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<ある父の釈明>

如何でしたか?

彼女が生きてくれていること、あの子がまっとうな幸せを掴んでくれたこと、今はただそれを喜んでいたい。
あの子は立派だったでしょう。素敵な女性だったでしょう。何処に出しても恥ずかしくない大人に、成長してくれたと思っています。
もし、こう呼ぶことが許されるのなら「自慢の娘」ということに、なるのでしょうか。

これはおそらく彼女も語っていることだとは思うのですが、あの子には多すぎる苦労と迷惑をかけました。
私のような人間が父親でなければ、しなくても済んだあらゆることを、させてしまいました。

私が父であったがために、そして彼女が母であったがために、あの子は随分と早い段階で「子供」で在ることを諦めざるを得ませんでした。
怪我をしても、お腹が空いても、欲しいものがあっても、あの子は私や彼女に訴えることをしていませんでした。
幼かった頃のあの子の言葉は全て、週に一度訪れるマリーにのみ向けられていて、既に子育てを経験していたマリーは、あの子の要望をできるだけ叶えようと努めていました。
あの子がマリーをこそ「母」と呼びたかったという心理は、私にだってとてもよく解ります。あの子を責めることなどできません。全ての非は私にあり、彼女にあります。

実のところ私は、これまで何度も後悔したことがあったのです。
彼女を生かして差し上げるつもりが、私の為していたことはどうにも、彼女の首を真綿のように締め上げてしまうばかりであったように思います。
優しく在ろうと努めていたことが、逆に彼女の呼吸を奪っていたように思います。

その「失敗」で私だけが悔いるのであればまだ、よかったのかもしれません。けれども私は取り返しのつかないことをしました。
私の大きすぎた失態への罰は、私にだけ降りかかるものではありませんでした。
私は自らの、悪魔のような考えによって、かけがえのない一つの命を、このままならない、易しくない世界に連れてきてしまいました。
そのことで、きっとあの子を数えきれない程に沢山、苦しめたことでしょう。

『誰のために生きるのか、誰を支えるのか、それを決めるのは子供自身です。それが、生まれてくる命の有する当然の権利です!』
かつて、マリーは私にこう言いました。あのような美しく眩しい理想論を紡ぎ得たのは、マリーが私とは違って、誠実で真摯で懸命な人であるからだと思っていました。
私にはきっと一生、理解し得ることのない理論であると考えていました。
けれども、違ったのですね。あのような優しいことを貴方が言えたのは、貴方が既に「母」になっていたからなのですね。
私が貴方の心地を理解するためには、私が「父」になるだけでよかったのですね。

『あたしはきっと、あなた達を生きていかれるようにするために生まれてきたんだわ。』
けれども父親として悉く失格していた私が、貴方の心理を理解することができたのは、貴方の想定よりもずっと後の頃でした。
私と彼女はこの言葉により、あの子に初めて「選ばれた」のだと思います。
あの子は自らの命が持つ当然の権利を行使して、生きようとしました。そして私達にも、生きてほしいと願ってくれました。
あの子の決意、あの子の選択が、私達を、父と母にしたのです。

あの子がずっと小さい頃、私はあの子の視線が怖かった。
けれど今はもう、お父さんと呼ばれることが恐ろしくありません。いっそ心地良いとさえ、思えます。思うことができるようになったのです。
ええ勿論、私の力ではありません。あの子です。いつだって懸命に真摯に誠実に生きてきたあの子の存在に、彼女だけでなく、私も生かされていたのです。

……最後に、私にしかできないかもしれない話をさせてください。
私達がまっとうな家族の形を取り始めた頃、そうですね、彼女が47歳、私が57歳であった頃のことでしょうか。
あの頃、私は初めて料理の世界における「スランプ」というものを経験しました。
……いえ、あれをスランプと呼ぶのは些かズレているかもしれませんが、とにかく私は料理の方面で、初めて行き詰まってしまいました。
というのも、マリーが称していたような「生きていないみたい」である料理というものを、作ることができなくなったのです。

今でこそ笑いながら言えることなのですが、それまでの私の芸術というものは、
野菜の合理性、季節感、食べる人への気遣い、そうした何もかもを悉く排した、ただ無機質な美の蓄積により成り立つものでした。
従って、私の料理が美しいのは、ナイフやフォークを入れるその直前までです。
料理は食べるものである筈なのですが、食べる過程で料理の盛り付けが崩れていく様は、私にとって芸術の死でしかなく、
故にそれまでの私は、自らの手によって完成させた至高の美を、お客様の前にお出しすることを、少しばかり躊躇いさえしていたのでした。

彼女と出会ってすぐ、20歳の頃はまだ、私の時というものは変わらず動き続けていました。止めようなどということは、考えていませんでした。
あの頃の私の料理には、まだ恐ろしさのようなものはなかったと思います。
ただ、少し料理の腕が上がった程度で、その皿の上にある料理は、「他のどの料理人にも作ることが叶わない、私だけのもの」ではありませんでした。
そのような芸術におけるアイデンティティを確立するには、まだ20代であった私の経験は少なすぎたのでしょう。

けれども彼女に何年もの間、あのレストランで料理を振る舞い続けるようになり、彼女の「制止した美」「凍り付いた時に閉じ込められた芸術」というものに触れ続けた結果、
私は、ずっと動かして然るべきでった筈の「時」というものを、止めてみたいと思うようになったのです。
その想い、彼女への羨望と憧憬は程度を増し、ついに彼女と暮らし始めた頃には、私の時はそれまでとは比べ物にならない程に緩慢な、鈍い動きしかしなくなっていました。
……彼女のように完全に止めることなどできていなかったのですが、止めたいと、止めてみたいとさえ思い続けていたため、私の時はいよいよ、錆び始めていたのだと思います。

