「この町にはたまにお客さんが来るの。ザオボーさんはそんなお客さんのために、住む場所を貸し出しているんだよ。
今はこの土地の山を調査している団体さんが、2階と3階のお部屋を借りて住んでいるの。もし会えたら、挨拶をしてみるといいよ」
そうしたクリスの説明を受けながら、あなたは古いキッチンに立つザオボーの細い後ろ姿を見ていました。
ザオボーは大きな鍋に緑色の麺を大量に投入していて、あなたは思わず声を上げそうになりました。
お蕎麦といえば灰色の、少し黒い粒が表面に見えるあの麺しかあなたは知らなかったのです。
故に彼が「緑色」を鍋の中に入れたこと、茹で上がったそれが鮮やかな抹茶色をしていたことに、ひどく驚いてしまいました。
けれども綺麗なせいろに盛られたその蕎麦は、とても美味しいものでした。
あなたが興味本位で、つゆに浸す前の麺をそのまま口に運べば、ほんのりとお茶の葉の気配さえしたのでした。
「おや、お子様の癖に、なかなか粋な食べ方をするじゃありませんか!」
何気なしに取ったその行動を、けれどもテーブルの向かいに座るザオボーはとても喜びました。
どうやら「粋」と呼ばれる人達は、つゆに浸す前に一度こうして麺だけの味を確かめているようです。
クリスは嬉しそうに笑いながら「セラちゃん、凄いね!」とあなたを褒めてくれました。
「ザオボーさんが子供を好きになることなんて滅多にないんだよ。セラちゃんの他には、あと一人しかいないんだもの」
するとザオボーはわざとらしい咳払いをして、待ちなさいとクリスを咎める発言をしました。
何かしら、と、小さな音を立てつつ蕎麦をちゅるんとすすっていたクリスは、その唇に細い海苔を付けた状態でふわりと微笑みました。
「まったく、聞き捨てならないことを言うんじゃありません。わたしがいつ、あの子を気に入ったと口にしましたか?」
「あら、サングラスで隠しているつもりかもしれませんが、お顔に大きく書いてありますよ。貴方がミヅキちゃんを可愛がっていることなんて、貴方が口にしなくても、解ります」
「……」
「ついさっきも、ミヅキちゃんのためにこれを茹でていたんでしょう?お蕎麦を茹でるためのお湯が沸騰するまでの時間、とても短かったもの。
きっとミヅキちゃん、民宿の窓から外へ出ていったんですね。私達、邪魔をしてしまったかしら?」
今まで、あなたの前ではとても優しかったクリスの鋭い一面を、あなたは目の当たりにしました。
とても柔らかい、優しい声音でしたが、そこにはザオボーの弁明を許さない、隙のない真実への探求心がありました。
そうなのでしょうと確認するまでもなく、「それ」が彼女の中では既に真実になっているようでした。
あなたはとても驚きましたが、ザオボーは驚きませんでした。呆れたように笑いながら、その眉をくいと寄せて、
「これだからお子様は嫌いなんです」
と告げつつ、けれどもその偏屈な笑みは、クリスのそうした鋭さを許すような、どうにも柔らかいものであるように思われてしまったのでした。
「……ああ、ザオボーさん、おはようございます」
そんな三人の前に、階段から若い男性が現れました。
大きなリュックサックを背負ったその人の寝癖に、あなたは少し笑いたくなってしまいました。
紺色の髪は、まるで猫を模したように、右と左の高い位置で、対称的にぴょこんと跳ねていたからです。
けれどもその対称性があまりにも美しいものだったので、あなたはもしかしたら、彼のあの髪は寝癖ではなく、彼が独自にセットしたものであるのかもしれない、と思いました。
「ああサターン、おはよう。食べていきますか?今ならキュウリとトマトも付けますよ」
「ええ、ありがとう。それじゃあ貰います」
若い男性はそう告げて、リュックサックをどかんと床の上に置き、あなたの隣にある椅子を引きました。
あなたが挨拶をしようとするより先に、彼はあなたの方に視線を向けてそっと微笑み、
「セラだろう?ヒカリやコウキから話は聞いている」
と、あなたの名前を言い当てたのでした。
あなたがぱっと笑顔になって大きく頷き、改めて自己紹介をすれば、彼はその手をあなたの方へと差し出してきました。
少し小さめの手でしたが、あなたの手を握るその力はやはり強く、大人の男性のものでした。
「私はサターン。この町の南にあるシロガネ山について調べている。皆からは「天体観測のお兄さん」とか「やまおとこ」とかいう風に呼ばれているから、君も好きに呼ぶといい」
「シロガネ山?もしかして、今からそこに登るんですか?」
「いや、今日は麓でポケモンのことを調べるだけだから、登山はしない。でも夜になればヒカリやコウキと一緒に、山の3合目まで行くことになるだろうな。
最近、一部の子供達の間で天体観測が流行っているんだ。君も興味があれば、いつでも声を掛けてくれ」
あなたが元気よく返事をするのと、ザオボーが大量の蕎麦が盛られたせいろをドカンと彼の前に置くのとが同時でした。
サターンは「ありがとう、いただきます」と口にして、豪快に蕎麦をすすり始めました。
クリスより少し高いくらいの背を持つ、男性にしては小柄で細身な人である筈なのですが、そのような見た目に似合わず、彼は随分と大食いなようでした。
「しかしザオボーさん、この民宿には抹茶味の蕎麦しかないんですか?
