Afterword2

2、「木犀」について
4月から書き始めたこの連載、マーキュリーロードのように最後まで突っ走ることができればよかったのですが、そうはいきませんでした。
アルミナの希死念慮、ズミさんの閉鎖的で破滅的な崇敬、「あたし」の早すぎる諦念と生への渇望、お姉ちゃんにべっとりと貼り付いた「呪い」……。
そうした「やさしすぎた」人達の生き様を書いているうちに、書いている私の心もおかしなことになってきてしまいました。
生きていたって仕方がないわと、何の抵抗もなくそう思えるようになってしまって、生きるためのあらゆる営みが、ひどく馬鹿げたもののように思われてしまって……。

その結果、どうにも思うように書けなくなってしまい、5月を丸々使って、この連載の執筆を「休止」するという、とても自堕落なことをやる羽目になってしまいました。
更新を待っていてくださった方には、本当に、申し訳ないことをしてしまいました。

ただ実は、このようなみっともないことになってしまったのは、今回が初めてではありません。
修正版「木犀」を書いていた折にも、どうにも気持ちが悪くなってしまって、生物学的な営みが、人間的な心の躍動が、どうにも煩わしく鬱陶しいものに思われてしまって、
パソコンのキーに指を置いても全く言葉が出て来ない、というような状態がひと月以上、続いていました。
そういえば、あれを書いていたのも4月、休止をしたのも5月、やっとのことで更新を終えられたのが6月末、という感じでしたね。
「木犀」とこの「やさしくありませんように」は、私が書き始める時期、執筆に躓く時期、書き終えることのできた時期、という要素においても、悉く共鳴していたのだと思います。

「樹海」や「上に落ちる水」よりも閉鎖的で、「冷たい羽」よりも残酷で、「マーキュリーロード」よりも醜悪で、「木犀」とは別の意味で、「木犀」と同じくらい惨たらしい。
そういう連載であるという点において、「やさしくありませんように」は正しく、真に「木犀級」の様相を呈していたように思われます。

「やさしくありませんように」の中に「木犀」を色濃く滲ませようと考えた一番の理由は、
「あいつの死は美しいものでもなんでもなかったのだ」ということを、今一度、物語の中で強調させておきたかったからです。

『お姉ちゃんが殺したい程に憎んでいたあいつの死。それを美しいものにしたのは他でもないマリーだったのだ。マリーが犯人だったのだ。
マリーはそうしなければ、生きていかれなかったのだ。』
『マリーはあいつのそうした、ひどく滑稽な「緩慢な自殺」を限界まで美化して、あいつの選択をいつだって美しく在らしめて、
「××を忘れないで」と、この本の中で乞い続けて、そうやって、あいつの死を抱えて生きていくことを選んでいる。
それがあいつの願いでもあったから、「親友」であるあいつがそう願ったから、マリーは生きるために、あいつの死を背負い続けている。』(第三章48話)

「あたし」が日記にこう書いているように、「あいつ」の死は美しいものでは決してありませんでした。
あいつは自殺しています。自ら望んで命を縮め、自ら望んで死んでいます。
そんな彼女の死は、美しくなどありません。褒められるべきものでもありません。許されるべきものでもありません。
けれども残された人、マリーやオーナーといった人達は、あいつの死を、美しいものにしなければいけませんでした。
その死に意味を見出さなければいけませんでした。彼女を許さなければいけませんでした。

何故なら人は、大きすぎる絶望をいつまでも抱え置くことはできないからです。
先立たれてしまったことへの苦痛、悲しみ、絶望、そうしたものを乗り越える必要があったからです。そうしなければ生きていかれなかったからです。
そういう意味で、あいつの願いを聞き届ける形で本を書く、というマリーのあの行為は、
マリーと、マリーの大切な人達が、あいつの死に連れていかれないようにするための、マリー自身のための作業であったのかもしれません。

「木犀」の世界線において、死んでしまったあいつはカロスの中に生き続けています。
マリーが書いた本によって、オーナーが植えた金木犀の木によって、色濃くその存在をこの街に残すことに成功しているのです。

まるで生きているかのように。まるで許されているかのように。

本当はとっくに死んでいるのに。本当は誰にも許されてなどいなかったのに。


3、「木犀」と「やさしくありませんように」の比較
私はこれを書いている間、何度も「私は私が過去に書いた物語を台無しにしている」という罪悪感に、胸の痛い思いをしました。
自らが綴った物語を否定し、蹂躙し、嘲笑う。今回の連載はそのような色を含んでいるように思われていました。こんなもの、と何度思ったかしれません。
けれども書きました。過ぎる一瞬を永遠にするために、今回も私は綴ることを選びました。
何年か後の私がこの連載を読んで、「馬鹿じゃねえの」と笑ってくれることを期待しています。その折には、もしかしたら羞恥に耐えかねて消してしまうかもしれませんね。

以下、「木犀」と「やさしくありませんように」が、どれほど真逆の様相を呈しているかということを、箇条書きにてまとめていきたいと思います。
「木犀」を①、「やさしくありませんように」を②として記します。

