「シェリーを此処から出して!彼女が一体、何をしたというの?」
私は迫りくる大きな影に向かって叫んだ。必要以上に大きな声を張り上げたのは、自分の声が震えてしまわないようにするためだった。
つまるところ、私だって、怖くない筈がなかったのだ。
それでも私は、彼女のためなら虚勢を張れる。大切な親友のためなら、自分の心に嘘を吐くことすら厭わない。
「そいつは我が屋敷に無断で侵入し、この城の主である私の部屋にまで踏み入ろうとした。城を走り回るその女の姿を、城の者が目撃している」
私は驚いて、檻の奥で震えているシェリーを見遣った。
おそらく、この人物は嘘を吐いてはいないのだろう。けれど彼女にだって悪気はなかった筈だ。
大方、雨を凌ごうとこの城の中に入った矢先、燭台のダークさんと出会って、驚きのあまり城の中を逃げ回ってしまったのだろう。
決して盗みに入ろうとしたわけでも、城の中を争うとしたわけでもない筈だ。
「だからって、どうしてこんな冷たい檻の中に閉じ込めなきゃいけないの?ただ叱って、追い出せばよかっただけのことじゃない!」
「黙れ!私に逆らうのなら、お前も牢屋に入れるぞ!」
直ぐ近くで振って来た、唸るような低いバリトンに戦慄する。けれど此処で引く訳にはいかなかった。
私はシェリーを探すために此処に来たのだ。このまま一人で帰ることなんてできない。
石畳に縫い付けられたように動かなくなった足を心の中で叱咤して、私は暗闇の誰かをきっと睨み上げる。
「!」
その瞬間、鋭利なナイフのようなものが暗闇から飛んできて、私の腕を掠めていった。
あまりの痛みに私は右腕を押さえる。麻の布が血でべっとりと濡れていて、私は右腕を抱くようにして座り込んでしまった。
この人には、殺意がある。気付いた時にはもう遅すぎた。この人は私を手に掛けようとしているのだと、理解した瞬間震えが止まらなくなる。
シア、と、私を呼ぶ親友の声が聞こえる。返事をしたいけれど、痛みでまともな声が出そうにない。
やはり、彼女の忠告に従って逃げ出せばよかったのかもしれない。けれど、そんなことをすればシェリーはどうなる。私の大切な、かけがえのない親友は?
なけなしの勇気を砕かれ、全身を震えさせた今になっても、私の望みは変わらなかった。
シェリーをこの城から出してほしい。それが叶うなら、私はどうなろうと構わない。
私はワンピースのポケットからモンスターボールを取り出して、暗闇に投げた。現れたクロバットは私の前に立ち塞がる。
この地下の闇に姿を消した、この城の主が何故、私に殺意を向けているのか解らない。けれど理由はどうだってよかった。どのみち、この非道な人物に私の言葉は通じない。
それならば、殺されてしまう前に、シェリーを逃がすとその口に誓わせなければ。そうしなければ、私が此処へ来た意味がなくなる。
「シェリーの代わりに、私を此処へ置きなさい!」
涙は出なかった。この得体の知れない人物が現れた時から、最終的にこうするしかないのかもしれないと覚悟は決めていた。
相手は何も言わなかった。それをいいことに私は更にまくし立てた。やめて、と叫ぶシェリーの声は聞こえない振りをした。
「私を殺したいなら好きにすればいい。でもその前にシェリーを逃がして」
「……」
「私にはこの子がいます。今この場で、貴方と戦うことだってできるのよ!」
戦うことができる、なんて、はったりもいいところだった。
確かに私のクロバットは誰よりも速く空を飛ぶし、ポケモンバトルでも決して弱くはないけれど、此処は暗闇だ。正しい指示など出せないことは目に見えていた。
それでも、今はこちらにも力があることを示しておかなければならなかった。そうしなければ相手は持っているナイフで、あっという間に私の喉を切り裂きそうだったからだ。
私は暗闇を睨み続けた。私にはこの暗闇を見通すことはできないけれど、相手は私の姿が見えている可能性がある。私の腕を切り付けたのがその証拠だった。
だからこそ、みっともなく泣きだすような真似はしたくなかった。最後まで気丈に振舞っていたかった。それが私の大きすぎる嘘だったとしても。
暫くして、暗闇の中からあのバリトンが振って来た。
「永遠に此処で暮らすと誓え」
その場で殺されるのではと危惧していただけに、彼が出したその条件はとても奇異なものに思えた。
永遠。つまり私が死ぬまで、ということだ。それはたった15年しか生きていない私にとって、途方もなく長い時間のように感じられた。
