57

あたしは、あたしのお皿に、大きい方のプリンに、その粉を振りかけようとしていた。彼女はそれを見抜いていた。あたしは、見抜かれていた。
途端、わっと声を上げて泣き出したあたしに、彼女は狼狽えながらも、そっとあたしの手からその小瓶を奪い取るのだった。

この女性は、彼女は、どうしてあたしが毒を持っていることが解ったのだろう。どうしてカラメルソースにそれを混ぜ込もうとしたことが解ったのだろう。
どうしてあたしが寸でのところで彼女を殺せなくなってしまったと解ったのだろう。どうしてあたしが死のうとしていることが解ったのだろう。どうして、どうして。

「死ぬことって、よくないことなんですって」

小瓶を取り上げ、ぎこちない手つきでフタを閉めながら彼女はそう言う。瓶の閉め方にさえ自信を持てない彼女は、けれど死ぬことの禁忌を何処で聞きかじってきたのだろう。
死ぬことがどういうことであるのか、彼女自身にもあまりよく分かっていないようだった。
ただよくないことなのだと、そのように聞き知っているのだと、そうした事実だけを頼りなげに紡ぐのみであったのだ。それだって、彼女の無垢と無知の表れであった。
けれども彼女は、あたしが死のうとしていたことだけはしっかりと確信しているようで、だからあたしは大きく首を振りながら、違う、違うのよ、と泣き叫んだ。
随分とみっともない声音だと、とても恥ずかしいことだと、解っていながら止まらなかった。

「あたし、自殺なんてするつもりじゃなかった。あなたを殺そうとしていたの!あなたの願いを叶えてあげたくて、あなたが死ねば彼も後を追うに違いないと思って、それで、」

「まあ、そうなの?それじゃあもっとよくないことだわ。あなたがそんな辛いこと、しなくてもいいのよ」

「だって、だってあなたが!あなたが生きていたくないって言ったわ!」

あなたは死にたいのではなかったの?生きているのが辛いのではなかったの?
だからあの本を読んでいるのではなかったの?だから花の死臭と戯れているのではなかったの?だから死の旋律に溺れ続けていたのではなかったの?
あなたは、わたしに殺してほしかったのではなかったの?
矢継ぎ早に問い掛けたその質問の数だけ、彼女はええ、ええと頷いた。ええそうだったわ、でもいいの、などと、信じられないようなことを告げて、笑うのだ。

「わたしも彼もあなたも、いつだって死ねるの。生き物ってそういうものらしいの。だからきっと今じゃなくてもいいわ」

生き物って「そういうもの」なのだと、おそらく彼女はフラベベと共に看取った数々の花から学んだのだろう。
生き物は死んでいく。生き物はいつだって死ねる。それが、彼女が死を渇望しなくなった理由なのだろうか。それが、彼女の生に留まる所以なのだろうか。
彼女を死に誘っていた筈の花や毒が、あろうことか彼女を全く逆の方向に歩ませている。その事実にあたしは驚き、狼狽えた。

「あれは死ぬための本じゃなくて、生きるための本だったの。あなたに教わったわ。いつだって懸命に生きているあなたが、あの本の正しい読み方を教えてくれた」

あの本が意味する本当のところを正しく読み取る、わたしをそうしたのは他の誰でもないあなたである、……と彼女は言う。
ああ、至極まっとうなこの発言は、けれど「彼女」のものなのだ。時を止め、冥界でダンスを踊るように生きていた筈の、無垢で無知で無力な彼女の、言葉なのだ。
いつからだろう。いつから、彼女はこうなっていたのだろう。あたしはいつから、彼女の変化に追いつけなくなっていたのだろう。
彼女の「約束」は、いつから「死ぬこと」ではなく「生きること」になっていたのだろう。

『あたしには、二人のような生き方をすることができない。どうしてもできないの。
でも好きよ。あなた達のことが大好き。だからあたしはこれからも此処にいるわ。約束する。』