彼女の美に焦がれ続けた私はいつしか、そうした「一瞬」の美しか構築することができなくなっていました。
彼女を生かさなければ、生かし続けなければ、という焦燥と緊張が、益々私の時を錆びさせました。
そうした私の料理を「怖い」と称する人がいたとして、それはまったくもって自然なことだったのでしょう。
私に直接「貴方の料理は怖い」と告げてきたのはマリーが初めてでしたが、
おそらく私の料理にそうした、冷たさ、おぞましさを見ていた方というのは、それ以前から少なからずいらっしゃった筈です。

けれどもある時から、私の時に何十年もの間、貼り付いていた「錆び」が剥がれ始めたのです。ええ勿論、あの子です。あの子が私の錆びを殺いだのです。
それ以来、私はどうにも、料理における「一瞬の美」を切り取ることが難しくなってきました。
どのように、と言語化して申し上げることができないのが心苦しいので、せめて私の料理がどう思われていたかということについて、お客様の言葉を拝借して説明したいと思います。

「ズミさんの料理に旬の食材があるなんて、信じられない!貴方は10月だからといって、ロマネスコやポワロをお皿の上に持ってくるようなこと、絶対にしなかった筈なのに」
「君の料理を崩すときに抱いていた確かな罪悪感が、もうないんだ。今は私がスプーンを差し入れることで、君の芸術がどんな風に踊るのか、それを見るのが楽しみなんだよ」
「あら、今日のお皿はとても楽しそうですね。幸せなことがあったのですか?流れる季節を、過ぎる時を許したくなるような、何かが」

彼等は私の料理を見て、驚き、戸惑い、そしてこのようなことを仰るのです。
私は困ったように笑いながら、ええそうなんですよと、時の流れを見ることができるようになったんですよと、嬉しくなることがあったのですよと、
そう口にしつつ、彼等の驚きに寄り添いながら、私が私自身の変化に最も驚いている、というような有様を、それからしばらく続けることとなってしまいました。

勿論、このような私の作風の変化を、快く思わないお客様もいらっしゃいました。
私の「生きていない料理」……すなわち私の料理における無機質性と幻想性というものを高く絶賛してくださっていたお客様は、
変化後の料理を「ありふれた」「つまらない」ものだと称し、不満そうにしておられました。
「貴方が他の料理人と同じようになってしまったことが残念で仕方ない」と、面と向かって言われたこともありました。
彼等に言わせれば、きっと私は芸術家として失格していたのでしょう。けれど、構いませんでした。寧ろそれでいい、と思っていました。

私が「ありふれた」「つまらない」存在になれている。私達家族の有り様が「ありふれた」「つまらない」ものになることが叶っている。
私はそのことを喜ぶために、私の時を、芸術家としての私に流れていた時間を「ありふれた」「つまらない」ものへと落とすことを選んだのです。

……以前の料理を愛してくださっていた方には、申し訳ないことをしました。けれど私は、後悔していません。
私は芸術家として失格していたのかもしれませんが、夫として、父として、ようやく合格するに至っていたのですから。
今の芸術は、生きているかのようなありふれた料理は、私の喜びの表現型だったのですから。
……ええ勿論、その料理を最も喜んでくれたのは、私の妻と娘だったのですよ。

そんな娘ですが、5年前に結婚しました。
結婚すれば当然のように家を出るのだろうと考えていたのですが、娘は「此処で一緒に暮らしてもいいかしら?」と、縋るような、子供のような目で尋ねてきたのです。
聞けば、夫は多忙な職に就いていて、月に何度も他地方への出張を繰り返しているような人であり、一緒に暮らせる時間は限られているようでした。
私も彼女も、そして娘も、それ程多くのものを欲しがる質ではなく、アパルトマンの部屋は有り余っていましたから、特に断る理由はありませんでした。

結婚してから2年後に、娘は出産しました。とても元気な可愛らしい女の子でした。
娘もその夫も、昼間は当然のように家を空けていますから、その間、子育ては私と彼女とで行っています。
とてもぎこちない有様で、娘には叱られてばかりですが、それでも何とか孫は元気に育ってくれています。
それにしても、私と彼女が逃げ続けてきたその仕事を、まさか何十年も後になって「孫」へ行えるようになるとは、思ってもいませんでした。
命というのは、よく食べてよく眠って、とても気紛れで、泣き虫で、……ええ、本当に、かけがえのないものなのですね。

孫は今年、5歳になります。もう少し大きくなってから、私はあの子に料理を教えようと思います。彼女は既に、あの子へピアノを教えているんですよ。
けれどあの子に最も伝えたいことである「君のお母さんは誰よりも勇敢で、誠実で、素敵な女性なんですよ」ということは、既にもう何度も、言って聞かせていますよ。

私がお話できることは、今度こそ、これで全てです。

誰が私の考えを罵ろうとも、誰が私達の家族の形を歪だと嗤おうとも、構いません。
みっともなくとも、狂っていようとも、異常であろうとも、私達は生きています。生き延びています。それが答えです。


この、どうしようもない家族の形が、誰かに勇気を与えることを願って、貴方に私達の物語を、託します。


2017.6.30
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