小指に黒い糸

「君の髪が欲しいんだ」

冬休みを目前に控えた、浮ついた空気の漂う午後。
少年の腕をぐいと掴んで引き留めた、いかにも浮ついていそうなスリザリン生の少女は、その煤色の目をぱちぱちと大きく瞬かせて、そんな狂気めいたことを口にした。

ここはグリフィンドールの寮へと向かう廊下の真ん中であり、この場を行きかう人間の殆どが、赤いネクタイを締めている。
他寮の生徒と親しくする人間が格別珍しい、という訳ではなかったが、とりわけこの色をこの廊下で見ることは先ずない。

理由など解りきったことで、グリフィンドールとスリザリンは何十年も前から折り合いが悪いのだ。
叩き上げのグリフィンドール生と、生まれ持った血と才能で選ばれたスリザリン生との確執は重く深く、今更、その溝を埋めようなどいう馬鹿げたことを誰も考えない。
スリザリンの生徒がわらわらと数人でこの廊下におしかけることが稀にあるそうだが、
そういう輩というのは、グリフィンドールの浮ついた低俗な空気を嗤いに来ているのだ。そうして初めて彼等は彼等の自尊心を保つことの叶うような、捻くれた一団なのだ。

だからといって、全てのグリフィンドール生がスリザリン生を目の敵にしている訳ではなかった。
少年は少なくとも、そうした意味のない憎悪や嫉妬は抱かなかった。ただ、関わらないようにしていた。
こちらを意味もなくからかう輩など、相手にする必要はない。相手がこちらの上げ足を取るなら、取られないよう己を磨くだけのことだ。
彼はいつだって孤独と共に在った。理解者は彼の腕の中を選び生まれて来てくれた、珍しいポケモン、タイプ:ヌルだけであった。

……故に少年のような、監督生でも主席でもないグリフィンドールの2年生を、
スリザリン生がこのような、極めすぎた羨望と憧憬の目で見つめることなど、決してあり得ないことであると彼は信じていた。信じ切っていた。
だからこそ、彼のそうした前提の斜め前を走るこの少女の、ぱちくりと大きく見開かれた目が、どうしても忘れられなかったのだ。
彼の脳裏に鮮烈な姿として焼き付くに十分な威力を持っていたのだ。そうした、悉く異常な少女だったのだ。

「名乗りもしないスリザリン生にやる髪なんか持ち合わせていない。帰れ」

「……あ! ごめんなさい。私、ミヅキっていうの。君と同じ2年生で、スリザリン生だよ」

彼女がスリザリン生であることなど、その深緑のネクタイが何よりも雄弁に示している。
そんな解りきったことを恥じらいながら語るこの少女は、何処かおかしいのではないかと少年は思い始めていた。不気味だ、と直感するに十分な不自然さであったのだ。
けれどそうした不気味な少女は、少年のぶっきらぼうな物言いに気分を害した風でもなく、寧ろ「君が私のために言葉を紡いでくれたことがとても嬉しい」とでも言うような、
そうした、どこまでも低俗でへりくだった幸福の様相を呈して微笑んでいたから、とても嬉しそうに笑っていたから、やはり彼は不気味だと、警戒せずにはいられなかったのだ。

「防衛術の授業で一緒のグループになったよね。あの時の君はとってもキラキラしていて、宝石みたいだったんだよ。……君は、私のことなんか覚えていないだろうけれど」

覚えていないだろうけれど。
そうした言葉を紡ぐ時というのは、往々にして眉が下がり、困ったような表情で、自分の「目立たない」ことを恥じるような声音であるのだと思っていただけに、
いかにも陽気に、快活に、覚えていないことが当然であるかのように紡いで笑った彼女の姿は、やはりどこか異常だったのだ。
けれど少年はその姿に彼女の強さを見た。彼女の異常な狂気めいた姿というのは、彼女が彼女なりの自尊心を保ってそこに在るための、装甲のようなものであるのかもしれなかった。

「悪いな、他人のことはあまり記憶に留めないようにしているんだ」

「え? ……あはは、いいんだよ、いつものことだから。君みたいな宝石は、私みたいな小石のことなんか見ないよね。
解っているよ、だから大丈夫! 申し訳ない、なんてこれっぽっちも思わなくていいんだから!」

スリザリンカラーのネクタイをしっかりと絞めて尚、このグリフィンドール寮へと向かう廊下の真ん中に堂々と佇む少女は、やはり強いのではないかと、思えてしまった。
けれどそうした強さを考慮しても尚、冒頭の「君の髪が欲しいんだ」という彼女の発言はやはり異常であり、彼はこの強い少女に自らの髪を渡すつもりなど、更々なかったのだけれど。

「……どうしてオレの髪なんかが欲しいんだ」

それでもそう尋ねてしまったところからして、他人に興味を示さないようにしていた彼もまた、彼女への好奇心を隠し切れなかった、年相応の子供に過ぎなかったのだろうけれど。
そうした少年の言葉に嬉々として口を開き、とんでもない言葉をまくし立てた彼女もまた、年相応に純な歪みを呈した子供に過ぎなかったのだろうけれど。

「君の綺麗なブロンドが羨ましくて、私、髪を金色に染めたことがあったの。緑色のコンタクトレンズも買ったんだよ。
でも駄目だった、君みたいにキラキラしていなかった。やっぱり紛い物は、本物の宝石の輝きには敵わないんだね」

