デザートのアイスクリームを食べ終え、紅茶を少しずつ飲んだ。
そうしてお皿が片付けられようとしていたその瞬間、私は意を決して燭台のダークさんに声を掛けた。
本当は昨日、食事が終わった後で尋ねるつもりだったのだ。けれど紅茶に口を付ける前に立ち上がってしまったため、貰い損ねたものが一つだけあった。
この難しい料理の名前を、私は少しずつ、覚えていこうと決めていたのだ。そのために、これがどうしても必要だった。
「あの、このメニューが書かれた紙、貰ってもいいですか?」
「え、これのことか?別に構わないよ」
やった!私は思わずぱっと笑顔になり、「ありがとう!」と口にしてしまった。
我に返り、向かいのテーブルを見遣れば、彼はその鋭い目で私を真っ直ぐに見据えている。
その同じ色に、私は思わず「彼」の赤い目を思い出す。きっと、同じ隻眼をしているからだと思った。だってあの美しい「彼」と、目の前のこの人は、あまりにも似ていない。
けれどそれ故に、その獣の姿の中に埋め込まれた、宝石のような隻眼から目を逸らすことができなかった。
「……」
私はメニューの書かれた紙を手に取り、立ち上がった。
もう食事は終わった。いつまでも此処に残っている必要はない。私は厨房の方を振り返り、ドアの隙間からこちらを窺っている皆に挨拶をした。
「とても美味しかったわ。ご馳走様でした」
その瞬間、彼等はほっとしたように微笑んでくれた。
解っている。彼等が私達を覗いていたのは、私に料理の感想を求めているからではない。私とゲーチスさんの間に生じた空気を案じているからだ。
けれど、それでも言いたかったのだ。こんな素晴らしい料理を食べたのは初めてだと。とても美味しかったと。
そう告げることで、私の心も少しだけ楽になった。私はそのまま扉へと歩みを進めた。
「おい」
けれどそんな私を、この人が許す筈もなかったのだ。
呼び止められ、くるりと振り向けば、彼の鋭い隻眼が私を射ていた。
「あんな奴等に声を掛けておきながら、私にはただの一言も口を利かないつもりか」
その理不尽な要求に、私の怒りは沸々と煮えたぎっていた。
けれど、昨日のような屈辱を感じることはなかった。何故なら私には既に、言い返すだけの覚悟と言葉が備わっていたからだ。
「失礼しました。私のようなものとは口も利きたくないだろうと思いまして」
「……誰がいつ、そんなことを言った」
「上辺だけの言葉なら口にするな、不愉快だから笑うなと、昨日、暗に仰っていたではないですか」
慇懃無礼とはこのことだろう。限りなく丁寧な言葉を使っている筈なのに、私の言葉には優しさの欠片もなかった。
けれど、別に構わないのだ。だってこの人は私の権利と尊厳を踏みにじったのだから。
この失礼な人に、礼儀を弁えた発言をする必要など、全くない筈なのだから。
「お前は上辺だけの言葉しか口にできないのか」
「……今の私から上辺だけの言葉を取り去れば、貴方への憤りしか残りませんが、それでも構わないのですね?」
彼は怯んだのか、次の言葉を紡がずにただ沈黙した。それをいいことに、私はくるりと踵を返して、扉へと歩みを進めた。
彼が乱暴に立ち上がり、椅子が倒れる音がしたけれど、振り向かなかった。
この高いヒールでは思うように歩けず、直ぐに追いつかれてしまうだろうけれど、構わなかった。もし追いつかれたとして、その手を振り切り紡ぐ言葉を私は既に用意していた。
ドアノブに手を掛けようとしたその瞬間、やはり肩を強く掴まれ、今度こそ私は丁寧な言葉も淑女の振る舞いも忘れて大声を上げる。
「付いて来ないで!私は貴方が嫌いなの」
ああ、言ってしまった。私は燻る罪悪感に気付かない振りをして、彼をきっと睨み上げた。そして、絶句した。
彼がその隻眼を見開き、愕然とした表情をしていたからだ。
……まさか、これだけのことをしておいて、私に好かれているとでも思っていたのだろうか?