ああ、もしかしたら、あの日であったのかもしれなかった。
あたしが初めてのお給料で彼女の楽譜を買い、父の料理を食べることを望んだあの日。相容れない世界に生きる二人を好きだと、あなた達と一緒にいたいのだと断言したあの日。
あの日を境に、彼女は死臭を纏うことをやめたのかもしれなかった。あの日を境に、あたしは彼女を殺せなくなったのかもしれなかった。

「あなたの作ってくれたプリンやクッキーはとても美味しかった。正午になると、あなたが帰ってきてくれるのが楽しみになった。
あなたはわたしに世界のことを沢山、聞かせてくれた。世界はとても楽しくてわくわくするものだってこと、あなたが話してくれた。
あなたが連れてきてくれたフラベベからは、お日様と土の眩しい香りがした。鮮やかでみずみずしい花を見続けることが、怖くなくなった。
あなたがわたしのピアノを聴いてくれることが嬉しかった。賢いあなたに楽譜の読み方を教えてあげられたことも、嬉しかった」

……実のところ、「あの約束を覚えている?」と尋ねられたとき、あたしはこれ以上ない程に絶望していたのだ。
これまで彼女と重ねてきた、楽しくて愉快でキラキラしていて、まるで生きているかのように思われた、穏やかなあの時間は、
けれども彼女にとってはただただ苦痛で不愉快なものでしかなかったのだと、
それでも彼女は心に鞭を打って、あたしとのままごとに付き合ってくれていたのだと、あたしが喜んでいたから、優しい彼女はあたしに心を合わせてくれていたのだと、
あたしはそんな風に解釈し、彼女との間に見つけた強烈な感情のねじれに絶望し、これ以上、こんな馬鹿げた時間を続ける訳にはいかないと強く思ったのだ。思ってしまったのだ。

もう十分だ。もうあたしは満足した。彼女と楽しい時間を沢山過ごせた。素敵な思い出を沢山作れた。
だからもう、終わりにしなければならない。このままあたしが此処にいたら、ずっと彼女にひどい「おままごと」を強いることになる。
彼女に生きてほしかったあたしと、生きていたくなかった彼女との思いはどう足掻いても相容れない。
故にあたしと彼女の、どちら共の満足するような「平穏」はどう足掻いても得られない。
あたしか彼女のどちらかが苦汁を飲むしかない。あたし達は苦しまなければ生きていかれない。

それならば、彼女が生きていたくないと願ったとして、あたしが生きていてはいけなくなったとして、それはしかし、当然のことなのだと思っていた。
どちらかが死ななければならないのだと思っていた。そういう訳で、あたしは彼女との約束を果たそうと思った。彼女を殺そうと思った。ついさっきまで本当にそう思っていた。
けれど、寸でのところで思いが逆転してしまった。

あたしは生きていたかった。今までずっとそうであった。
けれどその思いを飲み込んでしまうくらい、別の思いが急速に膨れ上がっていた。「彼女に生きてほしい」という、思いだ。
彼女に生きてほしいと望む心地が、あたしの生きていたいと望む心地を上回ってしまった。
だから彼女が苦しくなくなるために、彼女が生きていかれるようにするために、あたしは小瓶の口を自分のプリンへと向けた。
あたしはあたし自身に毒を盛ろうとしていた。あたし自身が、死のうとしていた。

でも、違った。何が違う、と言い切れないくらい、あらゆることがあたしの想定とはかけ離れたところに在り過ぎていたのだった。

彼女もまた、あの時間に意味を見ていたのだ。
プリンを食べたり楽譜の読み方を教えたり、他愛もない世間話をしたり、フラベベと一緒に花を眺めたり……。そうした時間は彼女にとって苦痛ではなかったのだ。
あたしがそこに見ていた意味と同じものを、彼女も見ていてくれたのだった。
彼女はもう、生きたいと思ってくれていた。そして生きることを決めた彼女には、どうにもあたしが必要であるらしかった。
そういう訳で、きっとあたしは生きていていい。彼女も、生きていていい。

