親愛ジャッジメント

第二鉱山を南に抜けたところにある草むらで、カブは白い毛玉のようなものを見つけた。
10センチにも満たない小さなそれは、びくともしないままに草むらの中に鎮座している。
誰かの落とし物だろうかと思い、ジョギングのペースそのままに草むらの中へと駆け寄ったのだが、そこでカブはあまりのことに息を飲むこととなる。

ガラル地方の有名人、若干14歳でチャンピオンになったあの女の子が、草むらに身を沈めるようにして倒れていたのだ。

さっと血の気が引いたが、そんな彼の驚愕を余所に、少女は心地よさそうに寝息を立てるばかりであった。
どうやら体調不良や怪我などで身動きが取れなくなったという訳ではなく、「昼寝」の感覚でこの草むらに体を沈めていただけらしい。
白い毛玉に見えたものは、少女が好んで着用しているニット帽のボンボンであった。
その寝姿に特に異常がないことを確認してから、カブは大きく溜め息を吐き、草むらへと屈みつつその肩を揺さぶった。

ユウリ君、眠るならテントの中にした方がいいよ」

「ん……?」

「君のポケモンの強さと、君の中身の体の強さは別物だ。気性の荒い野生ポケモンに突然攻撃されたりしたら、ひとたまりもないだろう」

何度か声を掛けたのだが、彼女は目を閉じたまま、ぐずるように眉をひそめたり首を傾けたりするだけで、一向に覚醒の兆しを見せなかった。
やれやれと苦笑しつつ、年頃の女の子を運ぶにはどういった方法が適切だろうかと悩みつつ、彼はボールからウインディを出して、保護を手伝ってもらうことにした。

ポケモンバトルをしている時の、狂気さえ感じさせるギラギラとしたあの目は瞼の裏に隠されている。
こうして眠っているとその顔は年相応どころか、もっと幼くさえ見えてしまう。
普段からこれくらいであるともう少し取っ付き易いのだけれど、などと思いながら、カブは少女を抱き上げてウインディの背中に乗せる。
彼自身は草むらに置き捨てられていた少女のリュックを運んだのだが、……正直、こちらのリュックが予想外に重く、いいトレーニングになってしまった。

熟睡の限りを尽くしていた少女が目を覚ましたのはそれから1時間後、エンジンスタジアムの脇にある噴水前でのことであった。
風で木の葉が擦れる音、噴水のやや不規則な水音、遠くで聞こえる子供達の声。
それらに囲まれて、むしろ傍にいたカブまでもが眠ってしまいそうだったのだが、完全に睡魔へ飲まれる直前のタイミングで彼女の目が開いたのは僥倖であったと言えよう。

「おはよう」

「カブさんじゃないか、おはよう。……おや、私はこんなところで眠っていただろうか」

目を擦りながら起き上がる。大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた好奇心を孕んだ目が徐々に大きくなり、こちらに焦点を合わせてくる。
きょろきょろと周囲を観察した少女は、此処が草むらの中ではなくエンジンスタジアムの庭であることに気付いたらしい。
寝起きの顔が一気に覚醒し、すぐにさっと青白くなる。おや、とカブは思った。これまでに見たことのない表情、まるで子供のような幼さを含んだ顔色だったからだ。

「待ってくれ、私は草むらをベッドにして眠っていたはずだ。まさかジョギング中の貴方が、熟睡している私を此処まで運んで、私が起きるのを今の今まで待っていた、なんてことが」

「そのまさか、だということになるのかな」

にっこりと微笑みそう答えると、少女は更に狼狽え始めた。おやおや、と微笑ましく思っていたカブに、少女はいつも以上の早口でまくし立てる。
貴方にそのような手間をかけさせるつもりはなかったのだ、とか、私の体重はそこまで軽い訳ではなかったはずだが腰など痛めていないだろうか、とか、
トレーニングを中断させてまで私のお守りをする必要はなかったのに、とか、涎を垂らすなどして無様な寝顔を晒していなかっただろうか、とか。

カブはその全てに律儀に答えた。
「気にしなくていいんだよ」「いや、軽かったから問題ないさ。ぼくもウインディも全く疲れていないよ」
「丁度いい休憩になったよ、ありがとう」「無様ではなかったよ、年相応の寝顔で可愛らしくはあったけれど」
そうして一つ返すごとに少女の顔が歪んでいく。
晴れの多いガラル地方を冒険してきたとは思えない程に白いその肌が、カブの言葉が終わるタイミングで一段階ずつ赤みを増していく。
その変化がいよいよ子供らしいものであったから、なんとも年相応なことじゃないかと思えたから、それなりに、嬉しくなってしまったのだった。

「もう、気にしなくていいと言っているのに、君も強情だね。
君は少し、大人へ甘えることを覚えてもいいんじゃないかな。チャンピオンとはいえまだ14歳かそこらだろう? そこまで気を張る必要はないよ」

「甘え? 家族ならともかく、貴方のような人に馴れ合いや甘えの許諾を求めるのは不適切ではないかな」

顔こそ赤いものの、いつもの調子に戻ったらしい彼女は気取った調子でそのようなことを口にする。
何とも立派なことだ。強情なことだ。そして少しだけ、寂しいことだとも思えてしまった。

