炭と菫

(対ビート、1戦目直前あたり)

ウールーのようにふわふわとした美しい白磁色は、炭を被り酷い有様となってしまっていた。
鮮やかなレンゲの花を思わせるコートもくすんでいるように見えるのは、本当にそれが汚れているからか、それともこの鉱山に漂う空気が未だに煤色であるせいだろうか。

聞いているこちらが心配になってしまいそうな程に大きな咳を繰り返している。
私と同じくらいの大きさをした両手で口元を覆う、その隙間から未だにその苦しそうな音は零れ続けている。
サイズの合っていない、大人が付けるような大きな金色の腕時計が、彼の咳に合わせて右の手首でカタカタと揺れている。
……右の手首。彼はもしかしたら左利きであるのかもしれない。どういった風にボールを投げるのだろう。見てみたいと思った。

「どうしてあなた、平然としているんですか!」

「いや、もう慣れてしまったよ。私は自慢じゃないけれど、カレー作りで成功したことがただの一度もないんだ」

咳の合間にそのような文句を口にした彼へ私は暢気に言葉を返す。このようなことは日常茶飯事であり、私にとっては最早日課にも等しい光景であった。
ちゃんと材料は入れている。火だってしっかりと起こしている。掻き混ぜることだって全く怠っていない。
にもかかわらずこの有様、何をどうすればこうなってしまうというのか、作った当人である私にさえさっぱり分からない。
けれども折角の米やカレールーを無駄にする訳にもいかない。木の実だって、ホシガリスの食事を邪魔してまで譲り受けた貴重なものだ。
それに炭の匂いがしようとも、カレーにあるまじき粘り気を持っていようとも、完食すればお腹は満たされるし気力も復活する。

ただ、申し訳ないのはそうした私のカレーを食べているポケモン達だ。
このままでは私のジメレオンは、炭の味のしないカレーを食べずに冒険を終えてしまうかもしれない。

しかし、これまではワイルドエリアなどの広い場所で具材を炭に変えてきたのみだったため、他の誰かに迷惑をかけるようなことはしていなかった。
だからこそ私は、心置きなく失敗することができていたのだ。
ほぼ炭のカレーを食べて「うん、今日も香ばしい味だ」と苦い顔で笑う私と、それを許してくれるポケモン達。それだけならまだ許されただろう。
けれどもこれは駄目だろうな、ということは、愚行を繰り返し続けてきた私にも察することができた。この少年の呆れ、憤りはもっともなことだ。

「あなたがどのようなダークマターで髪や服を炭の色にしようとも味蕾を壊そうとも、ぼくには何の関係もありませんがね、ただこのような場所で作るのはやめてくれませんか。
ガラル鉱山は洞窟のようなものです。空気の逃げ場がないんですよ。普通のカレーを作ってくれるならともかく、これではもうテロと相違ありません」

「ああ、だから被害が拡大してしまったんだね。鉱山の中でカレーを作るのは初めてだったから、このようなことになってしまって私も少し驚いていたんだ」

「当然です、このようなことを既に何度も繰り返していたとしたら重罪ですよ。ジムチャレンジの推薦を取り下げられてもおかしくありません」

鞄から水玉模様のタオルを取り出す。「おいしい水」の蓋を開けて、少し濡らしてから彼に渡す。
炭で汚れた眉がくいとひそめられたけれど、特に躊躇うことなく受け取って「最低限の気遣いはできるんですね」と、彼なりの礼らしき言葉を口にして、目元や頬を拭う。
肌はタオルでどうにかなりそうだけれど、その髪は一度風呂にでも入らなければ元の色には戻ってくれそうにない。
ジムチャレンジの開会式で見かけただけだったけれど、その美しい白磁色は印象的で、人の髪とは思えないふわふわとした揺れ方とも相まって、殊更、印象に残っていたのだった。

そんな彼は、タオルの下から鋭い目を覗かせて私を睨み付ける。
強烈な紫だった。道端に咲く美しい菫を手折って、掌の中で握り潰せば、このような色になってしまうのかもしれなかった。

「ぼくへの気遣いができる点は見直しましたが、少しはあなた自身のことも気にしてはどうです。酷い顔ですよ」

「ふふ、そうだろうね。そうしたいのは山々だけれど、生憎タオルはその1枚しか持ち合わせがないんだ」

「……」

菫を潰したような色の目が大きく見開かれる。そのような表情をすると、ああ、お高くまとっている彼も私と同年代の子供なのだと思われて、少しばかり嬉しくなる。
彼はわざとらしく大きな溜め息を吐いてから、紫の鞄に手を差し入れて品の良いハンカチを出した。
コートと同じ、六角形が重なったよく分からない模様が端に小さく刺繍された、白いハンカチ。
彼はそれを、とても嫌そうな表情で、「本当はこのようなこと、したくないんだ」と大きく顔に書いた状態で、私に差し出してきた。
その善意を拒む理由などあるはずもなく、私は炭で汚れた手を伸ばしそれを受け取る。ガーゼ生地のそれは指先にしっとりと馴染んで心地が良かった。汚したくない、と思った。

「迷惑を掛けてしまって本当に申し訳ない。そして、本当にありがとう。君は優しい人だね」

「優しい? ぼくが? そんな訳ないじゃないですか、そんな都合の良い観測、くだらないですよ」

都合の良い観測、確かにそうかもしれないと私は思う。
けれどもその程度の言葉になら頭を悩ませずともすぐに反論できそうだった。そして、今のこの雰囲気の彼ならそれを聞いても憤らないのではないかと思われてしまった。

