19

少女が泣いていた。これが2回目であったから、プラターヌはもう驚かなかった。けれど顔を上げた彼女の方が、プラターヌを見てひどく驚いていた。
何故なら今、この場において、みっともなく泣き腫らした目をしていたのは彼女だけではなかったからである。
「プラターヌ先生も泣くことがあるんですね」と、Cはどこか楽しそうに笑う。笑いながらもやはり涙は止まらず、いつかのようにプラターヌの鼻先へと落ちて、消える。

「友達がいなくなったんです。私よりも長く、このホグワーツにいた人でした」

予想していた言葉がそのまま、プラターヌの上空を漂うCの口から零れ出た。
友達、という存在がゴーストであることを心得ているプラターヌは、「悲しいね」ではなく「寂しいね」と紡いで頷いた。
彼女はその共感を喜ぶように、眉を柔らかく下げて笑うのだ。

「そうですね、寂しい。それにとても驚いています。彼女はいなくなったりしないと思っていたから。ずっと此処にいることを選ぶのだと、私が勝手に思い込んでしまっていたから」

分かる。プラターヌには彼女の「寂しい」がとてもよく分かってしまう。
何故なら彼も昨日、その別れを経験したばかりであったからだ。彼もまた、長く知り合っていたゴーストを失ったばかりであったからだ。
自らの目の前で「シェリー」の呪文を唱え、命を希いながら消えていった彼女の姿が、彼の目蓋の裏にはまだくっきりと残っていた。

『私達の世界は、貴方が思っているよりずっと悲しいところなんです。命を持ったままの貴方が易々と踏み入っていいところではないんですよ。』
つい先日の彼女の言葉を思い出しながら、プラターヌはどうしたものかと少しだけ迷った。けれど今なら、尋ねてもいいのではないかと思ってしまった。
もうきっと「彼女」は、Cと同じ世界には生きていない。故に彼女のことを尋ねたところで、Cの世界を踏み荒らすことにはきっとならない。

「偶然だね。ボクも昨日、知り合いとお別れをしたんだ。シェリーというのだけれど」

彼女はその目をぱっと見開いた。半透明の薄ら白い姿しか保たない彼女の、その瞳の色は果たして何色だったのだろう。
解らない。このホグワーツには無色半透明のゴーストしかいない。命を持たない者に質量と色を持たせることができるゴーストは、先日、Cが口にした「K」を置いて他にいない。
故に半透明の姿を取るしかないこのゴーストは、質量を持たないCは、けれど呆気に取られたように「……どうして、その名前を、」と零した。
その凛としたメゾソプラノはきっと、生前の頃からずっとそうだったのだろうと思えたのだ。

「ボクの目の前で彼女は消えたんだ。彼女はボクに名前を告げるなり、消えてしまった。君の言っていたことは本当だった」

「そんな……」

「彼女は消えた。ボクが消してしまった。……本当に、ごめん」

何故、彼女がプラターヌに名前を明かしたのか、彼はこの友人に上手く説明することができなかった。
彼はこれまで幾度となく彼女の名前を呼んでいたけれど、彼女の方から自己紹介をした訳ではなかった。
シェリー」という名前も、プラターヌが彼女のローブを見て知ったものであり、彼女自身はそれを一度も口にしていなかったのだ。

そして彼女は役目を終えて、プラターヌの記憶から「シェリー」を消した。そうして彼女はまた別の人に、勇気を与えていく筈であった。
今日も何処かで彼女は誰かを勇敢にしている。今日も何処かで彼女は誰かに忘れ去られている。彼女はそうしたゴーストであり、それはこれからも続いていく筈であった。
にもかかわらず、彼女はプラターヌに自分の名前と姿を示して、ゴーストで在ることをやめてしまった。
何故?何のために?彼には何もかもが分からなかった。
けれどCには、彼女と同じ半透明の身体を持つこのゴーストには解っているようで、しばらくの沈黙を置いてから、彼女は涙を乱暴に拭い、努めて明るく笑ったのだ。

「プラターヌ先生、貴方は少し勘違いをしていますね」

「勘違い?」

首を捻るプラターヌの前に、Cはふわりと下りてきた。浮かぶことをやめて、床に足を着けるふりをして、まるで生きている人間であるかのように彼の隣に並んだ。
いつも宙を浮かんでばかりであった彼女は、プラターヌが見上げるばかりであった筈の彼女が、プラターヌと同じ床へと靴底をつけている。
それにより、プラターヌは初めて彼女を見下ろすに至ったのだ。見下ろして初めて、この11年来の友人が、どれだけ小さな存在であるかということを知ったのだ。
「彼女」よりも低い背、「彼女」よりも短い髪、「彼女」よりも華奢な肩、「彼女」よりも幼い顔。全てがどうしようもなく小さかった。若すぎた。
「話します」と告げた彼女の大きな瞳は、果たして何色だったのだろう。ライトグレーだろうか、ブラウンだろうか、アイスブルーだろうか、ヘーゼルだろうか、それとも。

