しばらくして、あたしはローズ広場に面したカフェで働くための準備をすることになった。
……とはいっても、14歳のあたしが、いきなり「先生」として子供達にものを教えることなどできる筈がなく、
当分はお給料を貰わずに、オーナーが子供達にポケモンのことを教える姿を、少し離れたところからじっと観察して、教える側の在り方を勉強することにした。
どんな風に子供達に話しかけているのか、どんな風に説明すれば子供達に伝わりやすくなるのか、どんな表情をしていれば子供達を安心させることができるのか。
そうしたことを、オーナーの横顔を見ながらあたしは学んだ。人を威圧させる風格を持った彼だったけれど、子供達と接するときはとても物腰が穏やかだった。
「あなたは優しく在るのがとても上手ですね。あたしもそんな風になれるかしら?」
夕方、子供達が帰ってからカフェの片付けをしていたあたしは、オーナーの背中に向けてそんな言葉を投げた。
オーナーはゆっくりと振り返り、恐ろしい程に悲しい顔をして、言った。
「わたしが本当に優しい人間だったなら、カロスに毒の花は咲かなかっただろうね」
「……」
「もうとっくに知っているのだろう?わたしが何をしたのか、誰を喪ったのか」
そう告げたオーナーの見解は、けれど少しばかり外れている。
確かにあたしはもう、このオーナーがどんな人であるのかある程度解っている。けれどそれを知ったのはつい先日のことだ。
お姉ちゃんからあの話を聞くまで、家にずっと置かれていたあの本を開くまで、あたしはこの街に植えられた金木犀の理由に、全く思い至っていなかった。
実はあたし、そのことを知ったのはつい最近のことなんですよ。そんな風に、笑いながら告げればよかったのかもしれない。
けれどできなかった。オーナーの顔が、恐ろしい程に悲しかったからだ。
自らの罪を振り返らんとしている人というのは、このように惨たらしい表情をするものだということを、あたしは何となしに察し始めていたところだった。
マリーもたまにこういう顔をする。お姉ちゃんも稀に、眉間をくしゃくしゃにするときがある。彼女と彼はいつもこんな調子だ。あたしはまだ、自らの罪に思い至ってさえいない。
「あなたはやっぱり、あと5年で死んでしまうんですか?あいつの自殺を誰よりも悲しんでいた筈のあなたが、同じ選択をするの?」
「……おや、おかしなことを言うのだね。そんなことはあの本の何処にも書いていなかった筈だが」
オーナーはもう、恐ろしい表情をしてはいなかった。それでも何故だか悲しいのだった。この、隠し事の下手な男性は、悲しそうに笑うことがとても上手だ。
優しいとは、悲しいことであるのかもしれなかった。
あいつは死んだ。マリーは生き続ける。お姉ちゃんも生きたがっている。彼女は死にたがっている。彼は死にそうである。そしてオーナーは、死ぬつもりでいる。
生きているお姉ちゃんは最高にかっこよくて、素敵だ。マリーだって、立派な女性だ。でも死んでしまったあいつも幸せそうだし、死ぬ未来を思い描く彼もまた、穏やかだ。
ああ、益々分からない。あたしはどうしたらいいのか、まるで見当もつかない。
この惨たらしい世界で何が起こっているのだろう。どうして生きることで輝く人と、死ぬことで輝く人がいるのだろう。どうしてあたし達はこんなにも違うのだろう。
一体、何が正しいのだろう。誰が正解を教えてくれるのだろう。生きることも死ぬことも惨たらしいのだとしたら、一体、平穏とやらは何処に隠されているのだろう。
あたしはそれを見つけられないのだろうか。あたしでは駄目なのだろうか。彼や彼女が苦しみながら生きているように、あたしも、そうやって生きていくしかないのだろうか。
生きることは易しくない。生きることは優しくない。
あいつは「易しすぎた」から死んだのだ。オーナーはきっと「優しい」から死ぬのだ。彼女も彼も「優しい」から死んでしまいそうなのだ。
マリーやお姉ちゃんは「易しくない」から生きているのだ。あたしは「優しくない」から、生きたいと思ってしまうのだ。
「あたし達が生きなきゃいけない世界というものは、あまりにも難しくて厳しいような気がします。
もっと易しくて優しい世界だったなら、あいつはもっと長く生きることができたのかしら。あなたも、死ぬ準備をするためにあたしを雇うようなこと、しなくて済んだのかしら」
「……そこまで見抜かれているとは思わなかった。君の慧眼には恐れ入ったよ」
あたしは苦笑しながら、残念ながらこの見解はあたしのものじゃないんです、と付け足しておいた。
オーナーはあたしのそうした馬鹿正直なところに、益々「恐れ入った」という風に笑った。
『……そうだよね、もうあと5年もないんだもの、仕方ないよね。』
お姉ちゃんのあの言葉の意味を、あたしはもう理解してしまっていた。
オーナーとあいつが約束した30年、その終わりがもう見え始めている。
あと5年すればきっとオーナーは自ら命を絶つだろう。優しいオーナーはただ約束のためだけに生きているのだ。それが終わってしまえば、もう生きる理由がなくなるのだ。
永遠の命、などというおとぎ話のようなそれを手にしたオーナーに、自然の死は訪れない。訪れないから、自ら引き寄せるしかない。
オーナーの死も、あいつの死も、どちらもやはり「祝福」の形をしていた。二人とも、死ぬことをまるで恐れていないのだった。
