160℃の約束で、さあ小指ごと灰になれ

(ED後)
ユウリが尋常じゃなく饒舌

「ガラル地方には薔薇が至るところに咲いているからね。否応なしに貴方のことを思い出してしまうんだよ。
ところで、その服はどう足掻いても貴方には似合わないものだと思っていたのだけれど、存外しっくりきているね。どうしたことだろう。
貴方のオフスタイルは随分と気の抜けたものだったから、あれと同じようなものだと私の脳は都合よく錯覚しているのかもしれないね。ふふ、ヒトの脳とは本当に面白いものだ。
……ああ、煩いかな? よく言われるんだ。私は殊勝な人間ではないから、貴方への差し入れなどは用意していなくてね、よく喋るこの身一つで来てしまった。申し訳ないね」

「いやいやとんでもない。元気そうで安心したよ、チャンピオン」

「おや、私の勝利をご存知だったとは光栄だな。ダンデさんは強敵だったよ、最後の戦いとしてこの上なく相応しい相手だった。私のポケモン達も満足しているよ。
私はポケモンバトルというものに過度の意義を見出したくはないんだ。
ただ愛するパートナーを信じて、最高のタイミングで技を指示して、互いの力を競い合って、認め合う。それで、ただそれだけでいいと思っている。
だからダンデさんとの爽快なバトルは本当に楽しかったし、逆に貴方との重苦しい戦いにはうんざりさせられたよ。あの日の貴方は最高に……みっともなかったね」

狭い部屋。冷たいパイプ椅子。頑丈なアクリル板。隅に立つ警察官。小さな窓から陽が差し込んで私の手元だけを照らす。アクリル板の向こうに、その光は届かない。
円を描くようにその板に開けられた小さな穴にはきっとペンの一本も通らない。
戯れに小指を突き立ててみたけれど、指の腹にぽつんと丸い跡が残るのみで、爪の先も押し入れることが叶わなかった。
「もどかしいものだね」と告げてクスクスと笑う。アクリル板の向こうにいる相手もまた、私よりもずっと大きな小指をアクリル板に押し付けて微笑む。

「貴方に触れたいと思ったことなど旅の中ではただの一度もなかったというのに、このようなもので仕切られてしまうと、
にわかに貴方という存在が尊くかけがえのないものであるように思われてくるよ。
まあきっと、このような想いはこのアクリル板が見せている幻に過ぎないのだろうけれどね」

「おや、寂しいことを言うのだね。わざわざこんなところまで来てくれたのだから、君はわたくしのことを少なからず好意的に見てくれていたのではないのかい?」

「確かに出会った頃の貴方は、堂々としていて、立派で、少しお茶目なところなどもあって、それはそれは魅力的だったよ。
けれども私は、犯罪者を愛するような趣味は持ち合わせていないんだ。禁じられた恋への憧れというのは、あまりピンと来なくてね。
そうした貴方への好意を腹の中で肥やしていたならば、エネルギープラントでの貴方の言葉に、もう少し耳を傾けることができたのかもしれないけれど、
……生憎、当時の私が愛していたのは、私のポケモン達と美味しいカレーくらいのものだったから」

滝のように流し落としてきたこれまでの言葉に嘘は含まれていない。
彼とのバトルの余韻が重苦しいものだったことも、私やホップを見送った彼が最高にみっともない笑顔を晒していたことも、私は私の中の事実として隠さず話している。
それまでの彼を、立派なリーグ委員長としてそれなりに尊敬していたことだって、誤魔化さずに開示している。
その上で、今の彼に一切の魅力を感じないということだって、私は彼の心が傷付くか否かなどという配慮の全てをかなぐり捨てて、まるで八つ当たりのようにまくし立てている。

アクリル板から手を放してヒラヒラと振る。彼もほぼ同じタイミングで手を引っ込める。
貼り付けたような余所行きの笑顔をした私と、薄笑いを浮かべたままの彼。小さな窓からの日差しがどうにも眩しく、笑顔を崩してしまいそうになるのが少し、癪である。

「ではユウリ君。……どうして、そんなみっともない犯罪者へと成り下がったわたくしのところへ来てしまったのかな?」

「ふふ、軌道修正をありがとう。確かにそろそろ本題に入るべきだね。でないと面会時間内に喋り切れそうにない」

「わたくしと君は血の繋がりも以前からの関係性も持たない、いわば赤の他人だ。面会の許可だってそう簡単には下りなかったろう。
煩雑な手続きを踏んでまで、わたくしに会いに来た理由を聞かせてくれないかな。
わたくしに八つ当たりをするため、という訳ではないよね。君はそこまで残念な子ではなかったはずだよ」

