前菜には、サイコロ型のビーンズローフを選んだ。それが彼女と父の思い出の品であることをあたしはとてもよく知っていた。
父に料理を教えてもらうようになる際、一番初めの候補に挙がったものがこれだったのだ。
もっとも、それは少々難易度が高いということで、あたしが父に初めて教わった料理は、やはりあのプリンになったのだけれど。
……しかし、もう彼に料理を教わって2年が経った。今ではもう、サイコロ型のビーンズローフだって、ホワイトシチューだって作れる。
ただ、父の味を完全に再現することはどう足掻いても不可能だった。そっくりに作れるのはプリンくらいのものだった。あたしの味はやはり、父のそれには劣るのだ。
それでも彼女はいつものように、美味しいわ、と言ってくれるものだから、とても美味しそうに、楽しそうに、生きているように食べてくれるものだから、
あたしはついつい嬉しくなって、ポケットの中に眠る小瓶のことを忘れて、得意気に微笑んでしまうのだった。
彼女の手はまるでピアノを弾いているときのように、生き生きと美しく動いた。ナイフとフォークがバレエシューズに、それを持つ彼女の細い手が、すらりと伸びた長い脚に見えた。
彼女はこの白いお皿の上で、ナイフとフォークの先でくるくるとダンスを踊っているのだ。少なくともあたしの目にはそう見えていた。彼女はまるで、生きているかのようだった。
ビーンズローフは少しずつ、少しずつ減っていく。彼女は音を立てることなく、美しく食べている。
あたしは彼女の向かいでぱくぱくと、あまり美しくない食べ方をして、ぺろりと前菜を平らげてしまって、さて次の料理を温めておこう、と席を立つのだった。
ほうれん草のポタージュ、ローズマリーのフォカッチャ、チーズと胡椒を贅沢に使ったクリームパスタ。
どれもあたしの量の方がずっと多かったけれど、それは彼女の小食が過ぎている、という訳ではなく、
あたしが大食いであるせいでそう見えるだけであり、夕食の時の彼女はちゃんと人並みに食べているのだということを、もうあたしは判るようになっていた。
それにきっと、量の如何は問題ではなかったのだろう。大事なのは彼女があたしの料理を、あたしと同じテーブルで食べているという、それだけのことだったのだろう。
あたしはこういう時間をずっと夢見ていたのだと、これで料理を作ってくれるのが彼女の方であったなら完璧だったのかもしれない、と思いつつ、
……ああ、でももうそんなこと、どうだってよかったのかもしれない、などと、あまりにも穏やかに幸せに諦めて、あたしはもう、笑うことができた。
「わたし、もうあなたに見限られてしまったのかと思ったわ」
だから、パスタをフォークで音もなく絡め取りながら彼女がそう口にしたとき、あたしは息が凍る程に驚いてしまったのだ。
あたしは驚いて、驚いて、……そしてしばらくしてどうにもおかしくなって、何を言っているのだろう、とどうにも愉快になってしまって、ああ、でも上手く笑えないのだった。
「わたしも、彼も、もうとっくに呆れられてしまっているのではないかと思っていたの。でもあなたはわたしのことも彼のことも置いて行ったりしなかった。此処にいてくれた。
……あなたはとても活発な子だから、本当は、町の外へ出て行きたかったかもしれないのに」
「……」
おかしい。見限られるのも、二人の世界から弾かれるのも、彼女ではなく、あたしの方だった筈なのに。
この家族とかいう代物はいつだって三人ではなく一人と二人で、あたしはいつだって、二人の世界に入れずに、二人の世界を手に入れられずにいて、
手に入れられないものなんか要らないと突っ撥ねて、子供らしい反抗心をぶくぶくと肥やして、それでもやっと諦めがついて、異なる世界に生きる彼女と父を許すことができて、
……それなのに、やっとここまで来たのに、あたしはこんなにも彼女のことが好きなのに。
『生きるってとても恐ろしいことね。惨たらしいことね。やっぱりわたしは生きていかれないんだわ。生きていたって、仕方がないのよ。』
『ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから。』
けれど、ああ、だってあたしは約束したのだ。
彼女を生きなくてもいいようにしてあげるのだと、彼女が本当に苦しくなったときに、あたしがそうして助けるのだと、あたしが殺すのだと。
彼女はいつも苦しそうだった。彼女が生きていることがとても、とても可哀想だった。
生きるとはとても苦しく、辛く、惨たらしいことなのだと、あたしは他の誰でもない彼女の背中を見て学んだ。
「わたし、酷い人だったでしょう。きっとこれからもずっと酷いの。酷いまま、変われないの」
彼女は死臭のとてもよく似合う人で、地上に吹く風には悉く馴染まなくて、ずっとこの小さな家で一人、美しすぎる死の旋律を奏で続けていて。
……そんな彼女が、生きていたって仕方がないと言っている。47年もこの世界で生き続けて、それでもやはり、耐えられないのだと、苦しいのだと言っている。
彼女はもう50年近く生きた。もう17年もあたしと一緒にいてくれた。もう十分じゃないかと、これ以上を望んでどうするのだと、本当に、心からそう思えたのだ。
彼女はきっともう十分に苦しんだ。彼女は報われるべきだ。彼女は、これまでの苦痛に釣り合うだけの平穏を手にするべきだ。彼女の願いは、叶うべきだ。
そのためなら、あたしはこの優しすぎる女性のためなら、人だって殺せるのだ。
『私は、貴方が人を殺したって構わない。』
『でも貴方にお母さんは殺せない。貴方は楽になれない。』
大丈夫、殺せる。この人を楽にしてあげられる。この人が生きなくてもいいようにしてあげられる。
だって彼女はあんなにも苦しそうだった。あんなにも弱々しかった。あんなにも無知で無力で、優しくて、
『あなたも弾いてみる?』
『いい匂いがするわ。何を作っているの?』
……ああ、でも最近の彼女は、なんだか少しだけ、こちらの世界に馴染み始めている気がする。
綺麗なピアノの音色を奏でる彼女。あたしに楽譜の読み方を少しずつ教えてくれるようになった彼女。
プリンやクッキーをほんのちょっとだけ口にする彼女。お昼の時間になると必ずリビングに出てきてくれるようになった彼女。
昼食の席であたしの他愛ない世間話を聞いてくれるようになった彼女。世間、というものに興味を示してくれるようになった彼女。
死臭のしなくなった花を愛でられるようになった彼女。フラベベのことを大好きになってくれた彼女。
それはまるで、彼女が少しずつ人間になっていく過程であるかのように思えて、あたしはどうしようもなく嬉しくて、
きっと全てのことがいい方向に動き始めているのだと、あたしは彼女の変化にそうした特別な意味を見たくなって、彼女を「お母さん」と呼べるかもしれない、などと、思って。
ああ、でも、でも!そんなのはあたしの思い上がりだ。彼女は生きていたくないのだ!