馬鹿げている。そんなこと、ある筈がない。
どうして自分の自由を奪い、発言も笑うことも暗に禁じたような相手を嫌わずにいられるだろう?私はそこまで器の広い人間ではないのだ。
私は再び彼に背を向け、歩き出した。彼はもう追い掛けては来なかったけれど、代わりに小さく、呟いた。
「私が醜いからか」
「!」
その声音は、今まで散々私を傷付けてきた人のものだとは思えない程に弱々しく、ある種の諦めと絶望の響きを持っていた。
私は思わず振り返ってしまう。彼はその隻眼を床に伏せ、俯いていた。
その姿に、私ははっと息を飲む。
不思議なことに、彼が恐ろしい獣の姿ではなく、私と同じくらいの少年の姿をしているように見えたのだ。
「お前も、僕を軽蔑するのか」
自分のことを「僕」とした、そのバリトンがあまりにも弱々しい響きを持っていて、私は驚き、困惑する。
貴方は私のことが嫌いなのではなかったの?
こんな風に私をお城に閉じ込めて、私の言葉一つ一つに難癖を付け、笑うことすら不愉快だと暗に示したのは、私を嫌っているからではなかったの?
それなのに、どうしてそんな顔をしているの?
「貴方は何か、勘違いをしているわ」
月明かりが差し込む廊下で、私は彼の赤い隻眼を見据えた。
昨日も告げたその言葉を、私はもう一度、はっきりと繰り返した。
「私は貴方を醜いと思ったことなんかない」
「……嘘だ」
「信じられないならそれでもいい。でも私は言いたいことをちゃんと言うわ」
『彼はとても不器用な人です。人を傷付けることしか知らない、少し歪な方なのです。けれど決して、貴方を憎んでいる訳ではないのですよ。』
私はバーベナさんの言葉を思い出していた。私はまだ、この歪な人を理解できそうにない。
……理解したくもない。つい先程まで、そう思っていた。それなのに、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
私を平気で傷付けることのできる彼が、どうして私のたった一言に、傷付いたような表情をしているのだろう。
それでも、私はもう躊躇わない。たとえ彼を傷付けることになったとしても、私は言いたいことを言うと決めたのだ。
「確かに貴方の姿は恐ろしいけれど、私が貴方を嫌いなのは、貴方が醜いからではないわ。
貴方が不条理な怒りを振りかざして、私の権利と尊厳を悉く踏みにじる、傲慢で身勝手な人だからよ」
今度こそ、私は彼に背を向けて廊下を駆け出した。もう彼のバリトンは聞こえては来なかった。
静まり返った廊下に、私のぎこちない靴音だけが響いていた。やがてそれに混じって嗚咽も聞こえ始めた。
馬鹿げている。どうして私は泣いているのだろう。言いたいことをあの人に言えて、心は晴れ晴れとしていてもおかしくはない筈なのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。
だって、私の言葉に彼があんな顔をするなんて、想像もしていなかったのだ。
部屋に戻り、鏡台の椅子にそっと座った。少しして、閉じられていた鏡台の扉がぱたんと開く。
トウコさんは私の顔を見て少しだけ驚いたような表情をしたけれど、やがて穏やかな優しいアルトの声音でゆっくりと質問を重ねた。
「言いたいこと、言えなかったの?」
「いいえ、言えたわ。私が彼を嫌っていることも、私の権利と尊厳を踏みにじる彼の行動が許せないことも」
「それじゃあ、また酷いことを言われた?」
「……いいえ、何も」
それなのに、どうして泣いているの?と、彼女は尋ねなかった。
代わりに鏡台の引き出しの中からハンカチを取り出して、私にそっと差し出してくれた。上品なレースのハンカチは私の涙を吸って、あっという間に色を変えた。
「あんたは優しすぎるわ。ゲーチスには、勿体ない」
違う、私は優しくなんかない。だって優しい人なら、彼にあんな言葉を投げる筈がないのだ。
更に言えば私は、あの時泣きそうな顔で私の方を見た彼を思って泣いているのではないのだ。
彼にそんな顔をさせた自分が許せなくて、酷い言葉を紡ぐ自分が止められなくて、そんな自分がどうしようもなく情けなくて、泣いている。
けれど、どうしても彼に優しい言葉を掛けることはできなかった。私は私のことも許せないけれど、彼のことも同様に許せないからだ。
……私は、優しくなんかない。
2015.5.16