リビングに降りると、シルバーが既に計算ドリルを広げていました。
長い髪を金属製の無骨なヘアクリップでまとめて、計算ドリルの上に髪の影が落ちないように工夫しつつ、ペンを器用にくるくると回しながら、目を細めていました。
あなたはその姿を、少し訝しく思いました。
算数の学期末テストならまだしも、宿題に出されるような計算ドリルというものは、掛け算や割り算を駆使して、力業で乗り切ることのできる、スピード勝負の代物であった筈です。
あなたは自らの通っている小学校で学ぶことを、殊更に「難しい」と感じたことはありませんでした。
故に、あなたよりもずっと賢そうなシルバーが、あなたよりもずっと緩慢なペースで計算ドリルに取り組んでいることは、あなたを少なからず驚かせていました。
「シルバーは算数が苦手なの?」
「……そうだな、どちらかといえば苦手だ。でもまあ、このドリルを作ったのは冷酷先生だからな。捻くれた問題ばかりなのは、仕方のないことなのかもしれない」
あなたは彼の計算ドリルを覗き込み、そして、ひどく驚きました。
そこには、「力業で乗り切る」ことなどまず不可能な、難解な図形問題やグラフ問題が、小さな字でびっしりと並べられていたからです。
「……この町の皆は、いつもこんな難しい勉強をしているの?」
「さあ、どうだろう?でも他の教科はともかく、算数はこのレベルなのは間違いない。冷酷先生は、易しい問題なんか出さないからな」
あなたがそのドリルの難しさに眩暈を覚えていると、コトネが困ったように笑いながらシルバーの向かいの席に座りました。
「セラの小学校で使っている計算ドリルも、見たかったなあ」と呟きつつ、彼女もシルバーの手元にあるものと全く同じドリルを開きました。
同じ算数のドリルに取り組み始めた二人ですが、その問題は二者の間で少し異なっていました。
コトネはシルバーよりもかなり先のページまで進んでいるようで、そこには図形やグラフの一切ない、文章題ばかりが並べられていました。
けれどもコトネはまるで、その難解な文章題を、あなたが分数の計算を解くのに等しい流暢さで、すらすらと解いてしまっていました。
どうやらコトネにとって算数は「得意」な部類に入るようです。
「そうだ、お姉ちゃんがお菓子を持たせてくれたの。明日まで日持ちするらしいから、また皆で食べようよ」
「わあ、嬉しい!マスターの作るお菓子はどれも美味しいから、今回も楽しみだなあ」
コトネはあなたが差し出した紙袋を受け取り、中のタッパーだけ取り出して冷蔵庫に入れてから、
まだ完全に溶けていない保冷剤を、両手で持って軽くもみつつ「ふふ、冷たい!」と心地良さそうに笑ったのでした。
「セラはもう計算ドリル、終わったの?」
「うん、自由研究以外の宿題は7月中に終わらせてきたの。こっちではいっぱい遊ぼうと思って」
コトネは目を丸くして「すごい!セラってとっても賢いんだね!」とあなたを賞賛しましたが、
間違いなく「賢い」のは、その難解な算数のドリルをすらすらとこなすコトネの方であり、
あなたがあなたの小学校の宿題を7月中に全て終わらせたことなど、この町の子供達の前では、本当に些末な、取るに足らないことであるのかもしれない、と思いました。
けれども「私の学校ではもっと簡単な宿題しか出ないんだよ」とは、何故だか言うことができませんでした。
「セラ、お待たせ」
ゆっくりと階段を下りてきたヒビキの両手には、3冊の分厚い本と2冊のノート、そして小さなペンケースが抱えられていました。
3冊の本はそれぞれ、お菓子の本、植物の本、野菜や果物の本でした。3冊とも、とても分厚いもので、特に植物の本はかなり使い込まれているようでした。
これほど立派な本は、市の図書館に行かなければ見つからないように思われたので、あなたはこの全てが、あなたと同い年のヒビキの所有物であることにかなり驚きました。
そのことをヒビキに伝えると、彼は面白そうに笑いながら、一番上にあったお菓子の本を手に取りました。
「これだけ、実はコトネのものなんだ。2年前くらいに、お菓子作りを始めようと思い立って、立派なレシピ本を買ったはいいものの、すぐに飽きちゃったみたいで。
だから僕が貰って、暇潰しに読んでいるんだ。写真もカラフルだし、見たことのないような調味料なんかも出てくるし、かなり楽しいよ」
「ヒビキはお菓子を作ったりしないの?」
「うーん、そうだね。キッチンに立つのって割と大変だから」
その言葉で、あなたは料理を自由研究のテーマにするのならば、ヒビキと一緒に取り組むことはできなさそうだと察するに至り、料理を候補から外しました。
あなたはお菓子を作ること自体は嫌いではありませんでしたが、どうせなら、この町で知り合った子供達と一緒にできるような何かをテーマにしたいと思ったのです。
