58

一頻り泣いて、笑って、馬鹿げた話だと目に涙を溜めることなくそう思えるようになった頃には、もう夜もすっかり更けてしまっていた。
常温に放置されていたプリンを、あたしは躊躇うことなくシンクに捨てた。劇薬の入った小瓶を上にかざしていたのだから、恐ろしくて食べられたものではなかった。

「そういえば、どうしてこの小瓶の中身が毒だって分かったの?」

シンクに浸しておいたお皿を洗いながらそう尋ねる。母はニコニコと微笑みながらキッチンに立っているだけだ。洗い物の手伝いなどついぞしたことがない。
これから少しずつ教えてみようかしら、などとあたしは思った。
できないわ、と首を振られてしまうかもしれないけれど、こんな冷たい水に触れるなんて、と泣かれてしまうかもしれないけれど、それはそれでいいような気がした。
できることが増えなくても、母の言うように「何も変われない」のだとしても、構わない。

「あなたのお友達が昨日の夕方、此処に来たのよ」

けれども母のその言葉により、あたしまでお皿を洗っていた手を止めてしまうこととなった。
此処にはお皿を洗うべき人が二人いるにもかかわらず、そのどちらもてんで役に立たないという有様なのであった。
お友達、というのは確実にお姉ちゃんのことだ。母が認識しているあたしの友達など、マリーの娘であるお姉ちゃんをおいて他にいなかった。

「……お姉ちゃんは、あなたに何と言ったの?」

お姉ちゃんは、あたしの「二人を殺そうと思う」という告白を聞いて、「私も、きっと止められない」と諦めて、
そしてそれきり、いつも通りのお姉ちゃんに戻ってしまっていたものだから、あたしはお姉ちゃんの動向を探ることをしなかったのだ。
お姉ちゃんはあたしを止めることを諦めたのだと、あたしの決意を認めてくれたのかもしれないと、傲慢なことにそうした期待を寄せていたのだった。
そんな筈がなかったのに。あいつの死を憎み続けてきたお姉ちゃんが、あたしが母にもたらそうとした死を、はいそうですかと穏やかに受け入れられる訳がなかったのに。

「『近いうちにあの子が貴方の料理に毒を混ぜます。私は止めに入れないから、貴方が止めてください。あの子と一緒にいたいのなら、あの子のことが大切なら、生きてください。』」

母は困ったように笑いながら、お姉ちゃんが彼女に掛けた言葉を一言一句違わないように繰り返してくれた。
お姉ちゃんらしい、屹然とした声音まで真似て、彼女は力強く「生きてください」と口にするのだった。
ああ、でもいくらお姉ちゃんが聡明だからって、数多ある殺し方の中から「料理に毒を混ぜる」という方法を選んだことまで解ってしまうものだろうか?
どうして、お姉ちゃんはあたしの殺し方を確信していたのだろう。どうして、あたしが毒を持っていることを。

そこまで考えて、あたしはかっと顔を赤くした。とんでもないことに思い至ってしまったからだ。
きっとお姉ちゃんは気付いていたのだ。あたしが研究所からこの劇薬の瓶を持ち出したこと。これを使って母を殺そうとしていたこと。
ならばこの、劇物の名前が書かれた小瓶は、その中にある綺麗な白い粉は、間違いなく。

あたしは冷たい水に濡れた手で、母の手から小瓶を強引に奪い取った。フタを豪快に開けて、手の平にその白い粉を落とし、大きく舌を出してぺろりと舐めた。
母は聞いたことのないような強烈な悲鳴を上げてから、やめて、やめて頂戴、と更に叫びつつ、あたしの手からその小瓶を奪い返そうとしたのだけれど、
あたしは声を上げてコロコロと笑いながら、あたしはこの白い粉に殺されたりなどしないのだと示すように頷いて、あなたも舐めてみる?と小瓶を掲げた。

「青酸カリ」と書かれた小瓶の中身は、何の変哲もない粉砂糖だった。

あたし達はその小瓶の中身を、捨ててしまったプリンの代わりに、デザートとして食べた。
小さなスプーンを持って来て、交代で小瓶の中の「劇物」を掬い上げて、ぺろぺろと舐めたのだった。
あたしと母を殺せなかったその「毒」は、ひどく優しい、甘い味がした。コーヒーの苦さに、その優しい甘さはとてもよく合っていた。

……そういう訳で、あたしはお姉ちゃんにこのことを打ち明けられていない。
あたしが劇薬と粉砂糖を間違えていたなんて、お姉ちゃんの策にまんまと引っ掛かっていたなんて、そんな恥ずかしいこと、口が裂けても言えない。
あたしは本気で粉砂糖を劇薬だと思っていたのだと、そんなみっともない勘違いを、お姉ちゃんが既に勘付いているとしても、あたしの口からは打ち明けられない。

だからあたしは空っぽになった小瓶に、砂糖ではなく、塩を満たした。そうして翌日、研究所の棚にそっと戻したのだ。
粉砂糖が入っていると思っているお姉ちゃんは、その小瓶の中身を料理に使ってしまうかもしれない。
砂糖だと思って大量に投入したその粉の「優しくない味」に、お姉ちゃんは果たして笑うだろうか。怒るだろうか。あまりの塩辛さに泣いてしまうかもしれない。

ただ、なかなかに秀逸な策だと思っていたのだけれど、やはりお姉ちゃんの方が一枚上手だった。
お姉ちゃんはその小瓶の中身であろうことかプリンを作り、あたしに振舞ってしまったのだった。

