそうにそう告げた女の子の願いが、叶おうとしている。二人はその助けをすることができた。二人が波動の力などというものを持たなければ、為し得なかったことであった。
その「事実」を噛み締めてゲンはただ驚いていたが、隣で少女はもっと驚いていた。
クレセリアを連れた小さなチャンピオンは、そんな二人を交互に見比べて至極楽しそうに笑い、大きく手を振ってからミオシティを去っていった。

船頭は「二人は息子の恩人だ」と泣きそうな笑顔で何度も頭を下げ、1年分の乗船券をプレゼントしてくれた。
少女は顔を青ざめさせて強すぎる遠慮の意思を示したけれど、ゲンは苦笑しながらその分厚い束を受け取った。
人間という生き物は今回の船頭のように、何かしらの形で感謝を差し出さなければいられないところがあるのだということを、ゲンはもう十分に分かっていたからだ。

1年分の乗船券から2枚だけ切り離し、船頭に手渡す。ミオの跳ね橋がゆっくりと上がる。
男の子と母親が、家の窓から顔を出して手を振っている。少女は満面の笑みで振り返している。ゲンも暫く迷った後で、振り返した。
跳ね橋を通過するのを合図として、船は一気に速度を上げる。びゅう、と吹き荒ぶ潮風は、けれど2か月前よりほんの少しだけ、温かくなった。
時の経過を、人の歩みを喜ぶように二人は顔を見合わせて笑った。波動使いもれっきとした人間であったのだと、当然のことを噛み締めていたくなったのだ。

「私達は怪物のように、残酷にはなりきれませんでしたね」

「そうだね。君も私も、どうやら少し恐れすぎていたみたいだ」

「貴方は、80℃でよかったって思うことができるようになりましたか?」

「ああ、きっとそれが私達の定めだったのだろう。もう恨まない、憎めない。ただ、いつまでも80℃に留まるつもりは微塵もないのだけれどね。……君だってそうだろう?」

はい、と少女は大きく頷く。少し伸びた髪が潮風に忙しなくはためいている。その黒曜石の髪も、瞳も、あの村に生まれなければ持ちえなかった珍しいものだ。
より強い遺伝子によって淘汰されて然るべきであった筈の色が、力が、ゲンにも少女にも宿っている。
遺伝子を書き換えることなどできない。人を造り変えることなどできない。目の色を変えることなどできないし、波動の力を忘れることもできない。そして、それでいい。

「もう、80℃であったことを悔いたりしません。でも、80℃から変わることを恐れたりもしません。
変えられない温度であったことも、変えられる温度になれたことも、悲しいことじゃありません。もしこれから先、悲しくなったとしても、私達は独りじゃないから大丈夫です」

「これから……?もしかして君はこれからも、私と一緒にいてくれるのかい?」

「あら、少なくともこの乗船券がなくなってしまうまで、私はあのお家から出て行くつもりなんかありませんよ。私は酷い人ですから、貴方が嫌だと言っても離れないんです」

ああ、ならばこの乗船券は絶対に使うまい。そうした酷いことを考えてゲンは困ったように笑った。
やはりゲンも少女も酷いことには変わりなかったのだ。ただし酷くとも「人」であった。その祝福を噛み締めるように二人は笑った。恥じる必要も隠す道理も何も存在しなかった。

今回の件に関しては、あの小さなチャンピオンや男の子の母親に理解があっただけで、本当は、やはりこの力は異質なものであり、忌避されるべきものであったのかもしれない。
そうした危惧ができない程、二人は子供ではなかった。そんなことは解りきっていた。それでも笑えたのだ。
全ての人に理解を乞おうとは思わない。二人のことは、二人が大切に想う人達が知っていてくれさえすれば、それでいい。

「もう一度、修行をしてみようか。私達にできることを探すために、この不思議な世界をもっとよく知るために」

彼女も、少なからず考えていたことだったのだろう。ゲンの提案に驚く素振りを一切見せず、照れたように笑いながら大きく頷いた。

言語、感情、力……様々な形を取る波動を、誰かのために使う術を探そう。誰かの上に立つための力、誰かを支配するための力ではなく、誰かを助けるための力を磨こう。
修行を重ねること、言葉を尽くすこと、理解を求めること、耳を澄ませること。そう悪いことでもなかったのだと、ゲンも少女も気付くことができた。
村を出たことには確かに意味があった。彼等がこうして生きるためには、やはりあの閉じた世界はどうにも狭すぎたのだ。

「でも私は落ちこぼれだったから、上手くいかないかもしれません。そのときは、どうしますか?」

「君の得意なことをすればいい。何も四六時中、波動のことばかり考えている必要はないんだよ。私達はもっと自由に生きられる生き物だからね。
たとえば、君の好きな料理をもっと磨いて、ミオシティに小さな店を持つことだって、できるかもしれない」

ぱっとその顔に花が咲く。私がお店を?と上擦った声音が細い喉から零れ出る。大きく見開かれた黒曜石の瞳が、まるでラブラドライトのようにキラキラと瞬く。
ああ、夢を見る少女というのはこんなにも美しいものなのかと、ゲンはまた一つ、新しいことを知った。

鋼鉄島の無骨な坂へと足を掛けた少女の名前を呼ぼうとして、酷い彼はちょっとした悪戯を思いついた。

驚くだろうか。息を飲むだろうか。乗船券の束を取り落としたりはしないだろうか。
それとも「なんとなくそうする気がしていましたよ」と、見抜かれてしまっているだろうか。
目は見開かれるだろうか。声は零れるだろうか。笑うだろうか。泣くだろうか。
君は答えてくれるだろうか。

アイラ

弾かれたように振り返った少女の、大きな黒曜石の瞳には、照れたように笑う酷い男の姿があった。


2017.3.11

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