ポケモンバトルをしているかのような、小気味良い言葉の応酬だった。ポケモンの代わりに私達がフィールドに立ち、技の代わりに言葉がこうして繰り出されているのだ。
ぽん、と勢いよく放てば、間髪入れずにきちんと言葉が返ってくる。更に怯まず次を放てば、また更に力強い技となって私の心臓をわななかせる。
どちらが先に怯むのか、どちらが先に相手の弱点を見抜くのか。そうした睨み合いに近い遣り取りだった。技を「指示する」だけでは得られない緊張感がここにはあった。

私と彼のいる空間を仕切るアクリル板が、二者の言葉を、視線を、受け止め続けている。
私と彼の言葉の、その熱に、この透明な忌々しい壁が溶けてしまえばいいのになどと、ほんの一瞬だけそのような、夢見心地なことを思ったりもする。

「私は、貴方のことなど忘れてもよかったのだ。いや……違うね、きっと「忘れなければいけなかった」のだ。
貴方は、子供である私達が「そう」できるよう、貴方のことなどすっかり忘れて前へ進めるよう、「自首」という最も自然な形を選び、貴方の時代に自ら幕引きをしてくださった。
だから私は貴方の思惑に従い、貴方を「過去の人」とすべきだった。そう、思っていた」

「素晴らしいねえ。君のことだ、誰に説かれるでもなく君自身でそう解釈したのだろう?
そこまで分かっていながら此処にきてしまう辺り、詰めが甘いと言えるけれど」

「……ああそうだ。私は甘いのだろうね、認めよう。だが私の言い分も聞いてほしい。
だってね、ローズさん。ガラル地方には薔薇が咲いているだろう。本当に美しいだろう。
花なんて一様に美しいものでそれ以上の何にもなり得ないと思っていたけれど、それでも私は薔薇を、とりわけ赤い薔薇を見ると嬉しくなったんだよ。
立派な貴方に見てもらえているようで、貴方に応援してもらえているようで、私はつい最近まで、本当に心から、喜んでしまっていたんだよ」

盲目的にこの人を慕い、この人に認められたがっていたあの男の子を思い出す。
彼のそれはやや病的なところさえあったけれど、それでもこの「病的な妄信」の相手がこの人であったことは彼にとっての幸運だったのでは、とさえ考える。
そのせいで彼はしなくてもいい遠回りをしてしまったけれど、彼の粗野で高慢な遠回りを目の敵にする大人だっていたのかもしれないけれど、それが一体何だというのだろう。

遠回り? 無駄なこと? 全く構わないではないか。私達は「そういうもの」ではないのか。
そういうものこそが、私達、子供に与えられた猶予なのではないか。

そう、私達にはあのような「遠回り」が許される。でも大人であるこの人には許されない。
この人の「遠回り」が許されるには、ある一定の手順を踏まなければならないのだ。
法で裁かれ、罪を償い、もう大丈夫と太鼓判を押されてからでないと「許された存在」として表舞台に戻ってくることはできない。それが大人のルールだ。
だからこそ、子供であるビートは此処におらず、大人であるこの人だけがアクリル板の向こうにいる。
そして私はそのことに、少し、ほんの少しだけ、納得がいかない。

「貴方の本拠地であるタワーがダンデさんの手によってバトルのための施設へと作り変えられたとき、私はショックを受けたんだ。
ああ、誤解しないでほしいのだけれど、ダンデさんの功績には感服しているし、私だってあの場所でポケモンバトルを思いっきり楽しんでいるとも。
でもあのロビーに植えられていた赤と青の薔薇……あれはそのままにしていてほしかった。
貴方の、ガラルを想う気持ちを象徴するが如き鮮烈な鮮やかさで、ロビーの床を彩っていたあの花を、取らないでほしかった」

「それで、わたくしのことを思い出してくれたのかい。……ありがとう、と言うべきなのかな」

「いいや、貴方はごめんなさいと謝るべきだよ。あの美しすぎる薔薇は呪いだ。貴方の名前を被った、おぞましい呪いだ。その一点において、私は貴方をまだ許せないよ」

だから私は貴方と戦って以来、ガラル地方のあちこちにあるフラワーショップの前を通るのが、ほんの少しだけ恐ろしかった。
ブラッシータウンにはピンク色の薔薇が自生している。ナックルシティには広大な紫の薔薇園がある。
そうしたものはまだ「美しい」と思えるのに、フラワーショップの花瓶に挿された赤い薔薇を見てしまうともう、駄目だった。
赤だ。赤い薔薇だ。これでなければいけないと強く思ってしまった。だって赤い薔薇が一番美しく、一番鮮やかで、一番、嬉しかったから。