「貴方が思い留まってくれてよかったわ。あまりに嬉しかったから、お祝いの気持ちにプリンを作ったのよ。気に入ってくれるといいのだけれど」

これも、あたしが「約束」という呪いを勘違いしたが故の罰なのだと思い、あたしは大口を開けてそのプリンを頬張った。当然のように辛く、あたしは数えきれない程にむせた。
完食までに大量の水を要したそのプリンを、けれど何故かお姉ちゃんも一緒になって食べた。
変だなあ、どうしてこんなに辛くなっちゃったんだろう、と、全てを解っているかのように笑いながら、それでも食べる手を止めないのだった。
お姉ちゃんの罪など何処にもない筈なのに、なぜそんな苦行を進んでするのかしら、とあたしは思わず苦笑したのだけれど、
この優しすぎる人にはそうした、人の罪さえ引き取ってしまいたくなるようなところがあるのだと、解っていたからあたしはもう、お姉ちゃんを「変だ」とは思わなかった。

お姉ちゃんは、口直しのためのクッキーまで用意してくれていた。
眩暈がしそうになるくらい甘く作られたそのクッキーを食べながら、あたしはお姉ちゃんと旅行に行く計画を立てた。
エンジュシティの紅葉はとても綺麗なのだと、お姉ちゃんから飽きる程に聞いてきたから、行き場所には迷わなかった。あたしが生きているからこそ立てられる計画であった。

生きるとはどういうことであるのかをあたしは知り始めていた。
生きるとは惨たらしいことだ。生きるとは滑稽なことだ。そして同時にひどく、面白いことなのだ。あたしは、あたし達は、生きながらにして笑えていたのだった。

あたしと母は相談して、今回の件を父に話すことにした。
ジョウト地方で行われた料理コンテスト、そのトロフィーを持って帰ってきた父の、祝いの席で、あたしはまったくめでたくないことを告白するに至ったのだ。

あたしは二人のことをここしばらく、ずっと誤解していたのだということ。
二人はずっと生きることが苦痛で、ずっと死んでしまいたくて、ただ苦しみながら生きているように思われていたのだということ。
あたしはそんな二人のことがとても可哀想だったのだということ。

母が生きることに限界を感じたその時、あたしは母を殺してあげるつもりだったこと。そのような愚かな約束を、あたしが12の時にしてしまっていたこと。
5年越しに母の口から飛び出した「約束」という言葉に、あたしはこの人を殺さなければいけないのだと、そうした馬鹿げた思い違いをしたこと。
でもできなくて、どうしようもなくなって、代わりにあたしが死のうとして、粉砂糖をプリンの上にかけようとしたこと。母に、止められてしまったこと。

父はあたしがキュウリの皮を全部剥いてしまったときのように、「この痴れ者が!!」と怒鳴ることも、
イタズリ、を知らないあたしに呆れたときのように、これ見よがしに大きな溜め息を吐くこともしなかった。
ただ、あたしの言葉を黙って聞いていて、父のその青い目は、時に細められ、時に見開かれ、時にぎこちなく瞬きを繰り返していて、
そのささやかな動きが父なりの相槌なのだと、解っていたからあたしは言葉を止めなかった。

「ずっとこんなことを考えていたあたしを、嫌いになった?」

「何故?」

長い、長い告白の後にそう尋ねれば、彼は間髪置かずにそう尋ね返した。
あまりにも短いその言葉が全てであった。あたしは肩の力をすっと抜いて、ぎこちなく笑った。
とてもみっともない笑顔だと解っていたけれど、笑わなければもっとみっともないことになってしまうように思われたのだ。

「確かにアルミナは生きることに対して否定的でした。私もアルミナも揃って世間知らずでしたから、生きることは普通の人よりもずっと困難で、苦しかった」

「……」

「だから貴方の言っていることは正しい。私もアルミナも苦しんでいた。死にたがってさえいたのかもしれない。私達の生き様は痛々しいものだったのかもしれない。
……ただ、アルミナも言っていたと思いますが、ここ数年はそうでもなかったのですよ。貴方がいてくれたから、貴方が、私達に呼吸の仕方を教えてくれたから」

これでは本当に、どちらが親でどちらが子供なのか解りませんね。
そう顔を見合わせて困ったように眉を下げる、あたしの目の前の男性と女性は、ああ、けれど紛れもなくあたしの父と母なのであった。
オーナーも、マリーも、お姉ちゃんも、大切でかけがえがない。でも違う。この二人はあたしの、唯一無二の両親だ。
その尊さを、他の家族と比較するなんてナンセンスだけれど、でもあたしはこの閉じ過ぎた世界を誇りに思う。此処で息をしてくれている二人と、生きていたい。

「あたし、まだ家を出て行ったりしないわ。あなた達がちゃんと生きていかれるようになるまで、……いいえ、生きていかれるようになってからも、此処にいたい。
だってお父さんに教わっていない料理が沢山あるんだもの。お母さんに教わっていない音楽記号も沢山、残っているのよ」

ああ、誰か、こんなに美しいものを、こんなに悲しいものを、狂気と呼びたいのなら、どうぞ勝手にすればいい。けれどもあたしは認めない。
だって母は、父は、こんなにも笑って、こんなにも泣いて、まるで、生きているかのように。


「あたしはきっと、あなた達を生きていかれるようにするために生まれてきたんだわ」


一人と二人が初めて三人の形を取ったその日、ミイラと化したスターチスが、他の誰でもない母の手によって、捨てられた。


2017.4.22
【17:21】(47:57)

© 2024 雨袱紗