ただ、それでもやはり、ずっと守り続けて来たこのカフェが絶えてしまうのはオーナーも忍びなかったようで、なんとかして自身の死後も此処を存続させたいと考えていたらしい。
あたしという存在は、引き継ぎにとても都合がよかったのだろう。
ポケモン研究所とのパイプを繋げたままにすることも、研究所で働く「友人」を持つあたしなら容易いことだった。
……けれども実は、オーナーが他の誰でもないあたしを引き継ぎ役に選んだ理由がもう一つあって、あたしは後日、それを知ることとなった。
「君のお母さんはフレア団幹部の娘だった」
そんな第一声から始まった告白によって、あたしは彼女の、死ぬように生きているあの女性の真実を、彼女でも彼でもなく、この人の口から聞き知るに至ったのだ。
フレア団、およびその前身であるフラダリラボの基地は、セキタイタウンの地下にあり、彼女はそこで物心ついたときからずっと暮らしてきたこと。
彼女の両親は、オーナーの目から見ても度が過ぎている、と思う程に彼女を地下へと縛り付けていたこと。
10歳になるまで、彼女は外に出たことがなく、そもそも「外」というものを知らなかったこと。
両親の許可したときに、許可した場所へのみ外出することができた不自由な彼女は、けれど一つの文句も言わず、その閉鎖的な生活に安住し続けていたこと。
18の時に、兵器が暴発し、基地が崩れ落ちたこと。団員は全て避難したと思われていたが、彼女だけが逃げ遅れてしまったこと。
彼女の両親はカロスの外へ逃亡したこと、一人になってしまった彼女を、外に生きる唯一の知り合いであった彼が引き取ったこと。
ずっと地下で生きてきた彼女は、日の光もアスファルトに伸びる長い影も、空の青も、何もかもを恐れなければならなかったこと。
外の世界で、苦しんで、苦しんで、その果てにあたしが生まれたこと。
「子供達に贔屓などするべきではなかったのだが、君だけは生活に困らないように援助しなければと思っていた。それが、あの兵器を起動させたわたしの贖罪になると信じていた。
君の苦労の責任は君にはない。君のお母さんにもない。わたしのせいだ」
この人も贖罪、などという重苦しい言葉を使う。この人も、マリーと同じ惨さを孕んでいる。
贖罪で救われるのは贖罪をした当人だけだ。他の人はただ、苦しいだけ。うんざりするだけ。現にあたしはオーナーの贖罪なんかにちっとも喜べない。頷けない。
「あたしは、違うと思っています。きっとどうあっても、彼女は死にたがったでしょうし、彼は死にそうだったでしょうし、あたしは馬鹿みたいな苦労を沢山したことでしょう。
あなたやフレア団はあたし達の何をも変えられない。あたし達の惨たらしい生き方は、あなたのそんな贖罪で理屈付けられるような簡単なものじゃない。世界はそんなに易しくない」
罪など、忘れてしまえばいいのだ。皆、もっと適当に生きればいいのだ。
オーナーも、マリーも、真面目すぎる。誠実が過ぎる。おどろおどろしい誠意に、あたしもお姉ちゃんもほとほと呆れ返っている。
そんなもの要らないのに。そんな告白をされたところで、あたしはあなたを責めてあげることなどできないのに。
「あなたのせいじゃないわ。あなたを責めてなんかあげません。だってあたし、あなたに助けられてばかりだったんですもの。あなたに沢山のことを教えてもらったんですもの」
自分よりも体の大きな大人を励ます術を、あたしは彼女との生活ですっかり心得てしまっていた。あたしの、十八番だったのだ。
あたしよりもずっと年上である筈のオーナーは、その見た目よりもずっと長い時を生きて来た筈のオーナーは、けれどもまるで少年のようだった。叱責を恐れる子供のようだった。
けれど身体が大きくなったところで、年を重ねたところで、心まで大人になる訳ではないのだと、あたしは彼女や彼を見てとてもよく分かっていたから、特に驚かなかった。
大人になるには、努力しなければいけないのだ。
知らなければいけないことを知り、できなければならないことをできるようにならなければならない。
駄々を捏ねることをやめて、諦めることを覚えなければいけない。頼ることではなく、頼られることに慣れなければいけない。教わる側ではなく、教える側に回らなければならない。
時が人を大人にしてくれるわけではない。世界はそんなに易しくない。
『生きるってとても恐ろしいことね。惨たらしいことね。やっぱりわたしは生きていかれないんだわ。生きていたって、仕方がないのよ。』
時に置いていかれてしまった彼女にとって、生きることは並大抵のことではなかったのだろう。
あたしも、マリーも、オーナーも、苦しんでいる。お姉ちゃんでさえ苦しんでいる。世界は易しくもないし優しくもない。生きることはやさしくない。
「早く一人前になりたいわ。だってあと5年しか、あなたに教えてもらえないんでしょう?」
もう、あたしは何もかもが分からなかった。
あたしには、5年だけ待って死のうとしているオーナーを引き留めることも、先に死んでしまったあいつを責めることも、できなかった。
命の大切さを訴えられるほど、生きることの楽しみを説けるほど、あたしはまだ、生きていなかった。この人を説き伏せるには、何かが決定的に足りなかった。
生きたくないのなら、生きなければいい。
そんな残酷なことを思えてしまったのだから、やはりあたしは優しくない。
2017.4.17
【14:-】