「貴方に話せることを全部、話します。あの子が言えなかったこと、本当は言いたかったであろうことを全部、あの子の代わりに伝えます」

Cを連れて、禁じられた森へと向かった。
フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメが競うように駆けていく中、少女は懐から少し長めの杖を取り出して、守護霊の呪文を唱えた。
現れたロトムはまるで生きているかのように、クスクスと静電気を散らしながら三匹を追いかける。少女はその後ろ姿を見送りながら「私の生前のパートナーです」と、語る。

守護霊は、唱え手の幸福な記憶に関連したポケモンの形を取る。
生者においてそのポケモンが自分のパートナーの形を取ることは在り得ない。生きているうちは、たった一人で幸福な記憶など作りようもない。
けれど死者において、その守護霊は必ずパートナーの形を取る。他のポケモンへと変わることはまずない。死者の世界は広がることなく個々に閉じている。そういうものである。

「私がゴーストとしてこのホグワーツに来たとき、既にシェリーはいました。なので私は生前の彼女を見たことがありません。命を持たない彼女の姿しか、知りません。
とても静かな子でした。よく泣く子でした。人やポケモンをとても恐れていました。平穏が約束されている死者の世界に在っても尚、彼女は臆病で怖がりで、泣き虫でした」

この社交的に見える少女もその実、きっと世界を悉く閉ざして生きているのだろう。いや、恣意的に閉ざしているのではなく、自然と、閉じてしまうものなのだろう。
命のない存在に変化は訪れない。故に多くの死者が、生前からずっと変わることのない最愛のパートナーを守護霊として繰り出す。
変わらない相手、変わらなかった存在である方が、変化を忘れた死者の魂には居心地が良いのである。

「彼女のパートナーであったラルトスは、彼女を置いて先に死にました」

プラターヌは思わず声を上げた。
目蓋の裏で彼女が泣いていた。小さなラルトスを抱きかかえて、ぽろぽろと涙を落としていた。夜顔がその全てを海のように受け止めて、月のように煌めいていた。

「ラルトスを追うようにして、彼女は自ら命を絶ちました。もう彼女も大人になっていたようですが、それでも若すぎる死でした。もっと、長く生きていてもいい筈でした」

『……私が成長できないままでいたら、この子も進化できないまま、死んでしまうんでしょう?私を置いて、私より先に……。』
なんと気の遠くなるような懸念だろうと、プラターヌはあの時、半ば呆れさえしていた。
何十年も先の別離に恐怖する彼女が、その閉じ過ぎた世界がどうにも悲しかった。恐ろしかった。
けれど彼女は既に、最愛のパートナーとの別離を経験していた。置いて行かれたこと、一人になってしまったこと、それらに耐えられなくなって命を絶ったのだ。

『でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ。』
唯一無二のパートナーを抱きかかえながら、それでも彼女はあのラルトスを疑っていた。
「私を置いて行ったこの子はなんて残酷なのだろう」と、憤りさえしていたのかもしれない。
彼女がポケモンを指して「残酷」だと言ったのは、そういう過去があってのことだったのだ。あの惨たらしい形容は、腕の中のラルトスただ一匹に向けられていたのだ。

『ボクは、こちらの世界でトレーナーと共に在ろうとすることも、向こうの世界でトレーナーを迎えようとすることも、等しく尊い絆の形だと思っている。』
プラターヌが為した命の授業は、彼女のそうした、パートナーへの鬱屈した感情を取り払うことができていたのだろうか。
彼女は唯一無二のパートナーであるラルトスを、愛することができるようになったのだろうか。

「生前の彼女は、彼女とラルトスだけの小さな世界で生きていたようです。ラルトスの死によって、彼女は自らの世界の半分を持っていかれてしまいました。
……あの子に、一人で生き続けるだけの力はなかったのでしょう」

「……」

「生きるとはなんて恐ろしいことだろう。命とはなんて残酷なものだろう。だから私はずっと此処がいい。死んだままがいい。命なんかもう要らない。
……彼女は口癖のようにそう言っていました。こちらの世界を静かに楽しんでいました。生前には手に入れられなかった「変わらない」という平穏を、彼女は誰よりも愛していました」

時が流れるということ。その流れに押し流されるということ。命があるということ。変わらないものなど何もないということ。
彼女はその全てを恐れていた。そんな彼女にとって死後の世界は楽園であり、ゴーストで在れることというのは祝福そのものであった。
故に彼女はいつまでも、半透明の姿のまま、このホグワーツに留まっていてもおかしくない筈であった。

シェリーはゴーストになることでようやく、生きることを思い出すことが叶っていたのだと思います。……おかしいですか?命を持たない私達のような存在が「生きる」なんて」

プラターヌは笑いながら「まさか」と首を振った。
くすんだ色の芝生を歩くふりをしている彼女は、クスクスと半透明の肩を震わせながら「ありがとう」と歌った。


2017.3.24

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