更紗町は、電車を何本も乗り継いだ先にあるようでした。
あなたは手元の切符を数えてみました。大きさも色も違う切符が、全部で6枚、あります。こんなに沢山の切符を使って、遠くの町に一人で行くのは初めてのことでした。
大丈夫かしら。ちゃんと更紗町まで辿り着けるかしら。あなたはにわかに不安になりました。
しかし一番初めに乗る電車は、つい先程あなたの母親が教えてくれたばかりでした。
心細くなっていたとはいえ、つい数分前の母親の言葉を忘れてしまう程、あなたは平静を失ってなどいませんでした。
よし、とあなたが勢いよく一歩を踏み出そうとしましたが、そんなあなたの背中に、誰かが声を掛けてきました。
「あんたも更紗町に行くの?」
あなたは振り向きました。
綺麗な女の人でした。かなり背の低い人でしたが、顔立ちはとても大人びていました。前下がりのワンレンボブが、首を小さく傾げると共にサラサラと揺れました。
あなたが「はい」と上擦った声で返事をすると、彼女はクスクスと笑いながら、
あなたが持っているのと全く同じ色、同じ大きさの切符を、同じ枚数だけポケットから取り出して、あなたの目の前でヒラヒラと振ってみせました。
「奇遇ね、あたしもあの町に用があるのよ」
「お姉さんも、夏休みなんですか?」
あなたがそう尋ねると、彼女はケラケラとお腹を抱えながら豪快に笑いつつ、そうね、そんなところよと返してきました。
大人にも夏休みがあるのだと知り、あなたは少しだけ嬉しい気持ちになりました。
「ねえ、折角だから一緒に行きましょうか。あんたが迷ってしまわないように、大人のあたしが案内してあげる」
「わあ、ありがとうございます!乗る電車を間違えてしまわないか、心配だったんです」
知らない人には付いていってはいけない。
あなたはそう教え聞かされていた筈でしたが、この女性があなたと全く同じ切符を持っていたことにより、勇敢なあなたは彼女を警戒することをすっかり忘れてしまっていました。
そんなあなたに、女性は再び気取ったような、クスクスという笑い声を鳴らしつつ「よかったわね、あたしが悪い人じゃなくて」と、柔らかくあなたを窘めるのでした。
「はい、お姉さんが良い人で本当によかったです!」
あなたがにっこりと笑ってそう言い返せば、彼女は驚いたように墨色の目を見開きました。
大人びた顔立ちをしていましたが、そうやって驚いた顔はまるで子供のようでした。あなたと同い年くらいの女の子のようにも見えました。
けれどもあなたの方に差し伸べられた手は、とても綺麗で力強くて、やはりあなたのそれとは似ても似つかないものでした。
そんな女性と一緒に、あなたは電車に乗りました。
どうぞ、と彼女が笑いながらあなたに窓際の席を譲ってくれたので、あなたは大きな声でお礼を言い、窓に手をぴたりと付けながら座りました。
エアコンの効いた車内の窓は、まるで氷のように冷たいもので、けれどもその冷たさが、先程まで暑い駅のホームを歩いていたあなたの手には、とても心地がよかったのでした。
彼女はポケットから小さなお菓子を取り出して、あなたの手の平に落としてくれました。
ピンク色のポケモンの絵が描かれた、とても可愛らしい包み紙の中から、白い飴がコロンと転がり出てきました。
「お姉さんも、ポケモンが好きなんですか?」
あなたは少し驚きました。
「ポケットモンスター」とは、子供が夢見る生き物だと思っていたからです。
大人になってしまえば、自然とあの不思議な生き物の存在のことは、忘れてしまうものと思っていたからです。
そして小学6年生であったあなた自身も、かつては夢見たポケモンとの暮らしを、あの町への憧れを忘れかけていたからです。
彼女はその小さな肩を竦めつつ、墨色の目をすっと細めて「そうよ」と笑いました。
あなたはなんだかとても嬉しくなって、にっこりと満面の笑みを浮かべました。舌の上を転がる白い飴は、口の中でシュワシュワと泡を立て始めました。
