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「折角だから、メガニウムに乗っていく?」

クリスは楽しそうにそう告げて、メガニウムの背中にひょいと飛び乗ってから、あなたの方へと手を伸べてきました。
生き物の上に乗るなんて、初めてのことです。しかもそれが夢にまで見たポケモンの背中なのですから、あなたが躊躇う理由など何処にもありませんでした。
その手を握れば、彼女は強い力であなたを引っ張り上げてくれました。メガニウムの首元に咲いた大きな花からは、不思議な甘い香りがしました。
背中はまるでやわらかな芝生のような触り心地で、あなたは思わずその気持ちよさに目を細めました。クリスはそんなあなたの様子を嬉しそうに眺めていました。

クリスが指示を出さずとも、メガニウムは行き先を分かっているらしく、あなたがマスターと一緒に来た道を、確かな足取りで戻っていきました。
その背中に乗っていたあなたは、随分と高い視界から眺める更紗町の風景を、一秒たりとも見逃すまいと、目を大きく見開いて、瞬きすら惜しいといった風に見つめていました。

「そんなに必死にならなくたっていいのよ。貴方が望むならいつだって乗せてあげる。メガニウムもこうして人を乗せてお散歩するのが大好きだから、きっと喜んでくれるわ」

「いいの?ありがとう!とっても嬉しい!」

夢のような申し出に、あなたは上擦った大声でそう告げました。
メガニウムはその長い首をぐるりと曲げてあなたの方へと振り向くと、その鼻先をあなたの方へとすり寄せてきました。
その仕草はあなたに、この町に来るまでの電車にいた、赤い帽子の男の子のことを思い出させました。
今のメガニウムの動きは、あのピカチュウが彼に甘えるようにしていたあの仕草にそっくりでした。

もしかしたら私は、このポケモンに甘えられているのかもしれない。私はこのポケモンに、親しみを持ってもらえているのかもしれない。
そうした推測をして、あなたはぱっと顔を赤くしました。別に恥ずかしいことではなかった筈なのですが、きっと嬉しすぎたせいでしょう。
どうやら人の頬は羞恥にだけではなく、歓喜にも赤く染まるようです。あなたはポケモンの町であるこの土地で、ポケモンのことだけでなく、人のことも知り始めていました。

カフェの前に到着したメガニウムは、首をアスファルトへと垂れました。
滑り降りていいよ、というクリスの囁きに、あなたは躊躇いながらもその首にまたがってするりと滑り降りました。
公園によくある滑り台に比べれば、それはずっと短い「滑り」でしかなかったのですが、あなたの心臓は徒競走の後のようにあまりにも激しく弾んでいました。
けれどそんな、あなたにとっての初体験は、きっとクリスにとっては日常的に繰り返されてきた所作の一部でしかなかったのでしょう。
あなたの後から滑り降りてきた彼女の頬は、赤くも何ともなっていませんでした。
ポケモンと共に在ること、ポケモンと一緒に暮らすことに、慣れ過ぎた人間の、あまりにも穏やかで静かな笑顔が、夏の眩しい空の下に佇むばかりでした。

「マスター!セラちゃんが帰ってきたよ!」

「ただいま!」

あなたが大きな声で帰宅を告げると、キッチンの奥からエプロン姿のお姉ちゃんが顔を出しました。
おかえりなさい、と微笑んでくれた彼女の手には、オムレツの盛られた皿がありました。どうやら朝食は、既に用意してくれていたようです。

「今日の朝ご飯は洋食なのね。いいなあセラちゃん、こんなにも美味しいご飯を毎日、食べられるなんて」

「あら、そんなことを言ってくれるなんて嬉しいなあ。それじゃあ今日は特別に、クリスの分も作ってあげる。食べていきなよ、私の奢りにしておくから」

「え、いいの?ありがとう!それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」

まるで小さな子供のような喜び方をしたクリスは、勝手知ったる我が家であるかのように、靴を脱いで、カフェの奥にある居住スペースへずかずかと入っていきました。
あなたが少しばかり混乱していると、クリスが扉の向こうで手招きをしていたので、あなたは慌てて彼女に付いていきました。
洗面所に置かれていた緑色の石鹸を手に付けて、泡立てていたクリスに、あなたは感じたことをそのまま伝えてみることにしました。

クリスさん、まるでこの家の人みたいに勝手に上がっていくから、びっくりしちゃった」

「え?……ああ、そっか、そうだよね。普通は、こんなことしちゃいけないんだよね。
でも、この町では割と普通にあることなんだよ。皆が知り合いで、親戚で、家族みたいなものだから、平気で他人の家にも入っていくの。鍵なんて、皆、掛けていないから」

鍵を掛けないなんて、なんて物騒なのでしょう!
都会では考えられないような、防犯意識の低さにあなたはくらくらと眩暈を覚えました。

「そうなの?泥棒に入られたりしない?」

「泥棒なんていないよ。この町にいる人は皆、お金に困っていないから」

……お金に困っていない?あなたはその言葉にも驚かざるを得ませんでした。
都会では、お金がなければ何もできません。バスに乗るにも、電車に乗るにも、お菓子を買うのにも、お金が必要です。
あなたのお父さんも、お金を稼ぐために頑張って働いています。お母さんは熱心に「家計簿」というものを付けていて、無駄な出費がないか毎月、しっかりと確認しています。
もしあなたの家に泥棒が入られてしまったら、家のお金を全て盗られてしまったら、きっとあなたの生活は立ちいかなくなるでしょう。
だから、家には鍵を掛けなければいけないのです。あなたが、あなた達が生きていくために、それは必須のことである筈でした。少なくともあなたはそう教えられて、育ちました。

