窮地に笑むピエロ

もうずっと前から、私は、この人と会話をする際に必ずと言っていい程に生じてしまう「違和感」に気付いていた。

「アオギリさんはどうして、私の言葉を疑わないんですか?」

「あ?」

アクア団のアジトの場所がミナモシティの傍にあることから、私達が会う場所と言えば決まってミナモシティか、その港にある船に乗った先にあるカイナシティだった。
今日も今日とてミナモシティのレストランで食事をしていた私は、向かいでパスタを食べている彼に言葉を投げた。

「こういう上品な料理は性に合わねえな」と言いながら、それでも彼はテーブルマナーをしっかりと守る。
その粗暴で豪胆な雰囲気からは想像もできない程に、彼の指先は繊細にフォークやナイフを操るのだ。
ああ、彼のその粗暴さや豪胆さはある種の仮面なのだと私は気付いたのはつい最近のことで、しかしそのことに私は落胆しなかった。
寧ろ、彼が私に似た装甲を持っているという事実は、私に歓喜と安堵を与えていたのだ。

そんな彼は、しかし私の装甲である「嘘」を見抜かない。

「私が嘘吐きだってこと、まさか忘れてしまった訳ではないのでしょう?」

「ああ、忘れちゃいねえよ」

「それなのに、疑わないんですね」

「まあな」

……いや、見抜かない、というのは少し語弊があるのかもしれない。
正確には「私の言葉を嘘と本音に振り分けようとしない」というべきなのだろう。

私は嘘吐きだ。それを彼も知っている筈だった。
彼だけではない。私は一定以上に親しくなってしまった相手には必ず「私は嘘吐きなんです」と告げていた。
そうすれば彼等は決まって、私の言葉に疑いをかける。疑いをかけていることが、彼等の表情で、声音で、視線で読み取れる。
今の言葉は彼女の本音だろうか、それとも質の悪い冗談だろうか。そんな風に脳内で思考を巡らせている様子を、彼等は少なからず確実に見せる。
そうして、彼等の疑いの眼差しによって、「嘘吐きである私」は現実になる。

けれどアオギリさんは私の言葉を疑わない。
直ぐに解る冗談に関しては豪快に笑いながら見抜いてみせるのだが、それ以外の言葉には全く疑いを掛けないのだ。
彼は私を疑わない。そんな態度を取られたことのなかった私にとって、それはとても新鮮なことであった。

疑ってくれない相手に、嘘を吐く必要はない。
私を信じてくれる相手を、嘘吐きな私の言葉を真っ直ぐに受け止めてしまう相手を、欺く必要など何処にもない。
そうして私の吐く嘘は、彼の前では少しずつ減っていった。今では殆ど、嘘を混ぜていない。混ぜようとも思えないし、混ぜられない。
だから、彼の傍は少しだけ緊張する。どこで嘘を吐こうかと考えることをしなくていい分、私の心は手持ち無沙汰になる。
暇を持て余した思考は彼の言葉に、声に、仕草に集まる。その時間は限りなく尊くて、けれど苦手で、少し、恐ろしいとすら思ってしまう。

「嘘だと疑った方が、楽じゃないですか?」

「どういうことだ?」

「例えば、私がアオギリさんを馬鹿にする言葉を投げたとして、それが本当の言葉なら少なからずアオギリさんは気分を害しますよね?
でも、「ああ、嘘吐きな奴がまた嘘を言っているだけのことだ、これは単なる冗談だ」って、そう考えた方が楽になれませんか?」

だから私は今一度、彼に「疑ってみませんか?」という誘いをかけることにしたのだ。
彼が何故、嘘吐きな私の言葉を疑わないのかは解らなかったけれど、それでも大の大人ならば、人を疑う術くらい心得ているだろうと思ったのだ。
そうでなければ、アクア団という組織のリーダーなど努められないだろう。上に立つ者はある程度の狡猾さを身に付けなければならない。私はそのことをよく知っていた。
だからこそ、彼が私を疑わないことを、とても訝しいと思ってしまったのだ。

「嘘吐きな人間の言葉なんて、それくらいに思っているのが丁度いいんですよ。
そうして私を不誠実なものとみなした方が、傷付かずに済むでしょう?それともアオギリさんは、こんなお子様の言葉に心を動かすことはないのかしら」

軽い挑発の言葉すら混ぜて、私は彼に懇願した。
しかし彼はパスタをフォークに絡ませていた手をぴたりと止め、次の瞬間、豪快に笑い始めたのだ。
これに面食らったのは私の方で、困惑と焦りが私の手の平に熱をさっと集め始めた。間違った一手を投じてしまったのだと、気付いた時には、遅すぎた。

