クリスマスの空気に生徒達が浮足立ち始めた12月の半ば、晴れの日が続いたおかげで、魔法界の雪は粗方溶けてしまっていた。
勿論、冬はまだこれからが本番であるため、雪が溶けたところでそこから若葉が顔を出したりはしない。
あるのは葉を殺ぎ取られた茶色い枝と、霜によりひび割れてしまった地面ばかりであった。
「命がない」とは、そういうことなのだ。命のない冬という季節に色がないのは当然のことだ。
『どうして命が美しくて、優しくて、呆気なくて、残酷なのか、分かったんです。先生が教えてくれたんです。だから私、もう怖くありません。』
色のない季節の中に、何色であったかを忘れてしまった「彼女」を溶かすことは至極簡単なことであった。
彼女の姿を思い出すことが叶わなかったから、プラターヌは彼女を花に見立てていた。
月のような海のような、白い花だ。名前は知らないがそうした花は確かにあるのだ。植物に堪能な訳ではなかったが、彼はその花の存在を頑なに信じていたのだった。
命がない限り、この冬という季節は何の変化も運んでこない。
けれどプラターヌは生きている。プラターヌには命がある。故に彼は変わり続けている。
11年前の彼と、3か月前の彼と、今の彼は、同じ姿をしてはいない。彼は同じところに留まることなどできない。
けれど変わり続けている彼は、変わることが当然のことであると知り過ぎている彼には、しかし3か月前から変わらず続けている奇妙な習慣があった。
生徒や教師が大広間で食事をする夕方の6時頃に、彼はその空間をそっと抜け出し、ホグワーツから少し離れたところにある、禁じられた森へと向かうのだった。
「ほら、出ておいで!」
フシギダネ、ゼニガメ、ヒトカゲの入ったボールを宙に投げる。どの子も陽気で快活な、自慢のポケモン達だ。
彼等は夕闇の中にぽんと躍り出て、競うように森へと駆けていく。長くプラターヌと共に在るこの三匹は、彼が今から向かおうとしている場所をとてもよく理解している。
彼等は「彼女」がもう既にあの森にいないことを解っている。プラターヌも解っている。それでも彼は毎日のように足を運んだ。雪を踏むくぐもった音はただ侘しかった。
『愛すると、長く生きたいと思えるようになるんですか?』
『愛すると、先に死にたいと思えるようになるんですか?』
あれは、生きることの叶わなかった魂の言葉なのだ。命を持たない少女の言葉だったのだ。
そうしたことを思い出しながらプラターヌは冬の芝生を蹴る。長い白衣に足を取られないように気を付けながら、軽快に走る。彼は走り慣れていた。
『貴方が元気になってよかった。』
彼女はプラターヌが勇気を手にしたことを祝福するように、姿を消した。
彼がホグワーツの教師として堂々と振る舞えるようになったから、彼女は自らの役目を終えたと思い、彼から記憶を奪った。
『そうした、命のないところに戻るだけなんです。今までずっとそうだったんです。だから、大丈夫。』
恨むつもりは更々ない。命を持つ者と命を持たない者は元々、相容れないものなのだ。互いが互いの,在るべき場所に戻っただけのことだ。
だから悲しくはない。恨みを連ねるつもりもない。ただ、寂しかった。
『君と、生きたかったなあ。』
もう「君」と呼ぶことしか許されない相手を、月のように海のように思い描く。禁じられた森の入り口はすぐそこまで来ている。
何故、君はボクから全ての記憶を奪わなかったんだい?君と過ごした時間も、君と交わした言葉も、君と歩いた場所も、全部、全部、忘れさせてしまえばよかったのではないのかい?
何故、君はゴーストの姿でボクのところに現れなかったんだい?どんな手段を使ったのか解らないけれど、そうまでして命がないことを隠さずともよかったのではないのかい?
何故、君はボクに名前を呼ばせてくれたんだい?君の存在に関わる大事な音だったのだろう?ゴーストが本名を知らせることは禁じられていたのだろう?
「君と、生きたかったなあ」
怖がりな少女だった。泣き虫な少女だった。彼女の消え方はポケモンのそれよりもずっと優しく、残酷なものだった。
彼女は月のような人だった。彼女は海のような人だった。彼女によく似た花は何という名前だった?
