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「ああクリス、丁度いいところに!」

あなたとクリスが小学校へと続く道を歩いていると、その小さな校舎から若い男性が飛び出してくるのが見えました。
クリスはあらあらと微笑みつつ、あなたにそっと「彼がランス先生だよ」と教えてくれました。あなたがつい1時間前に飲んだラムネ、あの贈り主です。
あなたはその男性にラムネのお礼を言おうかどうか迷っていたのですが、あなたよりも先に、彼の方から困り果てた調子の音で、このような言葉が紡がれました。

ミヅキを見ませんでしたか、3日前から家に帰っていないようでして……。つい先程、親御さんから連絡を受けたばかりで、私もこれから探しに行くところなのですが」

あなたはとても驚きました。
行方不明になっている女の子がいる、という事実よりも、その親にあたる人物が、我が子の不在を3日間も見過ごしていたという、そちらにひどく驚いてしまったのでした。
子供が、何の連絡もなしに家を空けているなんて!しかもその子の家族は、3日もの間、何もせずにただ帰りを待っていただけだったなんて!

あなたの両親は「厳格な人」という訳ではなかったのですが、それでも外へ出かけていくあなたに、いつも「6時までには帰ってくるのよ」と告げていました。
その時刻に間に合わないと、あなたは必ず母親に叱られていました。
一度だけ、遊ぶのに夢中になりすぎたせいで、帰宅が夜の8時になってしまったことがありました。
もう2年も前のことでしたが、あなたはそのときのことを、今でも鮮明に思い出すことができます。
あなたの母親は目に涙を溜めながら、あなたをひどく叱りました。その後で、潰されてしまうのではないかと思う程に強くあなたを抱き締め、無事でよかった、と呟いたのでした。

子供の不在は、子供が想定しているよりもずっと、子供を大切に想ってくれる人の心を殺ぎます。
そうしたことを、あなたは子供ながらに察することができていました。心配をかけないようにしよう、門限はちゃんと守ろう、という考えは、ずっとあなたの中にありました。
それ故に、我が子の不在に3日も心を揺らさなかったというその家族と、3日も連絡を絶やしているその子との関係が、どうにも異質であるように思われてならなかったのです。

「まあ、あのミヅキのことですから心配は要らないと思うのですが、何かあってからでは遅いので、できる限りのことをしておこうと思います。
あの子が行きそうな場所に、心当たりはありませんか?」

「うーん、そうですね。2時間くらい前のことですが、アブリーの群れとすれ違いました。彼等は山に向かっていたので、もしかしたらミヅキちゃんもそこにいるのかも。
あの子たちはミヅキちゃんの弾けるような心の揺らぎを気に入っていたので、近くを彼女が通れば確実に反応して、そっちに飛んでいく筈ですよ」

あなたは、あなたとクリスの周りを飛び回っていた、小さな虫ポケモンの群れを思い出しました。
数匹で固まって動いていたそのポケモンは、人の激しい感情の揺らぎに反応して集まってくるのだと、あなたはクリスに教えてもらったばかりでした。
あのときは、あの田舎道にあなたとクリスしかいなかったから、アブリーの群れはあなた達の方へと飛んできましたが、
成る程、たしかにあなたやクリス以上に激しい感情を弾けさせるような少女が近くに居れば、アブリーはそちらを好んで飛んでいくのかもしれません。
彼等が二人から離れたのは、単に二人の「楽しい!」という感情に飽きてしまったからだろうとあなたは推測していたのですが、どうやらそういう訳でもなかったようです。

ランスは「2時間前ですか……」と呟きながら、長い指を持つ白い手を顎に添えて考え込む素振りを見せました。

「もしかしたら、別のところへ行っているかもしれませんね。他に何か気付いたことはありますか?」

「ああ、それなら、離島には戻っていないと思います。あの子とよく遊んでいたポケモン達が、今日は浜辺の方にやって来ていたんです。皆、心配そうな顔をしていましたよ。
いつもやって来るあの子が姿を見せないから、皆もあの子を探すために、こっちの浜辺に顔を出していたんじゃないかしら」

「ありがとうございます、それだけ分かれば随分と探しやすい。……しかし相変わらず貴方は恐ろしい程に周りをよく見ていますね。その勘には、私も随分と助けられているのですが」

クリスの口から淀みなく紡がれる有益な情報はランスを感心させ、また驚かせていましたが、あなたもまた同様に驚いていました。
あなたは今日、ずっとクリスと一緒にいて、クリスと全く同じものをずっと見てきた筈だったのですが、
ただこの、笑顔の素敵なお姉さんと一緒に町を散策できることと、どこを見渡してもポケモンの姿を見つけられることに喜んで、すっかり舞い上がってしまっていて、
彼女が注目していた「アブリーの行き先」や「浜辺にいるポケモンが探している人物」のことなど、まるで気に留めていなかったからです。

