ホグワーツ特急に乗って、最寄りの駅にやって来た新入生は、湖のラプラスに乗ってホグワーツへとやって来る。
1匹のラプラスに4人から5人の生徒が乗る。彼等は一様にはしゃいでおり、遠くに見えるらしいホグワーツの明かりにわっと歓声を上げるのだ。
ラプラスが1匹、また1匹と湖を渡り終えてくる。子供達は我先にとホグワーツへの道を駆ける。
同じ空色の髪を持つ女の子と男の子が、仲良く手を結んで同時にラプラスの背中から飛び降りる。女の子がくいと手を引けば、男の子も決して離すことなくその後に続く。
プラターヌはそうした彼等の姿を、職員室の窓からフラダリと共に眺めていた。
旧友の手にはエスプレッソが、プラターヌの手にはカプチーノが収まっている。二人は少しずつ息を吹きかけて冷やしながら飲み干していく。
フラダリはその度に目を伏せるが、プラターヌの目は窓から決して逸らさせることはなかった。
彼が「誰」を探しているのかを、解っていたからフラダリは何も言わずに沈黙を貫いた。
「おい、お前がプラターヌだな?」
けれど、その沈黙を破いたのは、少年の姿をしたゴーストであった。
プラターヌが慌てたように「え、ああそうだよ、どうしたんだい?」と尋ね返せば、その癖のある前髪をした少年は、その隻眼を楽しそうに細めて、微笑みながら告げた。
「Cからの伝言だ。ラプラスに乗り遅れた新入生がいる。Cの呼びかけに悲鳴を上げて逃げ回っているらしい。
湖を渡れるポケモンなら何でもいいから、とにかく1匹連れてきてほしい、とのことだ。あと、泣いている生徒のフォローを入れてほしい、とも言っていたな」
「あらら、それは大変だね。それじゃあリザードンを連れて行くよ。まだその子は駅の方にいるんだね?」
ああ、と頷いた少年の前で、プラターヌは慌てて白衣を羽織った。襟を整え、リザードンの入ったボールをポケットに仕舞いながら、思わず笑ってしまった。
ホグワーツに来なければまず見ることの叶わない「ゴースト」という存在に怯えるのはもっともなことだが、
そうした存在とたった一人で対峙しなければならなくなってしまったのは、間違いなくその子の「遅刻」という自業自得である。
この大事な日に、ラプラスに乗り遅れる程の遅刻をするなんて、その子は随分と時間にルーズらしい。
……そういえば「彼女」も、指定した時刻に必ず数分だけ遅れてくるようなところがあった。
「ねえ、その子ってもしかして、」
プラターヌが振り返ったとき、既にその少年は姿を消していた。
フラダリはすかさずポケットから小さな鏡を取り出して、プラターヌの姿をそこへと映しつつ「もう少し、髪を整えていくか?」とからかうように、告げた。
彼はその鏡をぐいと押し戻して首を振った。
どうせ此処で髪など整えたところで、リザードンに乗って湖の上空を駆けている間にまたすっかり乱れてしまうだろうし、
……それに、泣いているあの子にこちらの髪型など見る余裕などないだろうと確信していたからだ。
中庭へとリザードンの入ったボールを投げた。その赤い背中に飛び乗って、プラターヌはホグワーツの屋根と屋根の隙間から夜の涼しい空へと躍り出た。
ホグワーツの駅へ、と告げれば、リザードンは大きく咆哮して湖を一気に滑空した。
夕闇の中では、リザードンの尻尾の炎はとてもよく目立つ。湖をものすごいスピードで駆け抜ける赤い炎を見つけた子供達から、わっと歓声が上がった。
注目されたことに気をよくしたのか、リザードンはぐいと速度を増した。
ホグワーツの駅はもうすっかり静まり返っており、人影を見つけるのはあまりにも簡単であった。
ホームの隅っこで、何もかもを恐れるように膝を折って蹲っている子供がいた。
黒いローブを頭まですっぽりと被っていた。僅かに覗いた素足から、その子がズボンではなくスカートを履いていることが解り、女の子だ、とプラターヌは確信した。
「先生!」と少し離れたところで手を振るゴーストの友人、Cに駆け寄れば、彼女はこの上なく安心したようにほっと息を吐いた。華奢な肩がすとん、と落ちた。
「よかった。Gくん、ちゃんと貴方を呼んでくれたんですね」
あの隻眼の少年は「G」と呼ばれているらしい。プラターヌはまた一つゴーストの事情を知る。
……そうした事情を理解しながら、困ったようにCへと目を向ければ、彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「この子ですよ」とは言わない。「やっと会えましたね」とも告げない。それでも24年来の友人の笑顔の意味するところなど、プラターヌにはとてもよく解っている。
彼はいよいよ緊張してしまって、声が思うように出てきてくれなくて、
「……怖がらなくても大丈夫だよ。君を迎えに来たんだ」
それでもやっとのことでその子の前へと膝を折り、たったそれだけを紡ぎ終えるや否や、彼女は顔を恐る恐るといった様子で、上げた。