「植物図鑑だけ、とても使い込まれているね。……この黄色い付箋が付いているのは何?」
「家の周りで見かけた植物を調べて、印を付けているんだ」
「えっ、こんなにあるの?」
黄色い付箋の数は、ざっと50以上あるように見えました。
そんなにも多くの植物がこの家の近くに自生していることに、あなたはとても驚きつつ、
その全ての植物の生態や、種類について、細かく調べてまとめることができたなら、きっと立派な自由研究になるだろうと思いました。
「僕は花に限らず、いろんな野草や苔も調べているんだ。もし君も植物に興味があるなら、そうだね……野菜や樹木の類を、調べていると面白いかもしれないよ」
彼がそう告げつつ、3冊目の本を手に取りました。
それなりに使い込まれているようでしたが、植物図鑑のような付箋の類は見当たらず、使用頻度としてはやや低い部類に入るのではないかという推測をあなたは立てました。
ただ、あなたには「野菜や樹木」という観察対象は退屈なものに思われたので、「野菜や果物について調べるの?」と少しばかり訝しむように口にしたのでした。
「野菜も果物も、私達が普段食べているものだから、調べたところで面白いことなんか、あまり見つからないような気がするけれど……」
「大丈夫だよ。君がまだ知らないだけで、食べ物には不思議なことが沢山隠れているから」
するとその言葉を合図とするかのように、ヒビキは流暢な語り口で、まるで授業をするかのような淀みなさで、すらすらと言葉を紡いだのです。
例えば君は、田んぼにどうして水が張られているのか考えたことはある?実は稲自体は、あんな風に水で満たさなくてもちゃんと育つんだよ。
ネギって、地上に出ているところは緑色で、土に埋まっているところは白いだろう?全体が白いネギを作るために、わざと土でネギ全体を覆ってしまうような育て方もあるんだよ。
ゴーヤやピーマンは緑色の状態で収穫するけれど、実はそのままにしておくとゴーヤは黄色に、ピーマンは赤色になるんだ。どうして緑色の状態で食べるんだろうね?
種なし葡萄っていうのが売られているけれど、あれは種を作らないような薬をかけることで、種のない葡萄を人工的に作っているんだ。どんな薬なのか、気にならない?
あなたはヒビキの口から紡がれる、魔法のような言葉にすっかり聞き入っていました。
あなたが当たり前のようにスーパーで手に取っていた野菜、当たり前のように家で食べていた果物。それらの「理由」など、考えたこともありませんでした。
稲が水を満たした田んぼの中で育つことも、ネギの色が根本と上の方で違うことも、ゴーヤやピーマンが緑色をしていることも、種のない葡萄があることも、
全て、全て、「そういうものなのだ」と思って、疑うことの一切をせずに、あなたはこれまで過ごしてきました。
けれどもヒビキは、疑っています。
野菜や果物が「この時期」「この場所」「この形」「この色」で存在しているのは何故なのか、彼は植物がその姿で在ることへの意義を問うているのです。
それは雷に打たれたような衝撃でした。ヒビキは確実に、あなたの知らないことを知っており、あなたはそれをひどく「もどかしい」と思いました。
そして、もしヒビキが口にした物事の全てに「理由」があるのなら、それを探ることは、きっとどんな遊びよりもゲームよりも漫画よりも「面白い」ことに違いないと思いました。
「私、何も知らない。どうして「そう」なのか考えたこともなかった。
……そういうこと全てに、ちゃんと理由があるの?調べたら、私にも分かるようになるの?」
ヒビキはまるで、そうしたことの一切を知っているかのように「そうだよ」と静かに告げました。
その短い、けれども確かな言葉に背中を押されてしまってはもう、他の研究テーマを考えようとすることなど、できる筈もありませんでした。
「興味を持ってくれてとても嬉しいよ。誰かと一緒に宿題ができるなんて、夢みたいだ」
今、あなたの中に燻る、あなたが今まで感じたことのない程に強烈な好奇心と高揚は、その夢のような心地は、他の誰でもない、ヒビキによって差し出されたものであった筈なのに、
彼はその言葉を受けて、あなたが発するべき「夢みたい」を、あまりにも自然な調子で紡いでしまったので、あなたはとても驚いてしまいました。
「わ、私の方がずっと、夢みたいだよ!こんなにわくわくする自由研究、初めて!」
変なところで張り合ってしまったあなたに、ヒビキはきょとんとした表情を見せたあとで、お腹を抱えて笑い始めました。
そうして笑っているところは、やはり華奢な体躯ながらもしっかりとした男の子のそれだったので、あなたの心臓は少し、ほんの少しだけ跳ね上がってしまいました。
隣では鉛筆を放り出したシルバーが「俺も早くこいつを終わらせて、自由研究に取り掛かりたいんだけどなあ」と、悔しそうに、けれどどこか嬉しそうに、告げました。
2017.8.6