「更紗町には、ポケモンを見に行くんですか?」
「いいえ、そうじゃないわ。友人に会いに行くのよ。それにポケモンだけなら、わざわざ更紗町になんか行かなくたって、この近くにも沢山、いるじゃないの」
あなたはとても驚きました。
「ポケモンが沢山いる」などという言葉を、あなたは聞いたことがなかったからです。
この日本に「ポケモンが沢山いる」場所など、幻の町であると思われていた「更紗町」を除けば、他には何処にも、ないように思われたからです。
もしかしたら「研究所」のことを言っているのかもしれない、とあなたは思いました。
「絶滅危惧種」に指定されている生き物を保護している大きな施設、それが首都にあることをあなたは知っていました。
そこで働くことを夢見ているクラスメイトも周りには何人かいました。あなたも、もしかしたらあの研究所の職員に憧れを抱いていた時期があったのかもしれません。
あの大きな白い建物の中には、図鑑でしか見たことのない不思議な生き物たちが、平和に穏やかに暮らしているのだと、子供達は皆、信じていました。
けれどもその建物に入れる人物は、ほんの一握りであることをあなたは知っていました。
ポケモンと触れ合える人物など殆ど存在しないということ。ポケモンという存在は、白い壁に囲まれた特別な場所でしか生きられないのだということ。
故にポケモンは幻の存在、隠れた存在であり、この目でそれを見つけることなど到底できないのだということ。
あなたはそれを知っていました。知って、悔しがって、口惜しく思って、そうしてやがてすっかり諦めてしまっていたのです。
ポケモンと暮らすこと。ポケモンと触れ合うこと。ポケモンを見つけること。
その全てを忘れ、あなたはこの都会で平凡に生きていく筈でした。
諦めること。忘れること。それが、夢を叶えられなかったあなたにできるやさしい選択だったのです。
「……ああ、最近の子はポケモンの探し方を知らないって、本当だったのね」
そんな、諦めることと忘れることを覚えかけていたあなたの前で、諦めることも忘れることもできていないこの女性は、
驚きに目を見開いたあなたを面白そうに眺めつつ、あなたを哀れむように、からかうように、許すように、そう告げたのでした。
「お姉さんはもしかして、研究所の人なんですか?」
「まさか!あんな病院みたいなところで働くなんてまっぴら御免だわ。あたしは白衣が嫌いなの。病院も嫌い、注射も嫌い。だから研究所も嫌いよ」
病院や注射が嫌いだなんて、まるで子供のようなことを言う人だと思いました。
この女性は、なんだかとても幼いのです。とても大人びた風であるのに、どこまでも子供であるように見えるのです。
そんな、子供なのか大人なのかよく解らない彼女は、あなたの方にそっと顔を寄せて、あなたの耳にそっと囁きました。
「あんなところに入らなくたって、あたし達はポケモンに会えるわ」
彼女がそう囁き終えると同時に、電車がゆっくりと動き始めました。
ビルの立ち並ぶ街を見ながら、彼女は「今日は随分とスバメが多いわね」と、あなたの知らないポケモンの名前を呟いて、とても楽しそうに、幸せそうに笑っています。
この子供のような大人のような女性のことが、あなたはとても羨ましくなりました。その墨色の目に映る不思議な生き物を、あなたもあなたの目で見てみたくなりました。
「どうやって探すんですか?どこにいるんですか?」
まるで欲しいおもちゃを強請る幼児のように、あなたは窓の外を眺める彼女の視界を遮りつつ、その小さな肩に手を置いて強く揺さぶり、教えを乞うように尋ねました。
彼女はクスクスと楽しそうに笑いながら、またしても驚くべきことを言って、鞄から先程の飴をまた一つ、取り出すのでした。
「大丈夫よ、あんたもすぐ見えるようになるから」
2017.7.31