……あ、いえ、嫌いな訳ではないんですよ。ただ、随分な拘りだな、と思いまして。この町に来るまで、私は抹茶味の蕎麦など食べたことがありませんでしたから」
蕎麦をごくんと飲み込んでから、サターンは顔を上げてそう尋ねました。するとザオボーはくつくつと喉を鳴らすように笑ったのです。
独特な笑い方だとあなたは思いました。それが彼なりの「機嫌の良さ」を示す笑みであることに、彼とたった今知り合ったばかりのあなたは気付くことができませんでした。
「ええ、ええそうですよ。特注品です。わたしは緑色が好きですから」
「……だからサングラスも緑なんですか?」
「勿論です、好きなものに囲まれていたいと思うのは、当然のことでしょう?」
あなたの問いに、ザオボーは笑顔のまま答えてくれました。まるで子供のようなことを言う人だ、とあなたは思いました。
皮肉的な言い回しが得意で、どちらかというと子供の来訪を鬱陶しく思っているような素振りを見せる男性ではありましたが、
この男性が本気で子供を嫌っているようには、あなたはどうしても思えなかったのでした。
そうしているうちに、あなたとクリスは蕎麦をすっかり食べ終えてしまいました。
ご馳走様でしたと告げて、とても美味しかったですとありのままを伝えれば、ザオオーはそこそこ機嫌を良くしたようで、
「はい、どうも。まあ美味しいのは当然のことですが、そう言われて悪い気はしませんね」
と、意地悪そうな笑みでそう告げるのでした。
「それで、ミヅキちゃんはお花畑に行ったんでしょう?さっきアブリーの群れが、あの方角に飛んでいくのが見えましたよ」
けれどもクリスが歌うようにそう尋ねた途端、彼は大袈裟に眉をひそめ、大きな溜め息を吐いたのです。
それは海辺で、カルムがクリスを見上げたときの、あの冷たい視線によく似ている気がしました。
それは小学校で、ランスが感心しながらも訝しむように向けた、あの不穏な言葉に似ている気がしました。
もしかしたらザオボーも今から、クリスを傷付けるような言葉を今まさに口にしようとしているのではないかと、あなたは思い、そして恐れました。
「い、言わないで!」
そうしてザオボーが口を開きかけると同時に、あなたは思わず声を上げてしまっていたのです。
「クリスさんを、悪く言わないでください。クリスさんは、ポケモンのことをよく知っているだけです。人より勘がいいだけです。クリスさんは、おかしくなんか、」
「セラちゃん」
クリスは慌てたようにあなたの手を掴みました。
ザオボーはあなたの突然の大声に、驚いたように、拍子抜けたように、呆気に取られたように、サングラスの奥にある青い目で真っ直ぐにあなたを見つめていました。
ややあって、ザオボーは呆れたように笑いました。あなたは恥ずかしくなって顔を真っ赤にしました。
サターンはこの空気になど構いもせずに、ただ大量の蕎麦をすすり続けていました。
「……ザオボーさんが誰かを嫌ったり誰かの悪口を言ったりするのは、いつものことなのよ。だから気にしていない。私はちっとも悲しくないわ」
そうした優しい言葉をクリスが紡ぐものですから、あなたはまだ、この優しい少女と出会って半日しか経っていなかったものですから、
彼女がそう告げた言葉が本当だったのか、嘘だったのか、まだ確信をもって断言することができませんでした。
そしてあなたは小学六年生、誰かを疑うこと、懐疑の視線を向けることに慣れていない年齢でした。故にあなたは「……よかった」と、安堵の言葉を口から落としたのでした。
「……クリス」
「あら、何かしら?意地悪なザオボーさん」
「よかったですね」
あなたははっと息を飲みました。
その瞬間、ザオボーも、クリスも、蕎麦を夢中ですすっていたサターンさえも、一様に目をすっと細めて、とても悲しい笑顔を見せたからです。
ほんの一瞬、彼等は全く同じ目をしていたのです。
2017.8.7