「適切か不適切か、そのような難しいことは大人になってから考えればいい。君は「したいか」「したくないか」だけで決めていいんだよ。
本当に「不適切」なことであれば、ぼくが、ぼく達大人が止めてあげるから。君はまだ沢山、間違えられるところにいるのだから」

でも、大人になってからも執拗に間違おうとするのはオススメしないよ。かつてのぼくのように、強い風当たりに晒されることになってしまうからね。
そう付け足そうかどうか迷っていると、またしても少女の顔色が変わった。
それは青ざめている、というのでも、赤面している、というのでもない。何かもっと別の感情によって、矜持の類がじわっと溶かされてしまったかのような、そうした顔色だった。

「……貴方のような父を持った子供は幸せだろうね」

溶けかけたような顔でそのようなことを言うものだから、流石にカブも焦りを露わにし「えっ」と声を出してしまった。
彼女もまた、一呼吸置いた後で自らの発した言葉の不自然さに気が付いたのだろう。困ったように眉を下げつつ、両手をパタパタと振って否定の意を示した。

「いや、違うんだ。私の父は立派な人だよ。遠くで働いているから滅多に戻ってこないけれど、それでもたまに会えばとびきり優しくしてくれる。私は父が大好きだ。
でもそういう、今の貴方が語ったようなこと、おそらく私が成長していく上でとても大事なことというのを、父は教えてくれなかったから。そのような時間は、なかったから」

はて、フィールドを挟まない彼女との会話というのは、こんなにも穏やかで心地良く進むものだったのだろうか。
それともこれは、寝起きであり、こちらに負い目を感じている今だからこそ起こっている、小さな奇跡に過ぎなかったのだろうか。

「……ねえユウリ君、ぼくも子供になっていいだろうか」

「貴方が? ……ふふ、いいよ。どうぞ?」

自らの弱み、自らの寂しさ、そうしたものを開示する彼女の目は、勝利を求めるあの頃のようにギラギラとしてはいなかった。
置き忘れられた紅茶の中身のように、ただ凪いでいた。ただ、寂しそうであった。
だから、このようなことを言ってしまったのかもしれなかった。

「ぼくは君の父ではないし、君がぼくに父の姿を見るのは、はっきり言って「不適切」だよ。君はそのまま、君の本当のお父さんを大事にするべきだ。大好きでいるべきだ。
……でもねユウリ君。ぼくはそうした大人の意識以上に、今、君の父で在れたらどんなにかいいだろうって、思ってしまっているんだ」

勝利を貪欲に求め、パートナーのポケモンと共に勝ち進むことを喜ぶ彼女の姿はたいへん凛々しく勇ましいものであった。
またその姿勢や仕草や口調からも、彼女がバトルの場においてだけでなく、日常的にそうした「飄々とした強さ」でガラルを駆けているのだろうということは用意に想像が付いた。
それが彼女の「本質」であり、彼女のありのままの姿であるのなら、カブはこのように出しゃばりなどしなかっただろう。
そのまま懸命に励みたまえよと笑顔で応援すれば済むだけの話であったのだろう。

「君の心を軽くできる言葉、君が君らしく在れる言葉を山ほど贈ってあげたい。君が疲れてしまった時、さっきみたいに抱き上げて労ってあげたい。ぼくは今、心からそう思っている」

けれども、そうではないのだと今、知ってしまった。彼女の弱みを、彼女の寂しさを、知ってしまった。
彼は自分にも、この少女のためにできることがあるのかもしれないという事実に、……そう、まるで子供のように喜んでしまっていたのだった。

「困ったなあ、嬉しい。とても嬉しい。……それじゃあ私も子供だから、同じようなことを言ってもいいだろうか」

「いいよ、どうぞ?」

先程のカブの言葉をなぞるようにして彼女はそう尋ねた。
快諾の意を示した彼を彼女は真っすぐに見上げて、そして。

「先程は例として「父」の名前を出しただけで、私としてはその名前に拘るつもりは更々ないんだ。でも私はどうにかして貴方と、家族に似た繋がりで在りたいと思っている。
だってそうしたら、いつも、いつでも、こんな幸せな気持ちに、嬉しい気持ちになれるんだろう? 私はそれが欲しいよ、カブさん」

その言葉に、カブは答えることができなかった。
適切か、不適切か、したいか、したくないか。そうした一切を考えることができないままに、ただ手を伸ばして少女の頭を撫でた。
凪いだ紅茶の色がすっと細められる。ありがとう、と小さく呟かれたそれを、カブも嬉しいと思ってしまっている。それと同時に少しだけ、恐ろしくなってしまっている。

ああ、身勝手なことだなあ!

カブはそう思った。この少女に対してではなく、自分自身に対してそう思った。
つい先ほどまで彼は、少女がもっと子供であればいいと思っていた。年相応の無邪気で我が儘で泣き虫な面を、もっと表に出せばいいのにと本当にそう思っていた。
それが君の力となれるなら、君の癒しとなれるなら、君が未来を創るための手助けにぼくがなれるのなら、それは素敵なことじゃないかと、考えていた。

ああ、けれど今、本当にそうなってしまった今となっては、君のその笑顔に、早く大人になってしまった方がいいよとさえ告げたくなってしまっている。
ぼくのことなど放っておいて、早く立派になってしまいたまえよと、言いたくなってしまっている。

でないとぼくが、君を本当に逃がしてあげられなくなるかもしれないから。

2019.11.24

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