けれどもこの町の住人には、そうした危機意識が全くないようでした。
泥棒などいない。そもそも泥棒をしなければいけない程、お金に困っている人間などこの町にはいない。だから大丈夫だと、そう告げてクリスは笑います。
あなたには信じられないようなことでしたが、本当に「泥棒」などという物騒な存在がこの町には一人もいないのであれば、それはとても素晴らしいことだと思いました。

朝食は先程あなたが見かけたオムレツと、厚切りトースト、それにレタスとトマトのサラダでした。
お姉ちゃんとクリスはアイスコーヒーをブラックで飲み、あなたはコーヒー牛乳を飲みました。
まだコーヒーをブラックで飲むことができないあなたでしたが、これなら美味しく飲むことができました。
オムレツの卵は、まるでカフェで食べるそれのようにふわふわでした。
けれども此処は他でもない「カフェ」であり、お姉ちゃんはそのマスターを務めているのですから、その食事がとても美味しいのは、当然のことであったのかもしれません。

「うん、美味しい!やっぱり私、このカフェのご飯、好きだなあ」

けれどそんな「当然」の事実を、あなただけでなくクリスも噛み締めるようにして笑っていましたから、あなたの感動もあながち間違いではなかったのでしょう。

朝食を食べ終えたあなたのお皿を、お姉ちゃんはさっと取り上げました。
昨日のように、お皿洗いを手伝おうとしていただけに、その食器を奪い取るかのような、あなたの「お仕事」を否定するかのような行動にあなたは少しばかり驚きましたが、
彼女は得意気に微笑んで、素敵な提案をあなたにしてくれました。

「お手伝いは夕食の時だけでいいわ。折角、この町に来たんだもの。日の出ているうちは外でいっぱい遊んでいらっしゃい。帽子を忘れずにね」

「うん、そうする!ありがとう!」

元気よくそう告げて立ち上がったあなたに、彼女はポケットから小さな、お年玉を入れるような小さな封筒を取り出して、あなたの手に握らせてくれました。
あなたがその財布を開くと、中には千円札が2枚、入っていました。

「朝食と夕食は私が作るけれど、お昼はあなたが好きな場所で、好きなように食べていいよ。遠くへ遊びに出掛けていたら、わざわざお昼ご飯のために戻って来るのも大変でしょう?
一週間に一度、2000円だけ渡すから、それでお菓子とか、お昼ご飯とか、好きなものを買うといいよ」

「え、でもこんなに……貰ってもいいの?」

「ええ、どうぞ!もう小学6年生だもの、ちゃんと計画的に使えるよね。
この町には少ないけれどお店もあるし、お友達ができたらその家で一緒にご飯を食べさせてくれるかもしれないし、お店の残りものでよければ此処で食べていってもいいわ。
もっと豪華な食事が食べたければ、お客さんとしてこのカフェに来てもいいのよ?……その代わり、料金はしっかり頂きますけどね」

悪戯っ子のような目の細め方をして、彼女はそう告げました。
あなたは月に一度、「お小遣い」として、両親からそこそこの額を貰っていましたが、流石にここまで多くはありませんでした。
けれど、昼食を自分で調達しなければならないことを考えると、多すぎる、ということはない額であったのかもしれません。
いずれにせよ、あなたはこのお金を大事に使おうと思いました。何か、どうしても欲しいものが出来たときのために、使わずに取っておくのもいいかもしれない、とも考えました。

「さあ、子供は外で遊んでいらっしゃい!クリス、貴方はどうするの?」

「そのことなんだけど、セラちゃん。よければ今日、私と一緒に町を散策しない?この町のこと、住んでいる人のこと、ポケモンのこと、色々教えてあげられると思うの」

あなたはぱっと笑顔になって、大きく頷きました。
朝のラジオ体操の場で、何人か知り合いができたといっても、あなたはまだこの町のこと、住人のこと、ポケモンのことを殆ど知りませんでした。
その全てをこの優しい人に教えてもらえるのなら、それはとても素敵なことだと思いました。

「でも、クリスさんは何か用事があったりしないの?私が一日中一緒にいて、邪魔じゃない?」

「うん、大丈夫よ、気にしないで!私の用事は明日でも明後日でも、1年先でもできることだから。それよりも私はセラちゃんに、この町のこと、好きになってもらいたいから」

そう告げて、彼女はすっと目を細めました。
この少女は、無邪気な子供のような笑顔を湛えるときもあれば、聖母のように慈悲深い眼差しをするときもありました。
高校3年生であると言っていましたが、そんな年齢よりも彼女はずっと幼いように見えました。そんな数字よりも彼女はずっと大人びているように思われました。

そんな不思議な少女、クリスに手を引かれ、あなたは今日一日かけて更紗町を歩き尽くすことになりました。
あなたの腕には勿論、あのタマゴが抱えられています。

2017.8.2

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