夜露を飲むリリー

※原作の設定上、死や流血の描写が多分にあります。ご注意ください。

13歳の誕生日に両親を殺された少女、シェリーは、彼女の絶望に呼ばれる形で姿を現した悪魔、フラダリと契約を交わす。
「私を必ず守り抜いて」「私の命令に従って」「私に嘘を吐かないで」「全部、最後まで守ってくれたなら、私の魂をあげるから」
たった三つの約束事、簡単だと思われていたその契約を、しかし順守するにはとても骨が折れた。人間というのはそれ程にか弱く、口にする言葉は面妖で複雑で、しかも嘘吐きなのだ。
そんな彼と彼女は1年後、立派な女伯爵とその執事として、英国の裏社会を取り締まる「女王の番犬」となるのだが、これはそんな二人の暮らしが今のものになる、もっと前の話。

2階の窓が乱暴に開け放たれる。白いネグリジェを着た小さな女主人は、憎悪を込めた視線でフラダリを鋭く射る。
彼女はその細腕で何かを引っ掴み、庭先に立つ彼の方へと投げてきた。彼女を案じる「親友」が送りつけてきた、オルゴールだ。
血溜まりにべしゃりと落ちたガラス製のそれは、彼女の心のように小気味よい音を立てて粉々になった。月明かりがその破片を宝石のように煌めかせた。

「嫌!やめてやめて!煩い!」

フラダリの周りには、彼女への刺客と思われる男たちが呻き声を上げて倒れている。一人一人の声はか弱いものでも、数十人と集まればそれは不気味に大きな呪詛の声となる。
中には最後の力を振り絞って銃口を彼へと向けるものもあったが、彼はそれを、宙を舞う埃を捕えるかのような優しい手つきで受け止め弾き返す。男の悲鳴が一層大きくなる。

「もっと静かに殺してよ!眠れないじゃない!」

フラダリがさっと両手を一薙ぎすれば、何十人という人間の腕が勢い良く吹き飛ぶ。大勢の凄まじい悲鳴は、しかしもう一度同じ動作を繰り返せば首ごと「なかったこと」になる。
彼にとって人の腕を折ることは、足元の小枝を折るようなものだ。彼にとって人の命をなかったことにするのは、蝋燭の火を吹き消すように容易いことだ。
少女はそれを解っている。自分を捕えようとする男たちの首が一斉に砕け散ったあの日のあの瞬間から、少女は自らが手にした力の大きさを知っている。
だからこそ、彼女はフラダリの持つその「力」で、蝋燭の火を消すように命を吹き消せと命じる。音を立てずに命を絶やせと当然のように口にする。
命が「生きたい」と煩く瞬く瞬間こそが最も美しいというのに、彼女は蝋燭の火を吹き消すかのような静かな惨殺を望むのだ。命の瞬きを悉く拒絶するのだ。

彼女は命の軽さを知り過ぎた。彼女は命の重さを忘れすぎた。その目を曇らせたのは他でもない自分の大きすぎる「力」であると、解っていたからフラダリは少女を咎めなかった。

そうした彼女を見上げるこの瞬間を、しかしフラダリは気に入っていた。「申し訳ありません」と頭を下げながら、それでも彼はいよいよ上機嫌であったのだ。
彼女が乱暴にバタンと窓を閉めてから、フラダリはもう一度、仰ぐように手で宙を薙ぐ。
血溜まりに呻く呪詛の声はぱたりと途絶えた。美しい命ほど、呆気ないものだ。

「片付け」を終えてから自室へと戻れば、再び何かがガシャリと割れる音がした。彼女が気に入っていたティーセットの音だと、解っていたから彼は早足で廊下を歩いた。
そう、彼女は「こんな騒ぎ」がなくとも、毎晩のように目を覚ますのだ。
彼女が「眠れない」のは、彼が外で煩く動き回っているからではない。彼女が恐怖しているのは、外で聞こえる刺客の悲鳴や呻き声のせいでは決してない。

静かな夜だ。彼女を「煩く」しているものなど何もない。何処にもいない。けれど彼女は眠れない。いつものことだ。

努めて静かにドアを開けた筈なのだが、恐怖により感覚の研ぎ澄まされた彼女はその僅かな音でさえも拾い上げたらしく、いよいよ錯乱した様子でフラダリを拒む。
先程の刺客達の断末魔を「煩い」として憤った彼女が、しかしその悲鳴よりもずっと痛烈で激しい声音をか細い喉から絞り出す。

「来ないで!」

金切り声がフラダリの鼓膜を叩く。

「わたしです、フラダリですよ。そんなに震えてどうしました?」

「皆が私を睨んでいるの。私を呼んでいるの。私が馬鹿だから、臆病だから、」

彼女がこの暗闇に見る幻覚の中には、おそらく先程の、血溜まりに倒れた男たちの顔も入っているのだろう。
「もっと静かに殺して」と大声で怒鳴った彼女は、しかし静かになるとその罪の重さに耐え切れなくなり、代わりに呆気なく正気を手放す。
覚束なくなった彼女の意識には、大勢の死人が登場する。生きている彼女を睨み、愚かしく歩む彼女を呼ぶ。しかし残念ながら、その姿をフラダリは見ることが叶わない。
この幼い少女はフラダリのことを万能だと思っているのかもしれないが、この男にだって見えないものは確かにあるのだ。