「あっはっは!なんだ、そういうことか。だから嘘吐きを自称していたんだな」

彼はその三白眼をすっと細め、楽しそうに私を真っ直ぐに見据えた。
私はその視線に縫い付けられたように、指先の動きすら止めて彼を見つめ返した。意識を集中させなければ息すら忘れてしまいそうだった。
ああ、失敗した。私はこの人に敗れたのだ。私は彼に見抜かれたのだと、改めてその事実を脳内で反芻すれば、絶望と恐怖にくらくらと眩暈さえしそうになった。

「言葉ってのは意図的でもそうでないにしても、先っちょは常に尖っているもんだ。いつ相手を傷付けるか解んねえ。
だが嘘なら、冗談なら、その切っ先はポキっと折れちまう。お前はそれを狙っていたんだろ。お前はそうして、自分を煙に巻きたかったんだろう」

「……」

「で、だ、トキちゃん。お前のそれはオレ達への優しさか?それともお前の弱さか?」

心臓が張り裂けそうな程に、大きな音を立てていた。
彼の視線が、握ったフォークの先のパスタに落ちる。その瞬間を逃すことなく私は深く息を吸った。
彼の視線に縫い付けられていた私は、ようやく自然に呼吸をすることが許されたのだ。

今の状況というのは、悉く私に分が悪いものとして存在していた。
私は自分の存在を煙に巻きたかった。自分の言葉の真偽を誤魔化していたかった。そうすることに慣れ過ぎていた私は、彼の「疑わない」という姿勢に驚き、困惑した。
だからこそ、彼にも私を疑ってほしいと思い、先程のような挑発めいた誘いを投げたのだ。

何故なら疑われることこそが私の得意なフィールドだったからだ。自分を煙に巻き、自分にすら嘘を吐くことで、ようやく私はいつものように笑っていられたからだ。
自分の言葉を悉く真に受け、真っ直ぐに信じてしまう彼の前では、彼は勿論のこと、自分にさえ嘘を吐けない。その状況は私にとって非常に居心地の悪いものだった。

けれど彼は私の挑発めいた誘いから、ある一つの結論を導き出してしまった。
それは「嘘吐き」な私を疑っていては絶対に辿り着くことのできない答えであって、だからこそ、私は今まで嘘吐きなままでいられたのだ。
今、その装甲がこの人によって粉々に打ち砕かれようとしている。どうすれば、どうすればいい。私は悩んだ。一秒が永遠に感じられた。

「お答えできません」

長すぎる沈黙の後で、私は、私が優位に立て得る、イニシアティブを回復させ得る最善の言葉を紡いだ。
嘘を紡いだところでこの人は躊躇いなく信じてしまう。そのことを理解している私にもう、彼の前で嘘を重ねるだけの余裕は残っていない。
私は、不誠実な私に対して誠実を貫いてくれる相手に、更に不誠実を重ねることができる程心を廃らせている訳ではない。
かといって、本当のことを告げられる程、私は勇敢ではない。

「はは、いいねえ、食えない奴だ。そういうとこ、嫌いじゃないぜ」

しかし、彼は私の拒絶にまるで頓着せず、寧ろその答えに満足したように微笑み、パスタの続きへと手を付けたのだ。
張り詰めていた空気が一気に緩み、私は拍子抜けてしまった。……そうだ、この人はその見た目に似合わずとても繊細だけれど、それと同時に豪胆でもあるのだ。
きっと彼は、これ以上の追及をしないだろう。私はそう信じられた。彼に信じられてしまった私は、彼を信じることができるようになっていたのだ。
それは今までの煙に巻く人間関係ならば絶対にあり得ないことで、だからこそ、その恐怖を、不安を、緊張を、尊さを、私はよく理解していたのだ。

「……私の答えをはぐらかしておいて、なんと狡いことかとお思いになるかもしれませんが、」

「なんだよ、言ってみな」

「私はまだ、最初の質問の答えを頂いていません」

その言葉に彼は、「……ああ、なんだそのことか」と、少しだけ眉を下げて困ったように笑った。
『アオギリさんはどうして、私の言葉を疑わないんですか?』
暫くの沈黙を置いて紡がれた彼の返事を、私は疑うことができなかった。けれどそれが真実だと、そのまま諸手を伸べて受け取ることもできなかった。
だって、疑うことをしない彼の、疑いようのない言葉は、私の両手には少し重すぎるのだ。

「そりゃあ、惚れた女に嘘を吐かれているなんざ、思いたくねえからだよ。そら、これで満足か?」

2015.8.21

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