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<ある海の音声メモ・1>

母さんへ。

私は母さんのように文字を書くのが上手じゃないし、父さんみたいに人間的な言葉を温かく綴ることもできないの。だからメッセージを録音して、声の形で残しておくね。
貴方はこれを自分の文字に書き起こして、貴方の物語の中に加えてもいいし、私の声のまま、貴方だけのものにしてしまっても構わない。
けれどどちらにせよ、母さんならきっと最後まで聞いてくれるよね。私の母さんはそうした人だってこと、私は知っている。
貴方が誰よりも誠実で、真面目で、懸命で、一途であることを知っている。けれどそれらを貫くために、あなたがどれ程の不誠実と嘘を重ねてきたのかということも知っている。

それでも私は貴方の娘でよかった。貴方の娘であることを誇りに思っている。そう思えたから、今日、こうして貴方にメッセージを送っているのよ。
どうか、解ってください。

母さんが私を産んだのは22歳のとき、父さんと出会って11年目のことだったって、言っていたよね。
つまり父さんは私よりも11年も多く、母さんとの時間を過ごしていることになる。
でも私は父さんよりもずっと、貴方に近い場所にいたわ。ずっと貴方に守られてきた。
貴方は仕事を完璧にこなしながら、度の過ぎる献身を多くの人に行いながら、沢山の愛情を、たまに鬱陶しくなるくらいの愛情を私に注いでくれた。
……あら、いけない?私にだって反抗期くらいあったのよ、許してね。

だから私、母さんを分析することには、父さん以上に強い自信を持っているの。
私は母さんのことをずっと見てきたわ。父さんよりは短い時間だったかもしれないけれど、私は父さんよりもずっと近くで、貴方と一緒にいたの。貴方に生かされていたの。
私、きっと父さんよりもずっと、母さんのことをよく知っているのよ。

……そんな私が、父さんよりもずっと深く、貴方の憂いを悲しんだとして、それは当然のことだったのかもしれない。
貴方が背負わなくてもいい筈の罪を背負っているという事実に、父さんよりもずっと強く憤ったとして、それも当然のことだったのでしょう。
父さんよりもずっと深いおぞましさで、わたしはあいつを恨んでいる。この憎しみはきっと誰にも負けないわ。
この歪な思いは私だけのもの、貴方にも父さんにも持ち得ない、私の誇りよ。

父さんは夢の中でよく、あいつの首に手を掛けて絞め殺そうとしていたらしいわ。そんな夢を見てしまうくらい、彼は貴方の憂いを悲しんでいたし、あいつを恨んでいた。
でもあたしはそれよりもずっと多く、あいつを殺してきた。夢の中で何度も殺した。父さんの夢はいつだって未遂みたいだったけれど、私はちゃんと、殺せたのよ。

私はあいつの姿を、あのカフェにある写真の中と、母さんが水彩色鉛筆で描いた絵の中にしか見たことがない。
だからあいつがどんな表情で目を伏せるのか、その華奢な肩がどんな風に強張るのか、その細い喉でどんな声を紡ぐのか、私には解らない。
解らないから、色々と想像したわ。私が殺すことになる相手がどんな風だったのか、何度も何度も想像した。創り上げた。
その結果、私の夢の中には何人ものあいつが出来上がってしまった。
私はその全員を殺したわ。首を絞めたり、崖から突き落としたり、燃やしたり、ナイフを突き立てたりした。私はただ、夢中だったわ。

でもどんなに殺しても、虚しいだけだった。
だって目を覚ませばあいつは生きているんだもの。カロスの街に、母さんの中に、あの本の中に、あの花の死臭に、あまりにも美しく生き続けているんだもの!

……ねえ、もう随分と前に、ミアレシティの金木犀の木が手酷く傷付けられた事件があったこと、覚えている?
貴方はきっと、あいつを象徴するあの植物が折られたことに心を痛めていたと思うわ。
でもあれ、私がやったの。夜中に住み込みで働いていた研究所を抜け出して、ミアレシティの大通りをぐるりと回って、全ての枝を一本ずつ、折っていったの。
それにあのとき、私が18歳の頃の、あいつの命日の夕方……。あのとき、あの子が、私の親友が傍に居てくれなかったら、私は一際大きな金木犀の木を燃やしさえしたかもしれない。
あの子がいたから思い留まることができたけれど、もしいなければ、きっとあの日、ミアレの街で大規模な火災が起きていたと思うわ。

……こういった具合で、私は、父さんよりもずっと過激なことをしてきた。夢の中でだけじゃなくて、現実の世界でも実行までした。
私には、父さん程の良識はなかった。いいえ、良識を見失わせる程に、私の憎悪は深かった。……うん、こちらの言葉の方が、母さんの好みかもしれないね。
そして私は母さんみたいに難しい考えで、あいつを許すこともできなかった。いいえ、冷静な思考を失う程に、私の絶望は大きかったの。

生きたくないのならそうすればいい。逃げたいなら何処へだって行ってしまえばいい。
その行き先が、もう二度と戻れない「死」であったとしても、知ったことじゃない。好きにすればいい。好きに、死んでしまえばいい。
でも他人を、今まで誠実に真面目に懸命に一途に生きてきた誰かの幸せまで、連れていかないでほしかった。その身一つのままに、たった一人で死んでいってほしかった。
その、幸せを奪われてしまう「誰か」が、他でもない私のたった一人の母親なのだから、尚更、許せる筈がなかった。

