食べる必要もなく、眠らなくてもいい。時を止めたまま存在し続ける彼等のほとんどは、厄介なことに、生者との会話を生活……もとい、霊活の楽しみとしている。
若くしてその命の灯が消えてしまったような人ならともかく、ごく普通に天寿を全うしたような存在でさえ、この魔法界では当然のようにGhostと化し、
まるで此処が第二の人生の舞台であるかのように振る舞い、食事や睡眠を必要としない便利な生活を満喫しながらも、
やはり生きていた頃が懐かしいのか何なのかはよく分からないが、とにかく生きている人の話を聞きたがるし、ちょっかいを出したがるし、煩く喚き散らしたがるのだ。
ただ、その生者というのも、誰でもいい訳ではない。
何故ならホグワーツに留まるGhostを「全ての生者が知覚できる訳ではない」からだ。
Ghostは「自分を見てくれる相手」を探している。自身を認識しない生者の傍で何をしたところで面白くないのだから、当然である。
……此処まで書けばお分かりいただけるだろう。「見える」貴方は彼等の格好の餌食となるのだ。
命、および質量を持たない半透明の憐れな魂は、生きている貴方と関われることこそを自己の喜びと確信して、貴方を徹底的に妄信する。
貴方に付きまとい、貴方にちょっかいを出し、貴方の学園生活を台無しにしてくれるに違いない。
もし貴方がまっとうなホグワーツライフを謳歌したいのであれば、彼等の存在など無視することだ。
もう、手遅れかもしれないけれど。
*
ホグワーツに入学して2か月が過ぎた。私の友達は未だに、パートナーポケモンであるチコリータのみであった。
ジョウトではただ「霊感が強く、お墓やお寺などで寒気や視線を感じやすい」だけであった私が、
魔法界のホグワーツに足を踏み入れた途端、その体質によって足を縛られ身動きが取れなくなってしまう。
同じ寮の子達は私のことを何か異質なものを見るように笑っているし、たまに話し掛けてくれる子がいても、その会話はGhostに介入により中断されることが殆どだ。
こんなにも賑やかな、霊感が皆無な人に比べるととんでもなく多い数の人型を見ている私の空間において、私はいつだって一人だった。
9月や10月にはその寂しさに耐え切れなくて、一人でベッドの中で泣いたりもした。
……泣いている私にもGhost達は容赦なく話しかけてきたので、この時の涙は私の心を楽になどしてくれなかったのだけれど。
しかし、人間は辛いことが習慣化するとその感覚を麻痺させるように出来ているらしく、
Ghostに話しかけられることも、ちょっかいを出されることも、クラスメイトに奇異の目で見られることも笑われることも、
全て、全て私の当たり前と化し、そうしたことに心を動かすことさえ馬鹿らしくなってしまっていた。
私の心は迫り来る冬のように冷え切っていて、それでいてひどく穏やかだった。
毎日は同じように過ぎていき、そこに期待も不安も抱くことを忘れていた。最低な平穏とは、きっとこのような状態のためにある言葉なのだと思う。
「彼女」と出会ったのは、そんな11月の終わりのことだった。
*
私はよく、このホグワーツで迷子になる。
ホグワーツの造りが複雑なことに加えて、私の方向感覚もそれほど優れている訳ではなかったから、道に迷うことは日常茶飯事だったのだ。
今日も今日とて魔法史の教室に行く為の階段を見逃してしまった。見逃したというのは他でもない、Ghost達が多すぎて廊下や階段の構造を捉えられないからだった。
そういう時には生きている人の姿を探して、遅刻を免れるために道を尋ねるようにしている。
レイブンクローのネクタイをしていない人の方がいい。加えて年の離れた先輩である方がいい。
詰まるところ、私が「レイブンクロー1年生の変な女の子」であると知らない人の方が、都合がいいということだ。
「変な子に話しかけられた」という嫌悪感が表情に現れ出るあの瞬間が私は怖かった。できることなら、嫌な思いをすることは避けたかったのだ。
さて誰に尋ねるべきだろう、と人気の少ない廊下を見渡していた私は、一人の女の子を見つけた。
背格好からして私より1つか2つ年上だろう。しかし華奢な体つきと青白い肌は彼女を随分と幼く見せた。
レイブンクローのネクタイをしていて、その手元には私が持っているものと同じ、魔法史の教科書があった。
私を知っているおそれがあるそのネクタイの色に一瞬怯んだけれど、