「あなたがくれた日傘を差して、あなたと「世界」に出てみたいわ。
ほんのちょっとも歩けないかもしれないけれど、直ぐに恐ろしくなってしまうかもしれないけれど、……でも、あなたがくれた日傘を使ってみたい」

「……もし、世界があなたを苦しめるだけの、残酷で醜悪な代物だったら?」

「いいえ、「世界」が素敵な場所であろうとなかろうと、わたしもあなたも、きっと生きなきゃいけないの。
生きるってとても惨たらしいことだから、ひどく辛いことだから、……だから人は誰かの手を探すのね。一人になりたくないから、誰かの手を握るのね。
あなたがわたしの手を取ってくれたおかげで、あなたが約束を守ってくれたおかげで、ここしばらく、わたしはあまり辛くなかったの。息苦しくなかったのよ」

約束、とは、あたしが彼女を「生きなくてもいいようにする」ことの方ではなかったのだ。あたしはようやく明らかになった事実に、笑いながら、泣いた。
もっとも、あたしがあの失言を、5年間、ずっと覚え続けていたことが異常だったのだろう。もしかしたら彼女はもう、あの言葉などすっかり忘れてしまっているのかもしれなかった。
彼女の約束は、もっと最近のあたしの言葉を指していたのだ。
あなた達のことが好きだから、と、これからも此処にいるわと、そうした、あたしにとっての当然のことが、けれど彼女にとってはかけがえのない「約束」になっていた。

『ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから。』
あたしは、彼女を殺すことを「約束」だとしていた。

『でも好きよ。あなた達のことが大好き。だからあたしはこれからも此処にいるわ。約束する。生き辛い二人がちゃんと生きていけるようにする。あたしが助ける、支える。だから、』
彼女は、あたしと生きることを「約束」だとしていた。

日傘を受け取るなり、彼女が「約束」と紡いだのは、一人で外に出ることが怖かったからなのだ。
『苦しくないようにしてくれる?』とはすなわち「わたしと一緒に外に出てくれる?」ということだったのだ!
たったそれだけの致命的な思い違いのために、あたしはお姉ちゃんの働く研究室から、こんな馬鹿げたものを持ち出してしまった。

けれどもなんて滑稽な話だろう。言葉が足りないのは、何もあたしと父との間に限ったことではなかったのだ。
飽きる程に沢山の言葉を交わしてきた筈の彼女との間にも、このような思い違いが生じるのだった。……ああ、それにしてもおかしい。おかしすぎる。これではあたし達が、まるで、

「あなたがいてくれてよかったわ。あなたにも、そう思ってもらえるような人になりたい」

あたしは涙でぐしゃぐしゃになった頬を彼女の胸に押し当てた。この女性に縋り付いたのは、あたしの記憶にある限りでは、初めてのことだった。
人を抱き締める方法を知らないらしい彼女は、それでもぎこちなくあたしに手を伸べてくれた。あたしはそれを力強くぐいと掴んで、笑いながら、また泣いた。
彼女は僅かに息を飲み、あなたの手は温かいのね、と嬉しそうに告げるのだった。

生きている人は温かいものなのだ。彼女の手はあたしのそれよりも温かくないけれど、それでも確かな温度があるのだ。
死ぬとはどういうことであるのかをあたしは知っている。あたしはちゃんと、解っている。

死ぬとは冷たいことだ。死ぬとは臭いことだ。死ぬとはプリンを食べられないということだ。死ぬとは、この優しい人の娘でいられないということだ。
あたしはそんなもの、要らない。あたしはそんなものに甘んじない。あたしは、あたし達は。


「ねえ、おかあさん」


彼女は震える声であたしの名前を呼んでから、なあに?と首を傾げて笑うのだった。


2017.4.21
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