「だって、このガラル鉱山には君の他にも大勢のトレーナーがいたのに、
この悪臭とどす黒い空気の層の中に突っ込んで私と私のポケモン達を助けてくれようとしてくれたのは、君だけなんだよ?」

「なっ」

「いや、他の皆さんを非難する意図はないんだ。このような場所で危険を察知したら周りのことなど気にせず、すぐに逃げるべきだ。彼等は何も悪くないよ。
むしろイレギュラーだったのは君の方だよね。炭で体を汚し、煙で喉を傷めることを顧みず私達のキャンプに突っ込んできてくれた君。今こうして私を叱ってくれている君。
……ねえ、そんな君に悪意を見るのは、なかなかどうして難しいことだとは思わないかい」

鉱山内に立ち込めていた煤色の空気は徐々に薄まり、私は明瞭な視界を確保できつつあった。
そんな中で、色白の彼が悔しそうに顔を赤くしている様子を捉えてしまっては、楽しい気持ちにならないはずがなかった。

鉱山でカレー作りを手酷く失敗するという愚行をはたらき、修行をしていたトレーナーの皆さんにも迷惑を掛け、今日の私は本当に散々である。目も当てられない。
けれども、ああ、どうしたことだろう。
私は、私だけの事情により、他者に与えた害の大きさをすっかり忘れて、今、「カレーを失敗してよかった」などと思ってしまっている。

『ちょっと! 大丈夫ですか、何があったんです!』
『おやその声、聞き覚えがあるね。もしかして、エンジンシティの開会式にいたジムチャレンジャーかな?』
『あなたは……い、いやそれどころじゃない。何をしているんですかこんなところで! 一酸化炭素中毒にでもなるつもりですか!』
『ほう、そんな中毒があるのか、知らなかったよ。君は博識なんだね』
『そんなことはどうでもいいから、早く来なさい!』

つい数分前の遣り取りを思い出して自然と笑みが零れるのだって、きっとその相手がこの少年であったからなのだ。
同じジムチャレンジに挑戦する、名目上の私の「敵」であり、「ライバル」である相手でなければ、きっとこのような楽しい気持ちにはなれなかった。
きっと彼だって、助けたのが「敵」であり「ライバル」になるであろう私でなければ、このような苦い顔などせずに済んだことだろう。
今日の私は運が良かった。そして、今日の彼は悉く不運であったのだろう。

「君も知ってのとおり、私はダンデさんの推薦でジムチャレンジに参加しているんだ。まあ、彼の弟であるホップのおまけ、みたいなものなのだけれどね。
一応、ユウリという名でまかり通っているよ」

「……ああ、やはりあなたがそうだったのですね。名前はユウリ、ですか」

「よければ、君のことも教えてくれないか。私をカレーの炭地獄から助けてくれた唯一無二の相手を、もっと詳しく覚えておきたいんだ」

「そのような覚えられ方は御免被ります。ぼくはリーグ委員長から直々に推薦を貰っていますので、あなたの残念な頭に詰め込むのは、こちらの名誉ある情報だけで構いません」

エッジの効いた発言に思わず肩を震わせて笑ってしまった。
けれども概ね彼の言う通りである。折角のカレーを炭にしてしまうどころか、なんとか中毒の害を彼にも浴びせるところだったのだから。
リーグ委員長に「無自覚なカレーテロリスト」として報告されることもなく、このような小さな嫌味で済ませてくれようとしているのだから、御の字、といったところだ。

「分かったよ、君のことはそのように記憶しておこう。リーグ委員長からの推薦を頂けた、おまけの私なんかよりもずっと立派なジムチャレンジャーだと、ね。
……ただ、区別化のための記号が必要だね。名前は教えてくれないのかな」

すると、少しばかり驚くべきことが起こった。

「ビート、といいます」

彼の目に在る菫が、先程まで掌で握り潰されたような暗い色をしていたはずのその花が、ほんの一瞬、ふわりと瞬くように咲いた気がしたのだ。

何が原因だったのだろう。私が彼の言葉に従順に従ったこと? 私が彼を「優しい」ではなく「立派」だと称したこと? 名前を尋ねたこと? それとも、他の何か?
分からない。分かるはずがない。彼のことなど分かるはずもない。
だって私達はたった今、無様なカレーの炭と煤によって引き合わされたばかりで、互いの素性や名前も今知ったところで、
ジムチャレンジャーとしての力量に関しては、今まさに彼がこちらに向けてボールを構えたことにより、明らかになろうとしているに過ぎなかったからだ。

分かるのは私のことだけだ。
私を炭と煤の空間から引っ張り出してくれた行動力のある彼の、ハンカチを貸してくれた優しい彼の、エッジの効いた発言を繰り返す高飛車で高慢な彼の、
……その目がこんなにも綺麗に輝く瞬間があることと、その名前が「ビート」であること、それを知っただけで私がこんなにも浮ついているという、その事実。
それが、今の私に受け止められる全てである。

「ところで、ねえビート」

「何です?」

「そのタオル、私のお気に入りなんだ。こちらの過失であるとはいえ、お気に入りを失うのはかなり惜しい。洗って、綺麗にして、また返しに来てくれるだろう?
次に会うときまでに、君にも食べられるようなカレーを作れるようにしておくから」

彼は、本日何度目か分からない眉の歪みを見せて、はあ、と見せつけるような大きな溜め息を吐いた。
左手で、外へと弾き出すようなサイドスローでボールを投げる。ああ、やはり彼は左利きだったのか。そうした些末な情報さえも、どうしたことだろう、嬉しいのだ。

さて、まずはこのバトルに集中しなければならない。
彼との再会の約束をそれとなく取り付ける算段は、勝利した後でゆっくりと立てることにしよう。

2019.11.23

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