「いや、それにしても君がここまで饒舌な子だったとはねえ。どうしてこれまでは喋ってくれなかったんだい」

「お喋りが好きなのは貴方もだろう? 演説が大好きだと言っていたじゃないか。
そのための時間、お喋りの権利を、それなりに敬い慕っていた貴方に譲り渡して耳を傾けていたいと思うのは、当然のことでは?」

挑発するように語尾を上げ、得意気に笑ってから私は一度だけ目を伏せた。
此処に来てから一度も、彼のその薄笑いから目を逸らしていなかったのに、此処にきて一度、視線を外して呼吸を整える必要が出てきてしまった。

ユウリ君?」

彼は俯いた私を訝しむように名前を呼ぶ。
私は一瞬の弱気をなかったことにして、そんなのは御免だよと断られたときの傷を受け入れる心の準備をして、顔を上げ、小さく息を吸う。

「だからローズさん、誠に勝手ながら、役割を交代させてもらったよ。今度は貴方が、貴方を打ち負かした私を敬い、慕い、私の言葉に耳を傾ける番なんだ。
そうして私の言葉が、私の思想が、気に入らないと少しでも思うのなら、一刻も早くそこから、……出てきてください」

「……」

「こんな壁に阻まれていては、私達はろくに戦えない」

彼は沈黙した。小気味良くリズミカルに続いていた言葉の応酬がここでようやくピタリと止んだ。
どうやらこの、ポケモンに頼らない生身でのバトル、先に相手を怯ませたのは私の方であるらしかった。

けれどもそんな先手に気を取られるような彼ではない。すぐに気持ちを持ち直し、声を上げて笑い始めたのだった。
私は少々、驚いた。部屋の隅で立っていた警察官もぎょっとしていた。
そうやって、ひとしきり笑った彼は綺麗な青磁色の目を細めて、先程までの薄笑いとは似ても似つかない、呆れたような、諦めたような、そうした表情で私を見る。

「よりにもよって君は、わたくしと戦うことを望むのかい? チャンピオンである君を、大勢の挑戦者が待っているというのに?」

「勿論、ガラルの皆さんが私を強者と認定して挑戦してくださるのはとても嬉しいよ。トーナメントでジムリーダーやジムチャレンジャーと戦うのも楽しい。
でも「好敵手」と呼べる相手を一人だけ、こちらから望むとするならば、私は、貴方がいいと思ったんだ」

アクリル板にもう一度、手を伸べる。無機質な、室温よりも少しだけ冷たいその透明な壁をそっと撫でる。
これは私と彼の境界であり、子供と大人の境界であり、猶予と責務の境界であり、そして、それら全てが交わることを頑として許さない番人でもある。
けれどもこのアクリル板は、小さな穴が開いているために、また透明であるが故に、姿と言葉のみがすり抜けて相手のところへ届くのだ。
今の私にはそれで十分だと思えた。

「バトルも、議論も、時間も、貴方とのものはこれまで少なすぎた。貴方とはまだ、戦い足りない。話し足りない。過ごし足りない。
私は貴方と交わしうるすべてをもっと欲しいと思った。だから此処に来た。……これでもまだ、貴方を納得させるには足りないだろうか」

私はもう目を逸らさない。彼はこの場で一度も、私からその青磁の色を逸らしていない。
そんな彼も再び手をアクリル板に伸ばす。小指を立てて、まるで指切りをするかのように小さな穴をつつくので、私も同じようにして小指をそこへと潜り込ませた。
僅かに指先が触れたような気がして息を飲む。そんな私の反応に微笑みつつ、彼は「いいや、十分だね」と先程の私の疑問に答える。

「約束するよ。君と戦うために、君の言葉をもっと聞くために、果たすべきことを果たした上で必ず此処を出よう。けれどもその前に一つだけ、訊いてもいいかな」

どうぞ、と私は答える。
弱点と急所への攻撃を同時に受けるような予感に心臓をざわつかせながら、きっと戦うための力を全て持っていかれてしまうのだろうと思いながら、
もうそれでも構わない、言いたいことは全て言えたのだからどうにでもなってしまえという心地で、私は敗北に備えてぎゅっと目を瞑る。
……まるで恋をしているかのように、心臓が煩く跳ねている。

「さっきの言葉……あれは」

「ええ」

「あれは、愛の告白とどう違うのかな」

2019.11.22
(タイトル:160℃はアクリル樹脂の融点)

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