「上手になったね、シア。もうペダルを使いこなしているじゃないか」
Nさんの賞賛に、私は照れたように笑いながら謙遜したけれど、実のところ、3分程の長さの曲を一度も間違えずに弾けたことに、私も少なからず喜びを感じていた。
使う鍵盤もそこまで多くなく、ペダルもタイミングを覚えて規則正しく鳴らせばいいだけの簡単な曲だったけれど、弾き終えた時の達成感は凄まじいものがあった。
初めて最後まで引けるようになった時に、淑女を忘れて歓喜の悲鳴をあげてしまったことは記憶に新しい。
「まさか、ピアノを弾けるようになる日が来るなんて思ってもみませんでした。
村にいた頃は、ピアノもバイオリンもフルートも、本の中でしか見たことがなかったんです。だからこうして皆に会えてとても嬉しい」
そう告げれば、Nさんは少しだけ照れたように小さく笑い、楽器たちはわっと歓声を上げた。
この部屋に飾られている弦楽器や管楽器たちは、鍵盤を踊る私のぎこちない指に合わせて、伴奏を鳴らしてくれるのだ。
おかげで私の拙い演奏も、彼等の音に飾られ、迫力を増し、美しくなる。
そして、彼等は本当に楽しそうに自分の楽器を鳴らしてみせるのだ。その様子を見るのが私は好きだった。
私にもう少し音楽の経験があったなら、バイオリンを弾くこともできたのかもしれない。けれど残念ながら私の弦は、何かを引っ掻くような奇怪な音しか奏でなかった。
それ以来、私は専ら、触る楽器はピアノだけに留めていたのだ。ピアノなら鍵盤を正しく叩けば綺麗な音が鳴るし、強弱も付けやすい。
いつか、トランペットの女性が「初心者ならN様のピアノがいいんじゃないかしら」と勧めてくれた言葉を思い出す。
彼女の言葉は正鵠を射ていた。もし私が最初に触れた楽器が、ピアノではなくバイオリンだったなら、こんなにも早く曲を奏でられるようにはならなかっただろう。
「さて、そんなところにいないで入ってきたらどうかな、ゲーチス」
Nさんが紡いだその言葉に、私はもう一曲弾こうとしていた指を慌てて引っ込めることになってしまった。
廊下から姿を現した彼に私は驚く。彼とは廊下や1階のホールで出会うことはたまにあっても、こんな風に何処かの部屋に入って来たことは未だ嘗てなかったからだ。
しかも、その驚きは私よりも、私の周りにいた楽器たちの方が大きかったらしく、皆は顔色をさっと変えて道を開けた。
唯一、Nさんだけが変わらぬ口調と声音で彼に話し掛けていた。彼に敬語を使わずに話をするのは、おそらくこの城でNさんだけだろう。
トウコさんも彼のことをゲーチスと呼び捨てにしているけれど、残念ながら、私はトウコさんと彼が話をしているところを見たことがない。
……他の楽器たちから「N様」と呼ばれている点から察するに、彼はもしかしたら、ゲーチスさんと同じくらいの地位にあるのかもしれなかった。
そんなことを思っていると、ゲーチスさんは部屋の中に入り、グランドピアノの前に立って私を見下ろした。
どうやら此処へやって来たのは、私に用があったためであるらしい。ピアノの椅子に座ったまま彼を見上げていると、彼はいつものように大きく溜め息を吐いた。
「……図書館に姿が見えなかった。手間を取らせるな」
「え、……あ、もうこんな時間!」
私は壁に掛けられた時計が、4時を示しているのを見て青ざめる。ピアノを弾くのに夢中で、すっかり時間を忘れていたのだ。
ごめんなさい、と立ち上がり、ピアノの鍵盤に蓋を下ろそうとしたその瞬間、Nさんが笑いながらとんでもない提案をする。
「そうだ、一曲聞いていかないか?今ならシアがピアノを演奏してくれるよ」
「Nさん!私は、」
冗談じゃない!私は慌ててNさんを咎めたけれど、ゲーチスさんは何を思ったのか、その赤い隻眼を細めてニヒルに笑ってみせる。
ああ、この顔は危険だと思っていると、案の定、彼は「ではそうしよう」と言い出してドア近くの壁に凭れてしまった。
尊大に腕を組み、私を真っ直ぐに見据えている。明らかに演奏の開始を待っているその様子に、私は焦って首を振る。
「わ、私のピアノなんて素人の付け焼刃で、貴方に聞かせられるようなものじゃないわ」
「ほう、Nには聞かせておきながら、私の前では弾けないのか」
愕然とした表情の私を見て、彼はくつくつと喉を鳴らすように笑ってみせる。
その特徴的な笑い声に強烈な既視感を見た気がしたけれど、今の私はそれどころではなかった。
「……きっと、この部屋に残ったことを後悔することになるわ」彼にそう告げてから私は両手を鍵盤の上にかざした。
何故だかは解らないが、彼の先程の言葉は私に、この人に私のピアノを聞かせなければと思わせる、目に見えない引力のようなものを持っていたのだ。
