「どうしてついて来るのよ」
芝生を踏みしめながら私はそう言葉を吐いた。
Nと名乗った彼は驚くべきことに、笑顔を絶やさぬままに私の後を付いて来たのだ。
まるで「ボクが行くところにキミがいるだけだ」とでも言わんばかりの、堂々とした、悪気の欠片もないその表情に私は苛立った。
その笑顔のままに「カレに頼まれているんだ」と口にするものだから、私は「は?」と眉間にしわを寄せて、思わず尋ね返してしまったのだ。
「トウコの傍にいてあげて、と言われたからね。トモダチの頼みを聞かない訳にはいかないだろう?」
綺麗な顔立ちをしているな、と思う。
その風貌でニコニコと微笑まれてしまっては、大抵の女生徒は心臓を跳ねさせるのだろうな、とも思う。
けれども残念ながら私の場合、この男に微笑まれて沸き立つのは鼓動ではなく苛立ちだ。 私の不快指数は最高潮に達していた。
「ミジュマルのことを馴れ馴れしく呼ばないて」と吐き捨てるように口にすれば、彼は不思議そうに首を傾げた。
何故キミが起こっているのか分からない、とでもいうかのような、悉く愚かさと幼さを極めた純粋な目だった。
「トモダチをトモダチと呼んではいけないのかい?」
「そんなこと言っていないでしょう。でもミジュマルは私の友達よ。少なくともあんたの友達じゃないわ」
しかしそんな私の皮肉にも彼は全く動じない。むしろ嬉しそうに笑ってみせる。
「キミのトモダチは幸せだね、キミのようなトレーナーに出会えて」
とうとう頭が痛くなって、私は大きく溜め息を吐いた。
……この人間はおかしい。普通じゃない。
上手く言葉で表現することができないのがもどかしいけれど、少なくとも私が生きてきた世界にはこんな人間はいなかった。
普通、攻撃的な言葉を投げかけられたなら、相手が自分に好意を持っていないことくらい把握できそうなものだけれど。
だから私は怒鳴ったのだ。私は貴方が嫌いです、と、この視線と言葉をもって宣言したのだ。
そうすれば彼はこの場を立ち去ってくれるものとばかり思っていた。立ち去ることが自己を守るための最善の選択なのだと、理解してくれる筈だった。
……けれど、そうはならなかった。
相手ばかりが楽しそうにしているのが気に食わなくて、私は自分から口を開いていた。
それはこの現状を少しでも打開する為であり、こいつと親しくするためでは決してなかったのだけれど。
「ネクタイをしていないけど、あんたも自分の寮が嫌いなの?」
そう言えば、そのお気楽な顔がほんの少しだけ憂いを帯びると思っていた。
しかし彼は笑顔で首を捻る。
「何故?グリフィンドールはとても良い寮だよ」
「じゃあなんでネクタイをしていないの」
すると彼はその綺麗な笑顔のまま、とんでもない爆弾を投げて寄越したのだ。
「付け方を知らないんだ」
ポケットから取り出されたネクタイは、じっくり見なければ「ネクタイ」であったと分からない程に、歪なしわを作り過ぎていた。
おそらく、何度も挑戦しては失敗したのだろう。強く結び過ぎたり、不自然に折り目を作ったりして、試行錯誤している様子が見て取れた。
本気で言っているのだ、この男は本当にネクタイの結び方を知らないのだ。
そう確信した瞬間、私は芝生の上に四肢を投げ出して笑った。
これに驚いたのは彼の方で、「何かおかしなことを言ったかい?」と狼狽えている。
そんな彼を放置して私は笑った。笑い過ぎてお腹が痛くなり始めていた。
「だって、あはは!し、知らないなんて!」
芝生を転がり回った。チクチクした葉が頬を掠めていった。深い緑の匂いがした。
ああおかしい。彼は何処までも彼の予測を裏切っていく。
今まで私が構築してきた処世術が全く通用しない。今までの私でなくとも落胆したりしてくれない。
こいつは私がどうであろうと、私がどんなに悪質な態度を示し、どんなに乱暴な言葉を投げようとも、何故だか私から離れていかない。
それは確かな心地良さを伴って、私の深淵を震わせた。もうどうにでもなれ、と思えてしまう程に、今の私は楽しい気分だった。
暫く茫然としていたNは、私の隣に腰を下ろし、長い脚を投げ出すようにして座った。
緑の匂いのする風が、彼の長い髪をさわさわと揺らしていった。
その横顔が「随分と楽しそうだね、ボクも嬉しいよ」と歌うように紡ぐので、お決まりの皮肉で返してみた。
「何それ、またミジュマルの言葉?」
すると彼は私の隣に寝転がり、空を見上げてただぽつりと、忘れられない一言を告げる。
「いいや、ボクの言葉だ」
私はそれを聞くなり勢いよく上体を起こして、彼の手から赤いネクタイを奪った。
「締め方を教えてあげる」と言えば、彼はその顔にぱっと花を咲かせて「本当かい!?」と大声で確認を取った。
背の高い彼が芝生の上に腰を下ろしているから、首元にネクタイをかけることは簡単にできた。
私は立ち上がり、彼の首元でひょいひょいとネクタイを締めていく。
スリザリンの私が赤色のネクタイを手にしているという事実は、私を少しだけわくわくさせた。
「こんなことをしたら首が締まってしまうよ?」
本当にネクタイというもののお世話になったことがないらしく、彼は見るからに狼狽しつつそのようなことを言う。
ケラケラと笑いながら「大丈夫よ、私を信じられない?」と告げて、その一拍ほど後にきゅっと緩く首を絞めてやろうと思っていた。
そうすれば彼は苦しそうに目を細めて、私はささやかな復讐ができたことにいよいよ満足する筈であった。
けれどもその「一拍」の間を許すことなく、彼はふわりと微笑んでこのようなことを、口にした。
「まさか、信じているよ」
信じている。
そのような信頼の文句を、出会ったばかりの、しかもこんな人間に向かって口にするこの男は、やはりどこまでも異常であった。
そして、そんな異常な男の言葉に、救われたような心地になってしまっている私も、いよいよ異常になり始めていたのかもしれなかった。
『勉強や読書を好きな子は、寝坊しちゃいけないの?』
周りの連中は勝手に期待する。模範的で在れと、礼儀正しく在れと私に強いる。
私の粗暴さ、豪胆さ、怠慢、臆病、そうした「優等生」らしからぬものが認められたことも、許されたことも、殆どない。
勉強は好きだ。本を読むのも大好きだ。でも、それだけなのだと、誰も認めてくれなかった。誰も許してくれなかった。
「優等生」で在らなければいけなかった。
だって、そうしなければ、彼等は去って行ってしまう。幼馴染も、母も、私を知っている人間全てが、きっと本当の私に絶望する。
それがとてつもなく恐ろしかった。
スリザリンを嫌っていたのは、そんな風に隠していた自分を暴かれてしまいそうだったからだ。
私はスリザリンの一員なのだと、認めたくなかった。それは同時に彼等の落胆と絶望を集めることに繋がる。皆の期待を裏切ることに繋がる。
そうしたら、誰がこんな私の傍にいてくれるというの?誰が私を認めてくれるというの?
「トウコ、またキミに会えるだろうか?」
ああそれなのに、彼は屈託ない笑顔で笑い、私が一番欲しかったものをなんてことのないように差し出すのだ。
2013.9.9
2017.12(修正)