そこまで思いを巡らせて、プラターヌは息を飲んだ。花が咲いていたからだ。
長く降り続いていた雪が溶けたところで、まだ冬はこれから厳しくなるばかりであるのだから、新しい命が芽吹くことなど在り得ない筈だ。
冬に咲く花だってあるだろう。そういうものなのだろう。そう思おうとした。けれどできなかった。何故ならその、月のような海のような花に、プラターヌは覚えがあり過ぎたからだ。
ツル科の植物が、森に入ってすぐのところからずっと奥へと続いていた。
月のように丸い形を示す花はただ白く、この冬という季節においては月というよりも寧ろ雪であるのかもしれなかった。
9月の頃にはほんのちょっと、巨木の影に巻き付いているだけであったのに、今では森の入り口を覆わんとするかのようにツタを伸ばし、成長していた。
命は冬であっても変わり続けている。命は冬であっても成長し続けている。この植物は雪の冷たさにも屈することなく、まだ生きている。
その花の近くに、誰かがいる。
「やあ、こんなところでどうしたんだい?」
声を掛ければ、その華奢な身体は弾かれたように振り向いた。
深く被っていたフードの中から、ストロベリーブロンドがふわりと零れ出た。大きく見開かれたライトグレーの瞳には涙が溜まっていた。
触れれば折れてしまいそうな指は、ひどく短い杖をぎゅっと握り締めていた。首元にしっかりと絞められたネクタイは、プラターヌの配属寮を示す黄色であった。
「此処は生徒だけで入ってはいけないところだよ。日が暮れると視界が利かなくなってしまうし、夜行性の野生ポケモンも凶暴化するから危険なんだ。早く戻りなさい」
その少女は頷かなかった。弱ったな、と思いながらプラターヌは彼女の方へと歩みを進めた。
彼女の足元を埋め尽くしている白い月は、まるでそれ自体が光を放っているかのようにささやかな輝きを持ち続けていた。
彼女が数回、瞬きをすれば、その大きな瞳からぽろぽろと涙が零れて、少し尖った顎を伝って落ちた。月のような海のような花はその涙を受け止めて、震えた。
「プラターヌ先生、ごめんなさい」
その、消え入りそうなソプラノボイスを、何故だか彼はひどく懐かしいと思ってしまった。
「楽なところで、静かなところで、貴方をずっと待っていたかったけれど、できなくなってしまったんです。だから、ごめんなさい」
「ボクを待っていた?君はボクのことを知っているのかい?」
プラターヌはこの少女に覚えがなかった。少なくとも、教室の中で見たことはなかった。
彼の担当している飼育学は3年生からある授業であるため、彼が認識していないということは、おそらくこの少女は1年生か2年生なのだろう。
けれど直接、教えることのない生徒であっても、そろそろ覚えて然るべきだ。
プラターヌは教師であり、この子は生徒なのだから。彼はようやく教師になることが叶ったのだから。そのための勇気を「彼女」に貰ったのだから。
「貴方と一緒に年を取りたくなりました。貴方に名前を呼んでほしくなりました。貴方に触れたくなりました。
怖いこと、不安なこと、きっと沢山あります。でもそれ以上に、貴方といたい。私も貴方と、生きたい」
少女は笑った。泣きながら笑っていた。涙は川を流れて海へと向かい、花が全て受け止めた。
この少女に覚えはない。この少女の姿も、声も、名前も、知らない。記憶にない。
けれど、プラターヌはこの花を知っていた。「彼女」は花の記憶まで消したりはしなかった。
ぽろぽろと零れる涙を受け止め続けているその花は、3か月前からずっと「そう」であったその花は、月のような海のようなその花は、君と共に咲く姿を見届けたこの花は。
「シェリー。私の名前です」
この花は、夜顔というのではなかったか。他の誰でもない、君に教わったのではなかったか。
君こそが「彼女」なのではなかったか。
「私の名前はシェリーです」
命を希うその呪文を合図として、瞬間、彼女のストロベリーブロンドが風に千切れるように消えていった。
息を忘れたプラターヌの前で、彼女の姿を取っていた何もかもが、夕闇に煌めきながら次々とほつれていった。
頼りない脚はするすると溶け、細い指はぽろぽろと砕けた。体はふわりと煙のように消えて、彼を映した大きな瞳はぱちんとシャボン玉のように弾けた。
待って、待ってくれと叫びながら手を伸ばしても、彼女の何にも触れることなどできなかった。
指は掴めず、肩は零れ落ちた。髪はダイヤモンドダストのような冷たい粒となって、夕闇に煌めくばかりであった。
「シェリー!待ってくれ、行かないでくれ!」
最後に彼女が落とした涙は、しばらく夜顔の月に留まっていたけれど、やがて流れ星のように煌めきながらくるくると宙を舞い、そして消えた。
「お願いだ、行かないで。此処にいて……」
シェリー、シェリーと、何度も何度も名前を呼んだ。彼女を呼び戻すように、彼女が再び彼女の形を取ることを祈るように、叫んだ。
けれど此処にはもう、彼女の命も彼女の魂もないのだから、届く筈がなかった。呼び戻すべき何かはもう、彼の手の届かないところへ行ってしまっていた。戻りようがなかった。
夜顔は涙を受け止め続けていた。けれど此処に彼女はいない。彼女の涙はもう零れない。それでも夜顔は震えていた。涙が夜顔を淡く煌めかせていた。
プラターヌが泣いていたのだから、それも仕方のないことだった。
2017.3.23