※雨企画
細い足をヒレのように動かし、肺の息を少しずつ吐いて海の底へと潜っていく。海藻の影に隠れていたサニーゴを見つけ、親しげに手を振って微笑む。
柔らかな海底の砂を強く蹴り、手で大きく海を掻いて空を目指す。柴色の目がふわふわと揺れる太陽を見据える。
海面に顔を出し、大きく息を吸い込む。デボン製のボンベも、水ポケモンの力も借りずに、彼女はそうして再び海へと溶けていく。
そんな風に海を泳ぐ人間など、自分を置いて他に居ないとアオギリはずっと思っていたのだ。
「トキちゃん、そろそろ休憩した方がいいんじゃねえか?」
もう一度海へと潜ろうとした、その華奢な肩をくいと掴んでこちらへと振り向かせれば、彼女は名残惜しそうに笑った後で「そうですね」と頷いてくれた。
浅瀬に足を下ろし、柔らかな砂を蹴る。波の音と潮風が耳をくすぐる。
水着姿で砂浜に身を投げた彼女は、しかし何かに驚いたようにその柴色の目を見開く。
「わあ、この砂浜、あったかいですね!」
クスクスと笑いながら寝返りを打つ。背中や肩には砂がべっとりと付いていたが、彼女は特に頓着する様子も見せずにそのままでいた。
アオギリはその横に腰を下ろして、空を見上げる。雲一つない快晴だった。
隣で鼻歌を歌い始めた彼女に、アオギリはもう何度紡いだか解らない言葉を同じように繰り返す。
「それにしても泳ぐのが上手いな。ホウエンに来るまで海で泳いだことがなかった人間とは思えねえよ」
「アオギリさんは泳ぎ慣れていますよね。狡いなあ、こんな海をずっと独り占めしていたなんて」
そうして同じ言葉を紡ぐことしかできないアオギリに代わって、少女は毎回のように違う言葉をアオギリに向けて微笑むのだ。
彼女はとても饒舌である。アオギリも似たようなものである筈だったが、どうにもこの少女を前にすると気の利いた言葉が出てこないのだ。
アオギリの思考は麻痺していた。それ故に、上手い言葉を選ぶことができなかったのだ。
もっとも、それは自分よりも優雅に海を泳ぐこの少女の姿が、アオギリの脳裏に焼き付いていたからに他ならないのだけれど。
自らが海に飛び込み、泳ぐその時でさえも、その少女の姿はアオギリの脳裏に過ぎり、どうしようもなく彼を落ち着かなくさせたのだけれど。
「一時期、スイミングスクールに通っていたんです。だから泳ぐのは得意でしたよ」
「へえ、お前みたいなお嬢さんがスイミングか」
「私が仮病を使ってよく会食やお見合いを欠席しているから、家族は私が体の弱い人間だと思っているんです。「体を鍛えるため」と申し出れば、簡単に許可が下りました」
本当は違うのにね、と楽しそうに笑う。
彼女にとって、カントー地方にある自宅というのは、自らの自由を縛るための檻のようなものでしかないのだろうと、その言動から容易に想像がついた。
唯一の家族をそうした足枷として捉えてしまうのは、十代の多感な時期にとってかなり寂しいことではないのかとアオギリは思ったが、
そうしたしがらみから解放された今の彼女があまりにも生き生きとした、楽しそうな表情を浮かべていたので、アオギリはそれ以上、追求することを止めていた。
家族の捉え方も、世界の見方も、人によって驚く程に異なっていることを、少女よりも長く生きてきたアオギリはよく知っていたからだ。
その差異は時に深すぎる隔絶となって、人の心を傷付けもする。それでも求めたい温度があることを、彼は心得ていたのだ。
それ故に、そうしたことにこの少女が少しでも悩む素振りを見せたその時には、アオギリは迷わず彼女の支えとなることをその心に誓っていた。
けれど、彼女が今のように屈託なく笑っている間は、決して踏み込みはしない。そうした距離だったのだ。そうするしかなかった。それでも心地良いと感じていた。
この少女は自分を慕っている。同じように海が好きだからなのか、それとももっと別の理由なのかは解らないが、それで十分だったのだ。
「プールと海とじゃ、全然違いますね。力強い波も、柔らかな砂浜も、その中で生きるポケモン達の姿も、あの無機質な箱の中にはありませんでしたから」
「……だが、プールには屋根があるだろ?年頃のお嬢さんが何時間も海で泳いでいたら日焼けしちまうぞ」
「アオギリさん、最近はね、水で落ちない日焼け止めっていう便利なものが売られているんですよ?」
他愛もない会話。そのイニシアティブを握るのはいつだって少女だった。
アオギリは本来なら饒舌である筈の自分が、相槌を打つ側に徹していることに未だに驚きを隠せずにいる。それでいて、その相槌を打つ自分が嫌いではないのだ。
日焼け止めも進化しているんですね、と楽しそうに紡ぐ少女の、その笑顔を独り占めできるのなら、こうした役割も悪くない。そう思っていたのだ。
この少女は、アオギリが独り占めしていた、海を優雅に泳ぐという行為を奪い取ったのだ。それならば自分も、この少女の何かを独り占めしたところで文句は言われない。
