ラムネをご馳走になったあなたは、ヒビキやコトネやシルバーと別れ、再びクリスと共に町を歩き出しました。
先程は渡ることに苦労した小川も、二度目ともなればあなたは少し素早く飛び越えられるようになりました。
クリスは驚いたように「セラちゃんは上達が早いんだね」と、あなたの川渡りを再び褒めてくれました。
畑の間にある、雑草の生い茂る小道を駆けて、小川に沿って二人は歩きました。
小川の幅が少しずつ広くなり、どこまで続いているのだろう、とあなたが思い始めた頃、嗅ぎ慣れない、少し湿った匂いがあなたの鼻先をくすぐりました。
何の匂いなの、とあなたが尋ねると、クリスは驚いたようにその空を見開いて、けれどすぐにあなたの手を取ってクスクスと、いつものように笑ってくれました。
「海だよ。この町は海の近くにあるの。更紗町の海はとっても鮮やかなんだよ!
浜辺に打ち上げられたゴミはヤブクロンが掃除してくれるから、いつも観光地みたいに綺麗なの。セラちゃんもきっと気に入るわ」
海!あなたは目を輝かせました。
あなたの住んでいた場所は、海からは程遠いところにあったため、水場を見かけることがあるとしても、それはアスファルトで両側を綺麗に整備された川くらいのものでした。
海とはどのようなものなのだろう。どれくらい広いのだろう。水は温かいのかしら。熱いのかしら。もしかしたら驚く程に冷たいのかもしれない。
波はどんな風に打ち寄せるのかしら。海で泳ぐことはどれくらい難しいのかしら。波に翻弄されてしまわないかしら。海の水は、本当に辛いのかしら。
そんなことを考えながら、あなたは歩幅を大きくしました。
下り坂をクリスと一緒に夢中で駆け下りて、背の高いトウモロコシ畑を曲がれば、あなたの待ち望んでいた「海」はすぐそこに、一面に広がっていたのでした。
「わあ……」
あなたに近いところにある浅瀬の海は、砂浜の色を移した、柔らかな白でした。それより少し向こうでは、打ち寄せる波の色、入道雲のように暴力的な白に染まっているのでした。
白波の更に奥は空を移したような優しい水色で、そこから遠くへ向かえば向かう程に、その青は深さを増していました。
空との境をくっきりと主張するような、群青色の水平線があなたの目を眩しく、穿ちました。
「どう?」
「……思っていたより、ずっと大きい!これじゃあまるで、世界の殆どが海で出来ているみたい!」
「あら!……ふふ、セラちゃん、知らないの?地球の半分以上は海で出来ているのよ。私達が暮らせる陸地は、この広い世界の中ではほんの3割くらいでしかないの」
そうなの?とあなたは驚いて尋ねました。クリスは歌うように「そうよ」と告げて、スキップするように砂浜へと駆け出しました。
あなたもタマゴをしっかりと抱きつつ、彼女の後に続きました。
しかし白い砂浜を歩くのは、公園にある砂場の上を歩くのとは訳が違いました。砂に靴が沈んでいくのです。思うように前へと進めないのです。
きっと、砂が綺麗で、その粒がきめ細やかなせいだろうとあなたは推測しました。
けれどもそのような砂浜においても、クリスは特に苦労しているようには見えず、アスファルトの上を歩くかのような、全くもって簡単そうな調子だったのでした。
クリスの背中はどんどん小さくなっていきました。あなたは焦りましたが「待って」と言うことは何故だかできませんでした。
歩けるようにならなくちゃ。そう思い、懸命に足を動かしたのですが、どう頑張ってもクリスのようにはいかないのでした。
やっとのことであなたは波打ち際へと辿り着きました。
クリスはサンダルを脱いで、裸足になって浅瀬の海をちゃぷちゃぷと蹴り上げて遊んでいました。
あなたも靴と靴下を脱ぎ、そっと海に足を差し入れました。暑すぎる日差しに反して、海の水は少し冷たく、それがあなたにはとても心地良く思われたのでした。
「あれ、クリスだ!外に出ているなんて珍しいな!」
あなたとクリスが浅瀬で遊んでいると、より深いところから、男の子が3人、やって来ました。
クリス、と親しい調子で彼女のことを呼んだ男の子は、あなたを珍しそうに見つめました。
「もしかして、お前が皆の言っていた新入りか?」
「うん、多分そうだと思う。8月の間、この町のカフェで暮らすことになっているの」
「えっ、マスターの家のことか?マスターに親戚なんていたんだなあ」
あなたにも気さくな調子で話しかけてきたその男の子の足元には、水色の亀のようなポケモンが、にっこりと笑ってあなたを見上げていました。
あなたが3人に自己紹介をすれば、今度は一番背の高い男の子が「よろしく」と、涼しげなテノールボイスで口にしてくれました。