・概要
①理想を書いた、やさしい死の話
②現実を書いた、やさしくない生の話

・追いかけた年数
①30年(②の8~38年がこれに相当する)
②50年

・主人公とその最愛の末路
①死んでしまった
②生き続けている

・主人公への罰
①自らの愚行により、あと数年で死んでしまうことが罰 → 【死が主人公への罰】
②生きていること自体が罰 → 【生が主人公への罰】

・枯れてドロドロになった花
①彼女の「死への恐怖・拒絶」の象徴
②彼女の「死への羨望・憧憬」の象徴

・マリーが執筆した本「木犀」
①彼女の【命のような言葉】を届けるためのもの、彼女の魂を永遠に留め置くためのもの
②生きなければいけない、というメッセージであるが、それを正しく受け取れなかった人物もいる

・「あいつ」の死
①悲しすぎる死を乗り越えるために、彼女を大切に想う人達によって「本」と「花」にその魂が宿された
②彼女の願いは呪いとなって、「お姉ちゃん」やマリーやその夫を苦しめるに至っている

・主人公に近しい人の苦痛
①「小説だったらどんなによかったかしら」「あんたのせいで!あんたが、母さんと親友なんかになったせいで!」
「何故彼女は死ななければならなかったのか?」「わたしは何もできなかったんです」
→ 生かしたかった、という後悔と、死なせてしまった、という罪悪感が、残された人達を苦しめ、その残された人達の苦痛により、巡り巡って「あいつ」は恨まれるに至っている

②「いつになったら彼女は生きやすくなってくださるのでしょう」「ああ、でも!でも!そんなのはあたしの思い上がりだ、彼女は生きていたくないのだ!」
→ 生かしたい、という理想と、けれども彼女は生きていたくない、という現実との間に圧し挟まれ、息が詰まりかけている

・文章抜粋
①「私と生きてください」
「疲れたのなら、休めばよかったんだよ。私は××が生きてくれているだけでよかったの。でも死んでしまったら、もう疲れることも休むことも、生きることもできないんだよ」
「お願い、死なないで」「生きたいって言って」「嫌だ、私はまだこうなりたくない。死にたくない」「早すぎる、君はもっと長く生きてもいい筈だった」
「私は色褪せていく。誰もそれを止められない」「皆に愛されたいと願うあまり命を投げ出すような愚かな過ちを、誰も繰り返すことの無いように、貴方が語り継いでくれるのね」
「最期まで強く優しく生きた××のことを、私は忘れない。貴方は誰にも忘れられない。世界は、絶対に貴方を忘れたりしない」
「もし、こんな欲張りな私が、もう一つだけ欲張ることができるなら、どうか私が、貴方にとって唯一無二の親友で在り続けられますように」
「彼女の死は誰も幸せにすることができなかった。それが全てだったのだ」

②「私と生きてください」
「もうわたしにはお金がない。お金がないとあなたに会えない。あなたに会えないなら、生きていたって辛いだけ。辛いだけだから、生きなければいいの」
「貴方は本当にそれでいいんですか?だってあの人は、ただピアノのある部屋に美しく咲いているだけで、生きるために必要である筈の、生産的で生命的なことを、何も、」
アルミナは生きている!これからも生き続ける!そのために私がいるのだ、彼女が生きていかれるようにするために、私は生きているのだ!」
「わたしもこの本のような素敵な死に方をすることができるかしら?」
「生きるってとても恐ろしいことね。惨たらしいことね。やっぱりわたしは生きていかれないんだわ。生きていたって、仕方がないのよ」
「生きなければいけない、と思う。けれどそれと同じくらい、生きていたくないのなら、生きなければいい、とも思う」

・結末
①それでも、死んでしまった
②それでも、生き続けている


以上です。
二つのテーマ、願い、祈り、そして結末。これらは真逆のものであり、相反するものでした。
私は「木犀」での祈りを台無しにするような「やさしくありませんように」を書くことが本当にいいことなのか、ずっと迷っていました。更新してからも、後ろめたく思っていました。
けれど実はこの二つの連載には、類似する内容のご感想を複数、お寄せいただいていました。

①木犀
【他にもっとできたことがあるのでは、なんてことは思うことはできませんでした。私は、この形が良かったんだと思いました。】

②やさしくありませんように
【終盤にあたる場面で、「ああ、皆は本当に幸せになれてるんだろうな」と、少しだけホッとしました。】
【みんながみんな、「ああ、この子はもう大丈夫なんだな」って思えました。】

悲しすぎるやさしい死の話「木犀」と、惨すぎるやさしくない生の話「やさしくありませんように」ですが、
この二つへの「よかった」が同じところに帰結していることに、書いた本人である私が一番、驚かされてしまいました。

死んでいった人も、生き続けた人も、物語の最後には同じような平穏を得ることが叶っている。懸命に時を流した彼等は等しく幸いである。
そのことを私は、読んでくださった皆さんのお言葉により気付くことができました。
この物語を書いてよかった。やっとそう思うことができました。皆さんのおかげです。読んでくださり、言葉を尽くしてくださり、本当にありがとうございました。


2017.7.7

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