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<ある海の音声メモ・2>

……ところで、母さん。
私はあまり弱音を吐かなかったけれど、私にだって、挫けそうになったこと、何もかも嫌になってしまったことが、あったのよ。

例えば、研究所で働かせてもらっていたとき。
15歳でいち早くあの世界に飛び込んだけれど、未熟な私にさせてもらえることなんて雑用ばかりだった。
ゴミを捨てたり、実験の片付けをしたり、書類を一枚ずつ封筒に入れたりとか、そんなことよ。
こんなことがしたいんじゃなかったのに。私は父さんのように、知的好奇心の赴くままに何でも調べて、何でも研究したかったのに。
私は、その入り口にさえ立たせてもらえなかった。悔しくて、虚しくて、私がこれまでがむしゃらに頑張ってきたのは何だったんだろうって、思ったわ。

それに、カロス最年少のポケモン博士になったときにも、周りの私を見る目はとても厳しかった。
学会発表で私の番が回ってくるでしょう。そうすると何人かの博士が、席を立つのよ。こんな若造の話なんか聞いていられないって、コーヒーブレイクに出掛けてしまうの。
勿論、私の発表を聞いてくれる人もいたのよ。でもその人達だって、若すぎる私に情けをかけてくれているだけかもしれない。
笑顔で相槌を打ってくれている人だって、心の中では、つまらないとか、退屈だとか、そういうことを考えているんじゃないかって、疑ってしまって。

それから、私の親友が、彼女自身の両親を殺す算段を立て始めたとき。
家族のかけがえのなさというものは私にだってとてもよく解っていたから、きっとこの子に母親を殺すことなんかできないだろうって、思ったわ。
でもあの子は殺せると思い上がっていて、必ず殺すと言い張っていて、私はその危うさがとても恐ろしかった。

あの子はとても若かった。意思が強かった。度胸だってあったわ。だからこそ、とても危なっかしかった。
あの子が間違った思い込みの果てに、母親ではなくあの子自身を殺してしまうんじゃないかって、そう考えるともう、怖くて堪らなかった。
もしそうなってしまったときに、私はどうすればいいんだろうって、ずっと考えていたわ。
私はあの時、何て言ってあげればよかったのかしら。どんな言葉をあの日の彼女は求めていたのかしら。
止められないと解っていても最後まで喚くべきだったのかしら。それとも早々に諦めて彼女を支えるべきだった?

頭が溶けてしまうんじゃないかってくらいに、考えて、悩んで、苦しんで、……そうしてようやく、私は貴方の気持ちを完全に理解することができたのよ。
大切な人を止められないことへの絶望、屈辱、そうしたものを、ようやく知ることができたの。
……いいえ、それでも私の親友は生き続けてくれているから、まだ、貴方の心地には及ばないのかもしれないけれど。

それでも、あの子が間違った判断を下していれば、あの子の母さんがあの子を止めてくれなければ、もしかしたら本当に、私は親友を失っていたかもしれない。
あの子が私の用意した、お砂糖の詰め込まれた「青酸カリ」の小瓶を見つけなければ、あの子は本当に、私の止めようのない方法で死んでしまっていたかもしれない。
そう考えると、今でも泣きたくなるの。私がどれ程無力でどれ程小さな存在であったかを、私はあの日を思い出す度に、痛感する。

私、頑張ってきたつもりよ。生きるために持てる全ての力を尽くしたつもりよ。
でも、どんなに頑張っても思うようにならないことってあるの。変えられないことって、世の中にはあまりにも多いの。

私ね、あいつが死んでしまったのは、あいつが臆病で卑屈で、怠惰だったからだと、ずっとそう思っていたわ。
あいつが臆病だったから、生きていることさえも恐ろしくなってしまった。
あいつが卑屈だったから、親友であった貴方への劣等感をずっと抱え続けていて、最後にどうしても一矢報いたくなってしまった。
あいつが怠惰だったから、「努力も何もなしに、美しく死ぬこと」を叶えてくれる、毒の花やイベルタルに、手を伸べてしまった。

でも私は違うわ。私は臆病でも卑屈でも怠惰でもないつもりよ。あいつとは真逆の人生を歩んできたつもりよ。
それなのに、時折、どうしようもなく虚しくなることがあるの。生きているってどうしようもなく苦しいことなのだ、生きることは易しくなんかなかったんだって、思ってしまうの。
……ごめんなさい、母さん。怒らないで聞いてほしい。