周囲には最早ゴーストの半透明の姿しか見当たらず、他に生きた人の姿をのんびりと探していれば本当に遅刻してしまいそうだった。
「あの、すみません」
意を決して掛けた声だったけれど、彼女はこちらを向いてはくれなかった。
きょろきょろを辺りを見渡すばかりだったそれは、いつもの私の仕草に似ているような気もした。
どのGhostが声を掛けてきたのかと、無数の半透明の中で声の主を探すための、あの視線の彷徨い方。
まさか、この子にも私と同じ数だけのGhostが見えているのだろうか。だから今の私の声をGhostのものだと勘違いして、そうして、宙にばかり視線を向けているの?
「もしかして、レイブンクローの一年生?」
「!」
彼女は驚いて教科書を取り落とした。それを拾うこともせずに、ただその目を見開いてこちらをじっと見つめている。
代わりに私がそれを拾って渡すと、彼女は針金細工のように頼りなく細い手を伸べてそれを受け取った。
指先が僅かに触れた。氷のような、とても冷たい手をしていた。
「ありがとう」
消え入るような優しいメゾソプラノだった。
お礼の言葉を言われたのは本当に久しぶりで、思わず私は笑顔になっていた。
「ねえ、魔法史の教室に行きたいんだけど、何処にあるか知っている?」
すると彼女は小さく頷いた。一緒に行ってもいいかなと申し出ると、彼女は微笑んだ後で私に背を向けて歩き出した。
カツカツと響く二つの靴音がやけに大きく聞こえた。それ程にこの廊下は静かであり、その沈黙を破るための言葉を彼女は紡ごうとしなかった。
この、同じ色のネクタイを締めた二人が歩いているという現象を誰かが見たのなら、その誰かは私達のことを「友達」と見てくれるのだろうか、
……なんて、この2か月ですっかり冷え切ってしまったはずの私の心が、みっともなくそんな夢を見てざわついた。
そんなことを夢見てしまう程に、廊下を歩くだけのこの時間は心地が良かった。
クラスメイトのように嫌悪感を露わにすることも、誰かと顔を見合わせてくすくす笑うこともしない人物と一緒に歩いている。そのことがどうしようもなく嬉しかったのだ。
「迷っちゃったの?」
柔らかいメゾソプラノがそう聞いた。私は苦笑して頷き、彼女の隣に並んだ。
「此処、造りが複雑でしょう? それにGhostが沢山いるから、視界が上手く確保できないの」
彼女はただ優しく笑って頷いた。不思議がることをしない彼女はもしかしたら本当に、私並みに沢山のGhostを見てきた人間であるのかもしれなかった。
いずれにせよ、私の発言を全て受け入れてくれるようなその態度が嬉しくて、私はついつい饒舌になってしまったのだった。
「だってあの人達、酷いんだよ。自分の話を聞いてほしいからって付き纏われるの。授業中だって妨害してくるし、私の寮室にまで入って来るし。
私はもっと楽しい学園生活を過ごしたかったの。でもGhostのせいで全部台無し! Ghostなんて大嫌い」
「そうなんだ、大変だったね」
「ねえ、貴方にもGhostが見えるの? 貴方も、私と似たようなことで悩んでいたりするのかな」
「……確かに私には沢山のGhostが見えるよ、今も大勢いるよね。でもGhostには私が見えていないみたい。だから話しかけられたことは一度もないかな」
Ghostに認識されないような特殊な霊感。そのようなものが存在することを、けれども私は不思議な程にすんなりと受け入れてしまっていた。
「いいなあ、羨ましい」と口にしながら、その奇怪な現象の一切を疑うことをしなかったのだ。
だって、Ghostのことを全く知覚できない人間や、半透明の姿は見えるけれど声は全く聞こえないという人だっているのだ。
霊感はこの魔法界における厄介な個性の一つであり、彼女のような個性があることは極自然なことであるように思われたのだ。
そして、そうした奇怪な現象よりも何よりも、彼女に「私と同じ数だけのGhostが見えている」という事実の方が私の心を揺さぶった。
心臓が破裂しそうな程に大きく揺れていて、私の胸を突き破って飛び出してきてしまいそうだった。
息を飲んだ。再び呼吸をするまでに時間を要した。彼女がこちらを覗き込みながら「大丈夫?」と尋ねてくれた。綺麗なアンバーブラウンの瞳に私が映っていた。
私が見ている景色と同じものを、この女の子はその綺麗な目で見ている!