けれど、どうやら私は死ななくて済むらしい。そして私が此処に残れば、シェリーは此処から出ることができるのだ。
「……」
『貴方は聡明な人だ。知識に貪欲で、怠けることを知らない。そんな貴方に慕われるのは、とても嬉しいですよ、シアさん。』
柔らかなテノールが脳裏を掠めた。アクロマさんに二度と会えなくなってしまうことが心残りだったけれど、これでよかったのかもしれない。
彼はとても立派な人だ。彼が私のような人間を好きになってくれるとはとても思えなかったし、私も彼を愛することができなかった。そもそも、私は愛することを知らない。
それにシェリーだって、あと1年か2年すればフラダリさんの妻となり、あの家を出るだろう。どうせ、私はあともう少しすれば一人になるのだ。
それなら、村にいても此処にいても一緒なんじゃないかな。
私が残れば、悲しむのはシェリーだけで済む。けれどシェリーが此処に残れば、その喪失に心を痛める人が大勢いるのだ。何より、私が耐えられない。
「ええ、守るわ。シェリーを今すぐに此処から出してくれるなら」
「分かった」
彼は暗闇の中で手を一回だけ叩いた。すると私の足元にいた燭台のダークさんが蝋燭に火を灯し「此処におります」と告げる。
更に別の誰かが現れたようだ。燭台の火が照らしたその姿には見覚えがあった。私をこの地下へと案内してくれた、寡黙な外套掛けのダークさんだった。
彼は持っていた鍵の束から一つを使って、檻を開けた。
中からシェリーが泣き腫らした目をして飛び出してきて、私を強く抱き締める。
これが最後だと知っていたから、私も思い切り力を込めて抱き締めた。腕の痛みを無視して、シェリーの綺麗なストロベリーブロンドの髪をそっと撫でる。
よかった、彼女を救い出せた。私の大切な親友を助けることができた。もう十分だ。私のすべきことは全てやった。
「シア!どうしてこんなこと、」
「私は大丈夫。何処にいてもシェリーを想っているよ。……だからお願い、もう二度と此処へは来ないでね」
私は泣きそうになりながら何とか笑顔を作り、シェリーの肩を強く突き飛ばした。
後ろへ倒れた彼女を、外套掛けのダークさんが受け止める。華奢な彼女の身体はひょいと抱えられ、地上へと連れて行かれた。
シア、と私を呼ぶソプラノの悲鳴が段々と遠ざかっていく。バタン、と遠くで扉が閉まる音がして、再びこの地下に静寂が訪れた。
気を抜けば今にも涙が溢れだしてしまいそうだったけれど、まだ、泣く訳にはいかなかった。
私は爪が手の平に食い込むのではないかと思う程に強く握り締め、涙を堪えていた。嗚咽は暗闇の中で噛み殺した。
果てしなく長く続いていた沈黙を破ったのは、燭台のダークさんだった。
「ゲーチス様、彼女はこれから長い時間をこの城で過ごすのです。彼女のために、居心地の良い部屋をお与えになった方がよろしいかと」
「……」
「まさか、この牢屋で一生を過ごせと仰るつもりですか?」
その言葉に、相手は小さく溜め息を吐いて、私の方へと歩み寄った。
大きな手で腕を掴まれ、慌てて立ち上がる。その瞬間、燭台の光がその人物の姿を照らした。そして私は、驚きに息を飲む。
この人はナイフなど持っていなかった。私の腕を切り付けた鋭利なそれは、その大きな手に伸びる鋭い爪だったのだ。
2mはあろうかという背の高い生き物からは、茶色い毛の生えた四肢が伸びている。
人の衣服を纏ってはいるが、その鋭い爪を持った手も、たてがみのように長く生えた髪も、閉じた口から覗く大きな牙も、全てが人のものではあり得なかった。
その生き物は、射るような赤い目で私を見下ろしていた。
私が、今まで「人」だと思って話をしていた相手は、人の形をした、人ならざるものだったのだ。
私はその腕を鋭く払いのけた。
またしても赤い目で睨まれてしまい、私は怯みながらも声を張り上げた。
「近付かないで。一人で歩けます」
それは私の、精一杯の虚勢だった。足は震え、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
けれど目の前の生き物への恐怖以上に、シェリーとの不条理な別離を突き付けられたことへの憤りが勝っていた。
だからこそ、私はこんな嘘を吐くことができたのだと思う。
彼は何も言わず、私に背を向けて歩き出す。私は震える足を叱咤して、その後ろに付いていった。
『シア、早く逃げて!野獣が、このお城には野獣がいるの!』
シェリーのあの時の言葉を、私はようやく理解するに至ったのだ。
2015.5.14