……いえ、たとえ気に留めようとしていたとしても、あなただけではアブリーの生態や、ポケモンの表情の違いなど、きっと知ることができないままだったでしょう。
クリスはそのニコニコとした柔和な笑顔の奥の目で、その実、とてもいろんなことを鋭く見ようとしているようでした。
そして彼女はそうした鋭い目を、何もかもを見通しているかのような目を、上手く「隠そう」として、「誤魔化そう」として、「おかしくないようにしよう」として、

『気持ち悪いことを言いすぎて、また一人になってもオレは同情なんかしないからね。』
『しかし相変わらず貴方は恐ろしい程に周りをよく見ていますね。その勘には、私も随分と助けられているのですが。』

けれども上手くいかずに、他の人から「気持ち悪い」「恐ろしい」と、思われてしまっているのかもしれないと、そんな風にも思われました。

あなたは腕の中のタマゴに視線を落としました。
このタマゴの姿だけで、「イーブイが生まれてくる」ということなど、もしかしたら普通の人は知り得ないことであったのかもしれません。
ポケモンと人が共に暮らしているこの町においても、ポケモンのことを知り過ぎているクリスという人物は、キョウヘイの言うように「変わっている」のかもしれません。

けれどもそれは、彼女が「変わっている」ということは、あなたが彼女を嫌う理由にはなりませんでした。なりようがなかったのです。
彼女が「変わっている」おかげで、あなたは大好きなポケモンのことを、こんなにも詳しく知ることができていたからです。
このタマゴからイーブイが生まれてくることも、すれ違うポケモン達の名前も、アブリーのことも、全て、彼女が教えてくれたことであったからです。

「ところで、その子は?見ない顔ですが、貴方の知り合いですか?」

「マスターの親戚の子です。8月の間、この町で暮らすことになっているんですよ」

新しい人に会う度に、あなたはその自己紹介をしていたのですが、繰り返されるその言葉に、そろそろ辟易し始めていた頃でした。
そんなあなたの心を読んだかのように、クリスはあなたの代わりにあなたの紹介をしてくれました。
あなたが「セラといいます」と名乗れば、ランスは驚いたように「ほう、あのマスターに親戚がいたとは」と、これまであなたが出会ってきた皆と同じような驚きを見せました。

「私はランス。この小学校で教師をしています。今は5年と6年の担任をしていて、先程話していたミヅキというのも、私が受け持っている生徒です。
もし夏休みの宿題がまだ片付いていないようなら、私のところへ持ってきても構いませんよ。この町で最も冷酷な男と呼ばれる私が、厳しく勉強を教えて差し上げましょう」

「冷酷……?冷たいってことですか?確かに先生がヒビキに差し入れていたっていうあのラムネは、とても冷たくて美味しかったですよ」

あなたがそう告げると、ランスは驚いたように目を見開き、やがて肩を大きく震わせながら声を上げて笑い始めました。
それは「冷酷」などとは程遠い、とても明るく、陽気で、楽しい、優しそうな笑い方だったのです。

「はは、そうでしたか!あの子達と一緒に飲んだのですね。少し多めに持っていったのは正解だったようだ。是非、ヒビキやコトネやシルバーとも仲良くしてやってください。
特にヒビキは体が弱く、あまり外に遊びに出ることができないので、貴方の方から彼の家に遊びに行けばとても喜んでくれると思いますよ。……では、失礼」

彼はあなたとクリスに小さくお辞儀をしてから、軽快な足取りで立ち去りました。
少し遅れて、あなたとクリスの間を、紫色の、大きなコウモリのようなポケモンがすっと通り過ぎていきました。

「思わぬところでランス先生に出会っちゃったね。どう?楽しい人でしょう?」

「うん!でもどうしてランス先生は「冷酷」なんて呼ばれているの?」

「ランス先生がそう言っているだけよ。「この町で最も冷酷と呼ばれた男」って、口にするのが大好きなの。だから子供達は彼のことを「冷酷先生」って呼んでいるわ。
セラちゃんもそう呼んであげて。きっととても機嫌を良くして、何か美味しいお菓子をくれると思うわ」

あなたはクスクスと笑いながら「全然、冷酷じゃないね!」と告げました。
クリスも大きく頷きながら「でも冷酷先生の前では、絶対にそれ、言っちゃ駄目だよ」と、顔をぐいと寄せて、囁くようにそう忠告してくれたのでした。

「あ!セラちゃんとクリスさんだ!」

そんな二人に、声が掛けられました。
校庭の、大きなジャングルジムのあるところで、7人の子供達がポケモンと一緒に遊んでいたのです。
その中には、昨日知り合ったヒカリとコウキの姿もありました。見知った顔にあなたは嬉しくなって、思わず手を振って、駆け出しました。
あなたの背後で、クリスが「あらあら」と微笑みながら、歩幅を大きくしてあなたを追いかける気配がしました。

2017.8.4

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