静かに深く息を吸い込んで、私は鍵盤の上で指を躍らせた。
「!」
ああ、まただ。また心臓の音が不思議な音を立てて揺れている。
不安と緊張、そして期待とが渦を巻いて胸の奥で渦巻いている。息が苦しくならないようにと、私は時折大きく息を吸って鍵盤を叩いた。
変なの、と私は思う。この部屋の皆の前で弾いていた時には、こんなにも緊張しなかったのに。ただ、間違えずに最後まで弾かなければと夢中になることができたのに。
彼の登場によって、その心が大きく乱れてしまったことに私はようやく気付く。だって、失敗したくない。私のミスを、彼には見られたくない。
けれど同時に、もし私がこの場で大きく音を外してしまえば、彼はどんな顔をするのだろうかと少しだけ気になっている。
その時の彼は、また新しい表情をしてみせるのだろうか。彼はその、彼が憎み嫌うその恐ろしい姿の中に、どんな表情を隠し持っているのだろう。
見てみたいような気がした。
けれど、必死に鍵盤の上を走っていた指が、今更器用に間違いを犯すなどということができる筈もなく、私はそのまま全力で指を躍らせた。
鍵盤から目を離して、彼の方を見る余裕などなかった。周りの弦楽器や管楽器の伴奏に気付くこともできなかった。
ようやく曲が終わり、私はピアノの音の消え入る余韻を聞き届けてから白鍵から指を放す。
彼はそんな私の一連の動作を見届け、私の両手が膝の上に戻されてから口を開いた。
「……で、今の演奏の何処に、私を後悔させる要素があったというんだ」
「!」
雷に打たれたような衝撃が走った。それは紛れもない歓喜であると私は知っていた。
普段、人を褒めたり素直な言葉を発したりすることのない彼が、皮肉を交えて告げたその言葉の真意を、私は正しく理解していた。
思い上がっているのだろうか。それでも彼のその言葉が、少なくとも私のピアノを批判するものではないということくらいは解っていた。
それを確信できる程には、私は彼とそれなりに長い時間を重ねてきていたのだ。
「まだ、弾けるようになったばかりなの。でもそう言ってくれてとても嬉しい。最後まで聞いてくれてありがとう」
心からのお礼を紡げば、彼は少しだけ怯んだように戸惑い、ふいと視線を逸らして明後日の方向を向いた。
それが、彼の小さな照れ隠しだと知っている私は、その仕草がついおかしくて肩を震わせて笑ってしまう。
決まり悪そうに眉をひそめた彼にかける謝罪の言葉を考えていると、そんな私達を見ていたNさんが先に口を開いた。
「そうだ。ゲーチスも今の曲が気に入ったのなら、近いうちにこの曲で踊ってみたらどうだい。1階の、広いホールを使って」
……このピアノを彼の前で弾いてみてはとNさんが提案した時と同じく、私はさっと顔を青ざめさせることになってしまった。
ダンスなんて、したことがない。基本的なステップすら知らないし、曲に合わせて踊るなんてもっての他だ。
けれど私はNさんの提案を「とんでもない」と切り捨てることができなかった。何故なら私の周りにいた楽器たちが、わっと歓声をあげて盛り上がり始めたからだ。
日取りはいつにする?折角だからとびきり豪華にしましょう。厨房の方にも連絡を入れて、相応しい食事を用意してもらおう。
そんな会話が飛び交う中、したくないとはとてもではないが言い出せなかった。私は彼等の言葉に相槌を打ちながら、そっと椅子から立ち上がり、ゲーチスさんに駆け寄る。
どうした、と小さく尋ねた彼を、私は縋るように見上げた。
「どうしよう。私、ダンスなんてしたことがないの」
「……それを私に言ってどうする。私が女性のステップを心得ているように見えるのか」
それもそうだ。城の主である彼はダンスくらい軽く踊れるのかもしれないけれど、彼が付くのは当たり前だが男性のポジションだ。女性の踊り方など知っている筈がない。
私は困ったように笑って謝罪の言葉を紡いだけれど、彼は暫く考え込む素振りをした後で、少しだけ得意気にその眉をくいと上げてみせた。
「何も不安に思う必要などない」
「!」
「私がお前のミスをカバーできない程の中途半端な心得しかないとでも?」
息を飲んだ。
その彼らしい尊大な言葉の裏に、確かな人の温度を見たからだ。
以前なら、その温度が人間のものであるという事実にただ安堵するだけだったのだろう。
けれど今は違った。私は紛れもなく、彼と同じ温度を共有できていることにほの甘い喜びを感じていたのだ。
こうした想いを表現する言葉は、あらゆる本の中に散りばめられていたけれど、そのあまりにも眩しすぎる言葉を、この思いに当て嵌めることはまだ躊躇われた。
「……箒の持ち方を教えてくれた礼だ」
けれどそんな彼の言葉に、弾けるような笑みを浮かべることは躊躇いなくできたのだ。
2015.5.18