「俺はカルム。中学2年生だ。あとの2人は小学6年生。煩い方がグリーンで、落ち着きのない方がキョウヘイだよ」
「カルムが落ち着きすぎなんだよ。何かにつけて「楽しくない」みたいな顔しちゃってさ」
からかうように告げた、サンバイザーを被った少年があなたに握手を求めてきました。おそらくこちらの男の子がキョウヘイでしょう。
あなたはその手を握り返しました。トウヤの手ともヒビキの手とも似つかない、小さいけれどとても力強い握り方をしてくる、たくましい手でした。
カルムの足元にもポケモンがいました。緑色の身体をしたその子へとあなたが視線を落とせば、彼は首を捻りつつ、
「ポケモンが珍しい?」
と、町の外からやって来たあなたの反応を窺うようにして尋ねました。
「うん、昨日までポケモンを見たことがなかったの。こんなに沢山のポケモンに囲まれて暮らせるなんて、夢みたい!」
「……そう、都会って寂しいところなんだね」
淡々とした声音でした。
夏の暑い日差しにうんざりしているのでも、余所者のあなたに嫌悪感を示しているのでもない、何か大きすぎるものを諦めてしまったような、あまりにも静かな声でした。
けれどもそんな彼があなたの腕の中にいるタマゴを見て、「でもそのタマゴが孵ったら、君も俺達と同じポケモントレーナーだね」と、少しだけ微笑みつつそう告げてくれたので、
あなたはとても嬉しくなって、私も早くこの子に会いたいのだと、早くポケモントレーナーになりたいのだと、そうした期待と歓喜を弾けさせるように、口を開きました。
「このタマゴからは、イーブイっていうポケモンが生まれてくるみたい。どんな子なんだろう、想像もつかないや」
「えっ?イーブイが生まれてくるなんて、どうしてそんなことが分かるんだい?」
「クリスさんがそう言っていたよ。これはイーブイのタマゴなんだって」
その瞬間、彼はあからさまに顔をしかめました。
先程までの静かな表情を忘れさせるような、燃え上がる炎のような鋭く熱い目でした。
あなたがそれに怯んでいると、カルムはあなたの後ろでニコニコと笑っているクリスに向かって、吐き捨てるようにこう口にしたのです。
「気持ち悪いことを言いすぎて、また一人になってもオレは同情なんかしないからね」
何が「気持ち悪い」ことなのでしょう。イーブイというポケモンが生まれてくるのだと、そう教えてくれたクリスの何が「気持ち悪い」ことであったというのでしょう。
あなたには何もかもが解りませんでした。クリスも困ったように笑いながら、彼女自身よりも年下である筈のカルムに何も言い返しませんでした。
カルムはふいとあなたに背を向けて、ゆっくりとした足取りで立ち去りました。緑色のポケモンも、そんな彼の足並みに合わせるようにぴったりと傍に付いていました。
愕然とした表情のままに立ち尽くしていたあなたに、キョウヘイが声を掛けました。
「カルムは気難しい奴なんだ。あまり気にしない方がいいよ。確かにクリスさんは変わっているけれど、でもこの町では「変わっていない」人の方が少ないんだ。
都会っ子が深入りするには、この町の人間はちょっと重いかもしれないよ。まあ、そういう訳だから、友達になる相手は選んだ方がいい。僕からの忠告だ」
「……君も、変わっているの?」
「そうだよ、僕だって変わり者だ。ポケモンバトルとコーコガクが大好きな、何処にでもいるおかしな子供だよ」
コーコガク、という音の意味をあなたが推し量りかねていると、キョウヘイは浅瀬で遊んでいた一匹のポケモンに「ほら、行くぞ!」と呼びかけました。
砂浜を駆けてきたそのポケモンは、トウヤの連れていたツタージャに似ている気がしましたが、あのポケモンより一回り大きく成長しているように見えました。
これがもしかしたら「進化」なのかもしれません。キョウヘイはクリスと同じように、進化したポケモンと一緒に暮らしているようです。
キョウヘイは12歳、トウヤは14歳です。しかし年下であるキョウヘイのツタージャは進化していて、トウヤのツタージャはツタージャのままです。
子供の年齢と、ポケモンの強さとは、必ずしも比例するものではないのだと、あなたはキョウヘイの背中を見ながら、なんとなく察するに至ったのでした。
残された、栗色の髪をした男の子は、やれやれというように両手を広げてすまし顔で微笑みました。
「キョウヘイはバトル信者、カルムはこの町が嫌い。……まったく、捻くれた友達を持つと苦労するぜ」
「カルムくんはこの町が嫌いなの?こんなに素敵な場所なのに、おかしいね」
あなたが口惜しそうにそう零せば、グリーンは豪快に笑いながら「ありがとな」とお礼を言いました。
2017.8.3