「此処にはわたしと貴方しかおりませんよ、お嬢様」

「嘘よ、嘘だわ。だって、」

「わたしは嘘など吐きません。貴方がそう約束されたのですよ、お忘れですか?」

膝を折ってそう問い掛ければ、怯えの色を瞳孔いっぱいに満たした彼女の、涙でぐしゃぐしゃになった顔が、細い燭台の光に照らされた。
そのか細い喉から零れる言葉で、何百人という人間を死に追い遣って来たというのに、目の前で人が死のうが狂おうが全く意に介さないような涼しい表情をしていたというのに、
暗くなると少女の気高い意識は、彼女の執着を裏切って遥か遠くへと還っていく。あの刺客達の命と同じく「なかったこと」になっていく。

「傍におりますよ。わたしが貴方を守ってみせます」

極端な二面性を持つこの少女に振り回されることにはもう、この数週間ですっかり慣れてしまった。

「眠れないのでしたら、これを聞いてみては如何です?貴方もお気に召していたではありませんか」

そう告げてガラス製のオルゴールを取り出し、震える少女の眼前にそっと差し出す。彼女が両手をそっと伸べて受け取り、ネジを回せば、ささやかなメロディーが暗闇に木霊する。
彼女はきっと、自らが怒りに任せて投げつけた物体がこのオルゴールであったことを忘れている。けれど別に何の問題もなかった。オルゴールは壊れてなどいなかったのだ。
壊れたという事実さえ、彼が飲み込めば「なかったこと」になるのだから。

花の歌、と少女の唇が僅かに動く。海の色をしたガラス細工を折れそうに頼りない指先で何度も撫でて、再びボロボロと涙を零す。
けれどもう、先程のような悲鳴を彼女は上げなかった。代わりに幼子を連想させるような拙い嗚咽が喉から漏れ出た。
その合間にごめんなさい、ごめんなさいと繰り返しながら、誰に向けるでもない言葉が夜の闇にふわりと解き放たれる。

「私を嫌わないで」

美しい、と思った。呆気ない命ほど、美しいものなのだ。

フラダリは、彼女の壊したオルゴールやティーセットを、一つの傷もなく直すことができる。けれどこの少女の命が絶えてしまったら、彼には直すことが叶わない。
彼は何十キロも離れた先の音を拾い上げることができる。けれど目の前の暗闇に少女が見る、何十人という死人の顔を見ることはできない。
銃弾を指先でひょいと摘まんであしらったりすることなど彼には造作もないことであるが、彼女のか細い喉が紡ぐ言葉からはどう足掻いても逃れることができない。
そうした、人とそうでないものの境を行き来する存在だった。

少女は自らの信念と復讐のために、涼しい顔で何百人という人間を「殺して」と命じる。しかし彼女の臆病な心は、夜の静けさの中に溶けだして彼女の首を絞め始める。
眠れないからもっと静かに殺してと怒鳴る彼女は、しかしたとえフラダリが音もなく刺客達を死に追い遣ったところで、毎晩のようにこうして目を覚まし、見えないものに怯える。
誰も屋敷に入れたくないと、親族や親友の訪問を悉く拒絶してきた彼女は、しかしそんな彼等の誠意の象徴であるオルゴールを抱き締めて、ごめんなさいと祈るように繰り返す。
誰に嫌われても構わない、私はそうやって生きていくのだと、鉛色の美しい目で毅然と告げる少女は、けれどその同じ喉で「私を嫌わないで」と懇願する。
そうした、人という美しい命を極めた少女だった。

「ありがとう」

そうして彼女の嗚咽が止まり、オルゴールのささやかな音色だけが響く部屋から、フラダリが出ていこうと踵を返したその瞬間、少女の覚束ない音が彼の鼓膜を貫く。
不気味な言葉を奏でた少女は、ライトグレーの不思議な瞳を瞬かせて、振り返ったフラダリを真っ直ぐに見上げる。

「オルゴールを直してくれて」

「!」

「呆れたでしょう、私のことを、」

再び彼は膝を折る。言い聞かせるように「いいえ、決して」と告げれば、それでも強情な彼女は首を振って俯く。
オルゴールが最後の音を奏でて止まる。再び訪れた静寂を、しかしもう少女は恐れなかった。
小さな手からオルゴールを取り上げて枕元のチェストに置く。床に落ちた布団の埃を払ってから彼女の肩にそっと掛ける。
燕尾服の裾をぐいと掴まれたので、「如何されました?」と尋ねれば、少女はようやくふわりと笑って右手を差し出す。
フラダリは白い手袋を取り、赤いユリの花が刻まれた手の甲を差し出す。彼女の掌にも同じ、白いユリの印が刻まれている。
二つの契約印を繋げるように互いの手を重ね合わせれば、淡い光が夜にほのめく。

「おやすみなさい」

そうして少女はフラダリの手を握ったままに目を閉じる。

『私を必ず守り抜いて』『私の命令に従って』『私に嘘を吐かないで』これが、少女とフラダリを繋ぐ三つの契約である。彼はこの契約を遵守しさえすればいい。
彼と彼女が交わした契約の中に「私を嫌わないで」などというものは入っていない。
その、命令ではなく懇願の形をした彼女の言葉を、フラダリが聞き届けなければならない理由など、本来なら何処にもない。
にもかかわらず彼はこの姿で、この心で少女の傍に在るのだから、彼もまたどこまでも人間らしかったのだろう。
借り物の姿でしかなかった筈の「命」に馴染む自分の心がひどく滑稽だった。フラダリの呆れたような溜め息は、しかし誰に聞かれることもなく「なかったこと」になった。

少女の寝息が聞こえ始めてからも、フラダリは彼女の手を離すことができなかった。
このまま朝まで離さなければ、きっと目覚めた少女は凛々しい顔で冷たくフラダリを一瞥するのだろう。それでもよかった。それがよかったのだ。

2016.9.2
当サイトに置いてある全ての連載の台詞を覚えていてくださった翠子さんに、心からの感謝と敬意を込めて。

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