「……」

「だから君の髪を1本だけ貰って、その綺麗な色を私のものにしたいんだ! 私、これでも呪文学の成績は良い方なの、だからきっと成功するよ!」

人の髪の色を己のものとするような魔法があるなんて、知らなかった。少年の頭を占めたのはそうした純粋な驚きだった。
少年を「宝石」とにこやかに謳い、自らを「小石」と笑いながら蔑むこの少女は、その実、少年などを軽々と凌駕する実力の持ち主なのではないだろうか。
少年が、他人に興味を示さない性格だったからこそこの少女の名前を知らなかっただけで、彼女はその実、それこそ宝石のように煌めく存在であるのではないだろうか。
もっともそんなことは、つい先程彼女の名前を知るに至った彼には確かめようがない。
だからこそ彼はこれから、この少女が宝石であるのか小石であるのか、少しばかり時間をかけて確かめなければいけなかったのだ。

「……いいだろう。だがオレも、信用できない人間に髪を渡すなんてことはしたくない。呪いに使われるかもしれないからな」

「いいよ、君に信用してもらえばいいんだよね! 私はどうすればいいかなあ、何を君に話せばいい? 私の話なんか、つまらないかもしれないよ?」

湯水のように溢れ出る下らない卑下が、どうにもおかしいものに思われて少年は思わず笑った。少年が笑えば、しかし彼女はさっとこれまでの笑みを消して沈黙した。
驚きと困惑の入り混じった表情は、しかし少年が「どうした」と怪訝そうに声を掛けるや否や、ふわりと崩れて元に戻った。そして、やはり息をするように卑下を為すのだ。

「いつも馬鹿みたいに笑っている私の顔よりも、一瞬だけ見せてくれた君の笑顔の方がずっとずっとキラキラしていて素敵だなって、思ったんだよ」

あれから2週間が経過した。
少女は相変わらず「グラジオ、グラジオ」と、毎日のように少年の後ろを付いて歩く。
彼も多少の苛立たしさを隠そうともせずに、「煩いぞ」などと窘めながら、それでも少女の異常な慕いようを許している。
彼女は窘められても、無視をされても、叱られても笑っている。逆に少年が笑ったり、気遣いを見せたりすれば彼女は困り果てたように沈黙する。
二人が同じ表情を呈したことは、未だかつてない。少年が笑えば笑う程に彼女の表情は陰った。そうすることが義務であるかのように、彼女は輝きをそっと少年に譲るのだ。

ミヅキ」を、このホグワーツで見つけることは容易であった。つい先日の中間テストの成績優秀者の一覧、上から数えて8番目に彼女の名前はあったのだ。
彼女はアシレーヌという、既に2回進化したポケモンに縮小呪文をかけて連れ歩いていた。
35cm程度の長い杖で、難しい呪文を流暢に紡ぐ彼女は、お調子者だが勤勉で努力を怠らない彼女は、他寮の生徒からも一目置かれるべき存在である筈だった。

けれどもスリザリンというのは悉くおかしな種族で、あの寮で重要視されるのは実力ではなく家柄であるようだった。
つまるところ、そこまで有名でもない家の生まれの彼女は、何をどう頑張ったところでスリザリン生の宝石にはなれないのだ。
馬鹿馬鹿しいと思った。狂っていると思った。けれどそうしたおかしな寮の風習にしがみつき、ニコニコと笑いながら自己を卑下する彼女が、やはり最も狂っていたのだ。

「ねえグラジオ、そろそろ私のこと、信用してもらえたかなあ?」

そんな彼女が、彼女以外の何者かになるために自らの黒い髪の色を棄てようとしているのだとして、スリザリンという檻の外にいる少年に強く焦がれていたとして、
それはしかし、あの狂った寮に置かれた彼女なら仕方のないことであるのかもしれなかった。そして、だからこそ、少年は己の髪を彼女に渡す訳にはいかなかったのだ。

「お前の髪を1本くれるなら、オレもお前に髪をやるよ」

「え? ……私の髪なんか貰って、どうするの?」

「お前はその黒い髪を棄てるんだろう? ならオレが代わりに黒い髪になる。オレの捨てた金色の髪はお前が拾ってくれるんだから、同じことだ」

「だ、駄目だよ! 絶対に駄目!」

慌てて否定することが分かっていたから、少年は彼女の唐突な大声に怯まなかった。
「君はこんな髪になっちゃいけない」「私の髪の色なんか残さなくていい」「君がみっともない髪になるのを見たくない」
正常な言葉も狂った言葉も、混ぜこぜになって早口で次々に発せられた。強迫的かつ楽観的な卑下はこの少女の十八番であった。だから今更、驚かない。驚けない。

「なら、何もしなければいい。お前はオレの髪の色を失いたくない。オレもお前の髪の色を忘れたくない。ずっとこのままでいれば、オレの願いもお前の願いも叶う」

「……君は、おかしいよ。私みたいな人の髪色を忘れたくないなんて」

「ならお前もおかしいんだろうな、オレみたいな奴の髪を欲しがるなんて」

ほら、お前が望んだ「お揃い」だぞ。嬉々として受け取らないのか? 嬉しい、と、いつものように満面の笑みでその幸福を飲み下さないのか?
にやりと笑って、言葉に出さずにそう尋ねてみる。やはり少年が笑えば少女は困るのだ。いつものことだ。それを「いつものこと」と思える程に、二人は長く共に歩いたのだ。

「君とお揃いになれることがあったなんて、信じられない」などと、泣きそうに顔を歪めて少女はぽつりとそう零す。
この純な歪みを呈した盲目の宝石に、自らの輝きを知らしめるには、随分と長い時間がかかりそうである。
そんな、途方もない長さの時を想って少年は笑った。彼にとって、この時間が長ければ長い程によかったのだ。それだけ長く、二人でいられるということなのだから。

君はいつ、オレと一緒に笑ってくれるのだろう?

2016.12.22
くまさん、退院おめでとうございます。

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