私は、緩慢な自殺を選んでしまったあいつの気持ちが、解るの。

疲れすぎてしまった。明日を懸命に生きることに希望が持てなくなってしまった。息をするのも辛い、息苦しい。生き苦しい。
そんなとき、目の前に甘美な誘いが現れたとしたら。それを手に取れるとしたら。その権利を有するのが、私だけだったとしたら。
誰にも邪魔されることがなく、誰にも止められることもなかったとしたら。
私の存在がより美しく、より眩しく、より多くの人に認められる形で永遠に残り続けるのだとしたら。そのために「命」を代償としなければならないのだとしたら。

 
私があいつを憎んでいたのは、あいつが私を呼んでいたからだったのかもしれない。

 
母さん、貴方にはきっと解らないでしょう。それでいいと思う。貴方はこんな気持ちなんか解っちゃいけない。
いつだって、変えるための勇気を正しく奮って、実際に多くのことを変えてきた貴方には、私やあいつの気持ちを真に理解することなんてできやしない。
そして、それでいいんだと思う。死にたいなんて一度も思ったことのない貴方だからこそ、皆が貴方に焦がれたのだと思う。
私も貴方のことを、私の唯一無二の母として、また一人の女性として、大好きになったのだと思う。

でも私は時折、死にたいと思うわ。生きていることがとても、とても苦しくなる。
どうして今のカロスにはイベルタルがいないのかしら。どうして今のセキタイタウンには毒の花がないのかしら。
……私はあの本を読み返す度に、そう思うの。綺麗に死んでいったあいつのことが、とても憎くて、そしてとても羨ましい。
周りの人を不幸にして、私の母さんに一生消えない憂いを刻んで、そうして誰もの記憶に残り続けるあいつの、短すぎる、狡すぎる、美しすぎる命に、私はなりたい。

イベルタルがいなくなってしまったから、毒の花はもう枯れてしまったから、私は生きなければいけなかった。
綺麗に死んでいけるための全てが此処にはない。私はあいつにはなれない。私は死ねない。私は生きなければいけない。

だから私は仕方なく、生き続けたわ。
そうしたら、ほら、楽しいことが沢山できた!
かけがえのない親友に会うこと、子供の成長を見守ること、夫に「行ってらっしゃい」と言えること、ポケモン博士として最初の一匹を子供達に渡すこと。
全部、私があいつと同じ選択をしていたらできなかったことだわ。だから私は今、あいつと似た精神構造を持ちながらも、此処まで生きて来られた私を誇りに思っている。

それに、もう私は死にたいなんて身勝手なこと、思えなくなってしまったの。
私を「かけがえがない」としてくれる人に、沢山、出会ってしまったんだもの。
私がいなくなってしまったら、まだ小さいあの子はどう生きればいいか解らなくなってしまうかもしれないんだもの。
誰かのために生きるって、独りの時よりもずっと重たくて、ずっと苦しいことね。
でも、そのおかげで私は生きている。あの子を生かしているつもりが、あの子に生かされていたのよ。

貴方にとっての私も、そうだったのかしら。
私、貴方の楔になれていた?

……けれどもしかしたら、こういうことだって全て、美しく死ぬことができなかった私の、負け惜しみなのかもしれない。
でも、それでもいいわ。生きているってきっとこういうことなのよ。優しくも、易しくもない。やさしく在ってはいけない。やさしくない方がきっといい。

 
やさしく、ありませんように。

 
私ね、とても楽しみにしていることがあるのよ。
死後の世界で、私はあいつに会うの。あいつの生の声を聞いて、ああ、本当はこんな人だったんだって、やっと知ることができるの。
それで、私とあいつは何日もかけて、お互いの人生を語るのよ。どちらが幸せだったかしらって、どちらがより輝いていたかしらって、語り合うの、競い合うのよ。
勿論、私は負けるつもりなんか更々ないし、その人生談義にはあと60年くらいの時間がかかるでしょうね。私は90歳になっても元気でいるつもりだから。
……ええ、勿論、貴方の言葉を借りたのよ。母さんも、90歳になるまで元気でいてくれるんでしょう?

一緒に生きましょうね、母さん。貴方がどんなに素敵なおばあちゃんになるのか、私に見せて。
……ううん、貴方が私にお手本を見せてくれなかったことなんて、今まで、一度もなかったけれど。

貴方はどんな風に死んでしまうのかしら。でもどんな終わりにせよ、いつだって懸命に生きてきた貴方の死はきっと穏やかで、優しいものだわ。
私もいつか、そんな風になりたい。私はもう、あいつを羨まない。羨むのはいつだって、私の大好きな貴方のことよ、母さん!


2017.6.30
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