11'

その数時間後、シアは城に戻って来た。
シアじゃないか!」というダークの声に、私は慌てて部屋を飛び出し、ぎこちなく鏡台の脚を動かして廊下を歩いた。
1階のホールでざわめきが聞こえる。楽器の形をした使用人たちが、私を追い越して階段を駆け下りていく。
魔法使いも、もう少し動きやすいものに変えてくれたらよかったのに、などと思いながら、私は必死に歩を進めた。
階段を一段ずつ、転ばないようにそっと下りる。最後の段を踏みしめて1階のホールにやっとのことで辿り着いた私に、シアは駆け寄ってきてくれた。

もう、間に合わないかと思った。
優しい彼女がまた、戻ってくるとして、それはずっと後のことだと考えていたのだ。そして、そう思っていたのは私だけではないのだろう。
この城に住む全ての人間が、彼女の早すぎる帰還に驚き、喜んでいた。けれど私は、素直に喜べなかった。あまりにも早すぎる気がしたのだ。

「事情はゲーチスから聞いたわ。だけど、私に挨拶くらいしていってくれてもよかったんじゃない?これでも寂しかったのよ」

寂しいなんてものではなかった。もっと大きな絶望だったのだ。それ程に私にとって、彼女は大きな存在になっていた。
けれど、私の拙い語彙力ではそう言い表すのが限界だった。
もっと相応しい言葉を、聡明で本が好きな彼女なら知っているのかもしれないけれど、私には「寂しい」くらいの言葉でちょうどよかったのだろう。

「それより、そんなに慌てて戻って来たってことは、何かあったんでしょう?聞かせなさいよ」

そうして尋ねた私に、シアは慌てた様子で説明してくれた。
あの魔法の手鏡をシアが持ち帰っていたこと。村の人間に、その手鏡でゲーチスの姿を見せてしまったこと。あいつを恐れた村人たちが、この城にやって来ていること。
シアは私達に逃げるように言ったけれど、私はそれを一笑に付した。
私達に逃げ場などない。此処が私達の、唯一無二の居場所なのだと、だから守らなければならないのだと、この場にいる全ての人間がそう思っていたに違いない。
だからこそ私は、皆から預かっていたモンスターボールを、この場で投げ渡すことを選んだのだ。

シアが愛してくれたこの場所を、私達は自分の手で守ってみせる。きっと、誰もがそう思っていた。

やって来た村人に、私達はポケモンバトルで応戦した。
ゼクロムとレシラムが並び立つ姿に、シアと連れの白衣の優男は驚いた様子を見せたけれど、私は得意気に笑うだけで特に説明はしなかった。
神話に登場するポケモンを従えることとなった、11年前のその経緯は、大した眩しさも美しさもない、ありふれたものだったからだ。

私は、静かに暮らしていたかった。
あの町で、平和にして、穏やかに生きて、静かに死んでいきたかった。それが私のこの上ない幸せだと信じていた。
けれどその静かな日常は、11年前のあの日、私の手に収まった黒い石によって狂わされた。
私はその日から「継承者」となることを強いられ、ポケモンの声が聞こえるという奇異な青年と知り合い、彼の紹介により城で働くことになり、呪いでこんな姿にさせられ……。
繰り返される期待と落胆、めくるめく希望と絶望に満ちたこの10年間は、壮絶だった。こんな人生を望んでいた訳では決してなかった。
あの日を境に、私の人生は、私が自由に決められると思っていた人生は、思いも寄らぬ方向に傾き始めていた。

『でも、あんたが嘘を嫌うなら、あんたには決して嘘を吐かないわ。今、ここで誓ってもいいわよ。』
きっと、11年前にあの言葉を紡いだその瞬間から、私の心の全てをあいつに開示することを誓ってしまったあの日から、私の世界は私だけのものではなくなっていたのだろう。
私の世界は、私とNとを中心に回り始めていたのだ。

自分の人生が自分だけのものでなくなるというのは、ひどく気持ちが悪いものだった。
私を構成しているのは、真に私でなければならない筈だった。
……たとえば、私の近しい誰かが突然いなくなってしまったとして、そのことに悲しみ、嘆き、寂しいと思うことはあったとしても、
その人がいないと生きていけない、その人なしでは私が私ではなくなってしまう、などという、「私の一部」と言っても過言ではない相手など、決して存在してはいけなかったのだ。