それと同時に、黒いフードがふわりと脱げて、トランセルがその殻を棄てるように、その「羽」が中から、零れ出た。
それはいつかの光景に、あまりにもよく似ていたのだった。
長いストロベリーブロンドが華奢な肩をすっぽりと覆い隠していた。泣き腫らしたライトグレーの瞳は、夕日を映しているかのように赤くなっていた。
すっと伸びた鼻も、少し尖った顎も、掴めば折れてしまいそうに細い喉も、全て、全て、彼の覚えていたままの形でそこに、彼女の中にあった。
此処にいる。彼女がいる。
「はじめまして」
「君を待っていたよ」とは言わない。「12年ぶりだね」などとは口が裂けても言えない。
彼女と会うのは初めてだ。プラターヌは彼女を知らない。彼女もプラターヌを知らない。だからこの言葉が正しい。これでいい。
「ボクは、」
けれどその少女は指を伸べて、プラターヌの手を、くいと頼りない力で掴んだ。
「あ、ごめんなさい!私……」
息を飲むプラターヌの眼前、記憶にあるよりずっと高いソプラノが、記憶にあるよりもずっと大きな震えで発せられた。
記憶の中の彼女は「1年生」を名乗っていた。今、目の前で聞き慣れた謝罪の文句を紡ぐ彼女もまた、1年生だった。
けれど「生前の記憶」を有さない、本当の「1年生」であり「12歳」である存在を極めたその声はより小さく、より細く、より臆病であった。
それでも、彼女だった。他の誰が断言できずとも、プラターヌだけはそう確信していた。
だからプラターヌは、彼女がぱっと離した手を、逆にこちらから伸べて強く掴まずにはいられなかったのだ。
「……」
プラターヌは何も言えなかった。少女も何も言わなかった。ゴーストであるCはそれを見て「あーあ、先生、狡いなあ」と、楽しそうに泣きそうに笑うのみであった。
けれどやがてCは自らの杖からロトムを取り出して、まるで「悲しくない」と自身に言い聞かせるかのようにその最愛のパートナーを腕に抱いてから、
もう一度だけ、彼女の方へと舞い降りてきて、祈るように微笑んでみせた。
ひっと息を飲む彼女に「大丈夫だよ」と告げて手を握り直せば、もう彼女は悲鳴を上げたりはしなかった。
「この先生は貴方を迎えに来たのよ。貴方をずっと待っていたの。私は先に行っているから、貴方も来てね、きっとよ」
たったそれだけを告げてふわふわと、ロトムを連れて湖の上を滑るように駆けていった。
半透明の影はあっという間に湖の霧に溶けてしまった。ロトムの淡い光も少し遅れて見えなくなった。
後には静かな駅で膝を折るプラターヌと、嗚咽を零しながら膝を抱える少女だけが残された。
『貴方をずっと待っていたの。』
プラターヌが言えなかった、言ってはいけないとばかり思っていたその言葉を、あのゴーストは息をするように紡いでみせた。
彼が12年間で培ってきた「勇気」など、ゴーストが積み重ねてきた100年以上の歳月の前には、悉く無力であったのかもしれなかった。
「ボクはプラターヌ。ホグワーツの教師だ。飼育学を教えていてね。……これでもベテランなんだよ」
君を待っていた。ずっと待っていた。君といたかった。君と生きたかった。
「飼育学の授業は3年生になってから始まるから、君と教室で出会うことはないけれど、飼育エリアは休日の間、ずっと開放しているんだ。よければ、遊びにおいで。
ポケモンは人と同じくらい優しくて、けれど同じくらい残酷なところもある生き物だから、人と同じように、誠意をもって接さなければいけないんだ。同じ、命だからね」
「……」
「さっきの白い子はゴーストと呼ばれていてね、ホグワーツのいたるところにいるんだ。
質の悪いゴーストも中にはいるのだけれど、彼女は悪霊の類ではないから、人生の大先輩として、仲良くしてみると楽しいかもしれないよ。今度、改めて君にも彼女を紹介したいな」
立てるかい、と目配せをする。少女は大きく頷いて立ち上がり、ローブの裾を何度も拭う。
その間も、互いの手は離されない。不思議なことに、プラターヌの方からも少女の方からも、その手は緩められない。
「ごめんね、ボクの手は冷たいだろう?」
君の手は、本当はこんなにも温かかったんだね。
そうした感慨を込めて謝罪の言葉を紡げば、少女は僅かに首を振って、今度は「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」と、またしても懐かしい音を紡いで泣いた。
それから「あの、私……」と消え入りそうな声音を紡ぐので、彼はしばらく沈黙を守り、彼女の言葉を待った。
12年待ったのだ。目の前で生まれる沈黙の時間など、もどかしいうちに入らなかった。
「私の名前はシェリーです」
今年も、夜顔が咲く。
2017.3.31
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