「友達から聞いた話ですが、水中では、音は地上より5倍も速く届くんですよ」
彼女は立ち上がり、波が打ち寄せる浜辺へと歩き出した。アオギリもその隣に歩幅を合わせる。
足をくすぐる波を蹴るように駆けた彼女の背中は、彼の思っていた以上に華奢で、アオギリは思わずその腕をくいと掴んで引き止めてしまった。
驚いたように目を見開いて振り返った少女に、彼はバツの悪そうな顔で肩を竦めてから「それで?」と先程の話の続きを促した。
まさか「あまりにもその背中が弱々しかったから」などと言う訳にもいくまい。
彼女は軽く首を傾げてクスクスと笑った後で、歌うようにそのソプラノを震わせた。
「そんなに遠くの音が聞こえるのに、海の中ってとても静かでしょう?だから、おかしいなって。
きっと地上で生き過ぎた私達の耳は、水の中の音を拾えない造りになってしまったのかもしれませんね」
アオギリはぎこちない相槌を打つことしかできなかった。
「私も海の中で音を聞いてみたい」と呟きながら、彼女はアオギリの手をするりと放し、海へと体を沈めていく。
この少女の倍近い年を重ねてきた筈のアオギリが、いくら考えても思いつくことのないような発想を、彼女は呆気なく引き出してみせる。
饒舌に紡がれる彼女の言葉は、いつだって新鮮な響きと輝きを持ってしてアオギリの鼓膜を震わせていたのだ。
自分には思いつかないようなことを、この少女はその華奢な体の中に溢れ返らんとする程に抱えているのだ。
そのアンバランスな力強さにアオギリは少しだけ恐ろしくなる。少女は自分の予測の範疇に決して留まらない。彼女の手は掴めそうで掴めない。
自分がこの少女にとって限りなく近い位置にあることをアオギリは心得ていた。
この関係に名前はなかったけれど、それでも彼女が自分を慕っていて、自分もそれを受け入れていて、同じ時間を幾度となく共有していた、それで十分だった。
しかし、彼女は自分には理解の及ばない響きで言葉を紡ぎ、アオギリとは真逆の発想をして、彼を度々驚かせる。
自分と少女との距離が近いと思っていた。事実、二人は近い位置にいた筈だった。
けれど彼女のそうした美しくも不思議な言葉の響きが、彼女をアオギリから遠ざけていることもまた事実だった。
「アオギリさん!」
けれどもそんな少女が彼の名を呼ぶ。その愛らしいソプラノは、他でもない彼の名前を紡いでいるのだ。
アオギリはその声に安堵したように微笑み、砂浜を蹴って彼女の元へと海を渡る。
「バテても知らねえぞ、トキちゃん」
からかうようにそう紡いで、彼は少女よりも先に海へと潜っていく。
この距離は海より遠い。それでいい気がした。それでも彼女はアオギリの名を呼ぶのだから。
彼の理解の及ばないところで思考を巡らせる、不思議な魅力を持つ少女は、何故だかは分からないが、他でもない彼を呼び、彼と共に海へと潜ることを選んだのだから。
そうして彼は海の中で、海ではなく、その海に溶ける彼女を見る。
細い足をヒレのように動かし、肺の息を少しずつ吐いて海の底へと潜っていく。
柔らかな海底の砂を強く蹴り、手で大きく海を掻いて空を目指す。柴色の目がふわふわと揺れる太陽を見据える。
海面に顔を出し、大きく息を吸い込む。デボン製のボンベも、水ポケモンの力も借りずに、彼女はそうして再び海へと溶けていく。
アオギリにはない美しさと優雅さを持つ少女だった。愛らしいソプラノを鈴のように揺らして笑う少女だった。
彼女は遠い。それでいい。
「アオギリさん」
しかしその瞬間、海の中でアオギリの鼓膜は確かに震えたのだ。
足をヒレのように動かして浮かび上がって来た彼女は、アオギリの腕を掴み、海面を目指す。
勢いよく顔を出すや否や、少女はその柴色の目を輝かせて彼に詰め寄る。
「聞こえた?」
息を飲んだアオギリに、少女はもう一度、「声、聞こえましたか?」と尋ねる。僅かに首を縦に動かした彼に、彼女は満面の笑みで微笑んでみせた。
よかった、海の中でも声は届くんですね。弾けるようなその笑顔はあまりにも眩しい。
海の中で声を発した、その声を彼が拾った。そのことにここまで喜ぶことのできる不思議な少女の心を、しかし今ならアオギリは理解できるような気がした。
この、あまりにも遠い少女が、海の中でさえも自分の名前を呼んだことが、彼はどうしようもなく嬉しかったのだ。
「もっと大きな声を出せたら、海の中、どんなに離れていてもアオギリさんを呼べますね」
ね、素敵でしょう?そう続けた少女の頭をアオギリはやや乱暴に撫でる。それが照れ隠しであることに、きっとこの聡い少女は気付いている。
それでもいい、と頷いて、アオギリは再び海に溶けようとしている少女を追い掛ける。
2015.4.19
時任掌理さん、素敵なタイトルのご提供、ありがとうございました!