そして、……これは私がもう少し大きくなってから解ったことなのだけれど、人は、どうしても、独りで死ぬことなんてできないのね。
誰もが、誰もの幸せを、その死と共に連れて行ってしまうものなのね。
誰が死んだとしても、誰がいなくなったとしても、やっぱり人の死は、悲しいものね。悲しまれるべきなのね。優しくなんかなかったのね。

小さい頃から、あいつのことを考え続けていた私は、そうした人の生き死にに関してとても敏感になっていたような気がする。
私は、異常だったわ。ほんの戯れにも「死にたい」とか「死んでしまえ」とか、口にする人のことが許せなかった。生きることに無気力な人のことが、とても恐ろしかった。

だから私、4歳になったあたりから、あの子の家に付いていかなくなったでしょう。
あの子の母さんは生きることにとても消極的だったから、怖かったの。私まで、引きずられてしまいそうな気がしたの。
今だから言えるけれど、私は貴方があの子の母さん、アルミナさんと関わることさえも私は気に入らなかった。できることなら「行かないで」って駄々を捏ねたかった。
母さんが、あの不気味な世界に、花の死臭の漂う気持ちの悪い世界へ連れていかれて、戻ってこなくなるんじゃないかって。

どうして皆はあまりにも簡単に、死にたがってしまうのかしら。どうして皆は限りある命を、懸命に生きようとしないのかしら。
私はずっと不思議だった。その理由をどうしても知りたかった。

だから私、イッシュではなくカロスで働くことにしたのよ。
だってこの街には残酷な木があるから。その強すぎる死臭で「私を忘れないで」と訴え続ける、あいつの影があったから。
母さんも父さんも誤解しているかもしれないけれど、決して、貴方達のことが嫌いだから家を出た訳ではないのよ。
私の憎しみはいつだってあいつに向けられていたの。父さんと母さんを嫌ったり、憎んだりしたことなんか、……ええ、きっと一度もなかった筈だわ。
寧ろ、大好きだった。鬱陶しいと思ったことも、うんざりだと思ったこともあったけれど、それでも貴方達が愛してくれたから、私も貴方達のことを大好きになれた。

人が死ぬ理由、人の死が大切な人の幸せを一緒に連れて行ってしまう理由。それを私は知りたくて、この死臭の漂うミアレシティで生きようとした。
カロスで暮らし始めてから、あいつへの憎悪は程度を増したわ。大通りを歩けば毎日のように、金木犀の木を見ることになるのだから、当然のことだったのかもしれない。
私はあいつを今まで以上に憎んだわ。あんたがいなければ、あんたのせいで、って、何度も何度も、呟いていた。

誰かが「マリー」の話をする度に、あいつの影がちらついた。
貴方の本当の名前は、あいつのただ一人の親友のために捧げられていて、カロスに生きる人の殆どは、貴方の本当の名前を知らなかった。
私はそれがとても悲しくて、悔しかった。

あいつの死んだカロスで、私は強く生きてやろうと思ったわ。あいつのことを、思いっ切り笑ってやろうと思った。
でも、ミアレシティには金木犀の木が何十本も植えられていて、その死臭を嗅ぐ度に、あたしはあいつのことを思い出した。あいつへの憎悪を思い出さずにはいられなかった。

そして私は、気付いてしまったの。
きっと、私があいつのことを憎み続けることだって、あいつの思うツボだってこと。私のこんな憎悪は、あいつにとって「ご褒美」以外の何物でもないんだってこと。
そうすることで、自らを憎んでもらうことで、あいつは「私を忘れないで」という、とても卑しい願いを叶え続けることに成功していたんだもの。
私は大嫌いだったあいつの願いを、あいつを憎むことで叶え続けていたことになってしまうんだもの。……滑稽でしょう?

だからそれに気付いてからは、私、誰よりも幸せになろうと思った。この死臭の漂う街で、誰よりも元気に生き続けようと思ったわ。
生きているってかけがえのないことなんだって、そうやって誰も彼もに示して回った。私の生き様を曝け出して回った。皆に、あいつに、見せつけるように、生きていこうとした。

15歳で働き始めたわ。誰よりも沢山勉強したし、誰よりも沢山働いた。その合間を縫って、遊びにだって沢山、出掛けたわ。
誰よりも誇れる親友だって出来た。そしてその子も私のことを誇りに思ってくれた。
こんな私を好きになってくれる人にも出会えた。そして私もその人のことを大好きになれた。

22歳で着た純白のドレスは少し窮屈で、でもとても綺麗で、私じゃないみたいだった。
ブーケを親友に渡して、次はきっと貴方の番よって言った。そして数年が経ってから、その願いは現実になった!
子供も生まれた。私の大好きな空色を髪に持つ男の子、彼が大好きだと言ってくれた海色を目に持つ男の子。
とても愛しているわ。生まれてきてくれるって、本当に、かけがえのないことなのね。……もしかしたら母さんも、私を産んだとき、同じように思ってくれたのかしら?


2017.6.30
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