この人と私の世界は、共有されている!
「私と友達になって!」
私は彼女の手を取りそう叫んだ。彼女は目を見開いてただ沈黙し、おそらくは顔を赤くしているのであろう私を静かに見ていた。
それは、6面あるサイコロを3つ振って、3つとも6の目を出すような試みであったに違いない。
確率的には成功しないこともないけれど、普通に考えて成功するはずのないような、そうした祈りであり、願いであり、夢。
そうしたものを見てしまう程度には、私は必死だった。この瞬間を逃すまいとただ必死だった。
だってこの人しかいないのだ。2か月以上このホグワーツで暮らしてきて、彼女の他には誰一人としていなかったのだ。
私と同じ景色を見てくれる人。私と同じように多すぎるGhostにうんざりしてくれる人。私のことを笑ったり気味悪がったりしない人。私の世界を共有してくれる人。
冷え切っていたはずの、一人に慣れていたはずの心がどろどろに溶けていくのを感じていた。私は祈るように目を伏せた。
もう一人は、嫌だった。
「私でよければ、是非」
都合の良い幻聴に顔を上げれば、幻覚ではなく確かに其処にいる彼女が笑って頷いてくれていたので、
あまりのことに私はもう、何が何だか分からなくなってしまったのだ。
彼女は私が変わり者だということを知らないのかしら。皆に気味悪がられていたり、変人扱いされていたりしている人間だと分かっていないのかしら。
知っていて、頷いてくれたのかしら。それともこれは彼女の無知が故の無謀な同意だったのかしら。
……そんなことはきっと、どうでもよかったのかもしれない。
彼女が私の懇願を聞き入れてくれたことが重要なのであって、そこに至る過程の純度は問題になどなりようがなかったのだから。
「本当に? 本当にいいの? 私と友達になってくれるの?」
何度もそう尋ねた。彼女はその度に微笑んで頷いてくれた。
ずっと1人で、独りで、ホグワーツという名のGhostの巣窟を生き抜いて来た私には、そんな風に笑う彼女が天使のように見えた。
彼女の細さや肌の白さ、冷たい体温はどれも人間離れしていて、天使という形容を引っ付けるに足る人物だと思った。
そして、彼女は私を、私という異質な存在を拒まない。
このような友達に出会えた、その喜びを踏まえれば、これまでのGhostに苦しめられてきた日々のことなど全て帳消しになるような気がした。
もっと苦しまなければ、この喜びに釣り合いが取れないのではないかと、そうした馬鹿げたことさえも考えてしまったのだった。
「私はコトネっていうの。貴方の名前は?」
「私は、××」
初めて出来た友達は、透き通る氷を思わせるようなメゾソプラノでその名前を紡いだ。
2013.11.30