トウコさん、と言いましたか。わたし達のポケモンを頼みます」

「白衣の優男に言われなくたって解っているわ、任せなさい。あんたのポケモンにもシアのクロバットにも、傷一つ付けさせないから」

アクロマと名乗った男にポケモンを託された私は得意気に笑い、シアを追い掛けるようにと彼に促した。
シアはきっと、あのナイフを持った友達を止めに行ったのだろう。間に合うだろうか。少しだけ不安になったが、私が追いかけたところで何もできないのは解っていた。
だから私はこの場に残り、10年振りのポケモンバトルを楽しむことを選んだのだ。
どうか間に合いますようにと、祈ることすら忘れていた。壮絶な私の人生に、祈る余裕が与えられている筈がなかったのかもしれない。

トウコシアは間に合うだろうか?」

「……さあ、どうかしら。間に合えばいいとは思うけれど、どっちでも構わないわ」

隣でレシラムに指示を出しながら、Nは私にそう尋ねた。私はいつものように言葉を返しながら、ふと思う。
こいつと出会う前に戻れたなら、私はもっと冷静に、賢く生きていけたかしら、と。
普通の人を好きになって、普通の人と結婚して、一定の距離感で愛しながら、あの静かな町で、そつなく人生の駒を進めることができたのだろうか。
私がかつて望んでいた通りの人生を、歩むことができたのだろうか。
けれど、遅すぎた。私の人生を私だけのものにしたかったのなら、一人で生きていける私を望むのなら、あの11年前に、こいつの手を振り払わなければならなかったのだ。
彼は私にとってそうした存在だった。

「……いいのかい?元に戻れなくても」

いつの間にか、大勢で攻め込んできた村人たちはいなくなっていた。
1階のホールは、彼等を撃退できたことへの歓喜にざわめいていたけれど、私達は階段の上で静かに会話を続けた。
久し振りのざわめきはとても煩くて、騒音が大嫌いな私にとっては耐えられない程のものだった。けれど、そのざわめきすら愛おしかった。
これが私の世界なのだと、私はようやく認めるに至ったのだ。

「だって私達がどんな姿をしていても、シアは此処に戻ってきてくれたじゃない。きっと、何も変わらなかったのよ」

「……そうか」

「私も変わらず、あんたのことが好きよ。あんただってそうでしょう?」

『ボクも、キミが好きだよ。』
あんたも、私のことが好きなんでしょう?10年も前から、ずっと。だから何も変わらないわ。
クスクスと笑い始めたNに、どうしたのよと尋ねれば、彼はその、恐ろしい程に澄み切った目をすっと細めて微笑む。


「いや、これが愛なのかな、と思っただけだよ」


その瞬間、城全体が輝き始めた。
あまりの眩しさに私は目を閉じ、もう一度開いたその瞬間、目の前に「N」がいたのだ。
違う、先程までもNはそこにいた。いたのだけれど、違う。Nが、……彼が、人間の姿をしているのだ。
10年前のあの日と同じ、彼の姿がそこにあったのだ。私達は戻れたのだと、この城の呪いはようやく解けたのだと、理解するよりも先に足が動いていた。

「N、」

私は「駆け寄る」ことができた。足が地を蹴る感覚に心臓が震えた。私はNの背中に「手を回し」て、縋るように強く「抱き締め」た。
白いシャツが、私の透明な血を吸って色を変えた。彼は少しだけ躊躇った後で、私の頭をあやすようにそっと撫でた。

「ふふ、どうしたんだい。戻れなくても、何も変わらないと言っていたじゃないか」

彼はクスクスと笑いながら、愛を紡いだその口で私をからかう。

「そうね、何も変わらないわ。でも、少し懐かしくなったの」

いつものようにそう返せば、彼は「そうだね」と頷いてから、その冷たい指で私の透明な血を拭った。
呪いの解けた城は見違えるように明るくなっていた。雷鳴すら轟いていた分厚い雲は、いつの間にか消えてしまっていた。
光の差すホールでは、城の皆が手を取り合ったり、抱き締め合ったりして歓声を上げていた。私は思わずNの手を握り締めた。出会った頃を思い出させる強い力に、彼は少しだけ驚き、微笑む。

私はあの時、この手を払えなかった。それが全てだったのだ。
それでも私は時折、ああ、出会わなければよかったと、この壮絶な人生の中で思うことがある。
こいつと出会わなかったなら、誰かの腕の中で泣くことの心地良さも、誰かに自分を知ってもらえていることの幸福も、何一つ知ることなく、一人で静かに時を歩めたのに。
愛しい全ての感情も、知る前に戻れたなら痛くも痒くもないのに。

そう、今の私はこいつを、彼の存在を、彼が私にもたらした全てを知っている。私はもう、一人で歩けない。こいつの手を、振り払えない。
でも、折角「手」があるのだ。彼の手を握ることができるのだ。振り払う必要なんて、きっとなかったのだろう。


2015.5.30

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