だからあたしの気持ちなど関係ない。彼女がそう望んだのだから、あたしは、叶えてあげなければいけない。
だって約束した。約束してしまった。意気地なしの癖に、あたしはあまりにも大きなことを、あたしの心の丈に合わないことを、口にしてしまった。
「わたしはあなたのようになれない。変わることができない。そのせいであなたを沢山、苦しめたわ。本当にごめんなさい」
彼女と父はまだ、まともに生きることさえできていなくて、みっともなく酸素を燃やして生きているのはあたしくらいのもので、
二人はいつだって冷たくて、美しくて、死んだように生きていて、……だから、本当に死んでしまったとして、何も変わる筈がないのだと、本気でそう思っていた。
だから彼女を楽にしてあげることは正しいことなのだと、彼女の願いを叶えることは幸いなことなのだと、あたしは、本気でそんな恐ろしいことを。
「そんなことを言わないで。あなたはちょっと美しすぎただけなのよね」
お姉ちゃんは正しかった。あたしにはこの綺麗な人を殺せない。それがこの人の幸いなのだと、解っていながら受け入れることができない。
だってあたしは生きている。あたしは彼女に生きてほしいと祈ってしまっている。あたしは流れる時の中に身を置いている。彼女とは違うところで生き続けている。
まだ父に教わっていない料理が沢山あるように、まだ彼女に教わっていない音楽記号が沢山ある。
あたしと違って、彼女は上手に息さえできない。上手に生きさえできない。生きてほしい。
でもあたしはもう十分に、生きている。きっともう十分に、生きた。
お姉ちゃん、マリー、オーナー、カフェの子供達、あまりにも多くの人に恵まれていた。いろんなことを教えてもらった。広い世界を沢山見た。
エンジュシティの紅葉は見に行けていないけれど、それでもあたしは彼女よりずっと広い世界に息をすることが叶っていた。彼女よりもずっと、生きていた。
では、死ななければいけないのは、本当に彼女の方だったのだろうか?
あたしは空になったパスタのお皿を持って席を立った。シンクにお皿を浸してから、大きく息を吸い込んだ。その息が震えていることに、気付かない振りをした。
冷蔵庫から、冷やしていたプリンの型を取り出した。50ccの小さなプリンが彼女の、120ccの大きなプリンがあたしの型であった。
二つを取り出し、白いお皿の上にポンと落とせば、まるで親子のようにその二つは黄色い光沢を放つのだった。
上からカラメルソースをかけて、少しだけ生クリームで飾って、傍にそっと苺を添えた。
『でも貴方にお母さんは殺せない。貴方は楽になれない。だから私は恐ろしいの。貴方のお母さんのことではなく、貴方のことが。』
『うん、解っているよ、でもどうしてかな。……私には、貴方とあいつが同じに見えるの。』
お姉ちゃんの言葉が脳裏をよぎった。あたしよりもずっと聡明で理知的な彼女は、きっとあたしがこのような結論に達することが解っていたのだ。
この場にお姉ちゃんが居合わせられないことを、あたしを咎められないことを、悔いていたのだ。『私も、きっと止められない』とは、こういうことだったのだ。
生きることは易しくない。生きることは優しくない。
だから、こんなことをしようとしているあたしは、もしかしたら易しくて優しいのかもしれなかった。
苺の位置を整えながら、あたしはポケットに忍ばせていた小瓶を取り出した。
まるで最後の仕上げをするかのように、粉砂糖を上から散らすかのように、あたしはその小瓶を高く、お皿の上に掲げた。
その粉は、カラメルソースにじわじわと死の甘さで溶けていく筈であった。あと少し小瓶を傾けるだけで、あたしは、殺せたのだ。
……けれど、伸びてきた手がそれを許さなかった。あたしはお姉ちゃんではなく、彼女に止められていた。彼女の細い手に、制されていた。
あたしの腕にそっと触れて、悲しそうに微笑んでから、彼女はこう告げた。
「ねえ、あなたのお皿じゃなくて、わたしのお皿にかけなくては。そうでしょう?」
2017.4.21
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