鈍色ドールの綱渡り

20cm程の、とても幅の狭い橋だった。

トキちゃん!」

「え?」

自転車に乗り、当たり前のようにその狭すぎる橋を渡っていた彼女に声を掛ける。
誤解されてしまうかもしれないが、ダイゴには決して、彼女を危険に陥れようとする意図は全くなかったのだ。
寧ろ、その逆である。彼は、その狭い橋を自転車で渡っていた彼女を、その危険さ故に引き止めようとしたのだ。しかしその声掛けが結果的に裏目に出た。

白い橋の上を渡っていた彼女は、慌てたようにこちらを振り返った。その瞬間、自転車はバランスを崩し、コマ送りのようにゆっくりと倒れた。
いけない、とダイゴが動き出した時には既に遅く、彼女と自転車はそのままふわりと一瞬だけ宙に浮き、下の川に真っ逆さまに落ちていってしまった。

胸の奥に手を突っ込まれ、心臓を抉り取られるようなことがあったなら、きっと、これに似た痛みを伴うのだろうと思った。

ダイゴはボールからエアームドを繰り出し、その背中に飛び乗って橋の下にある川に急降下した。
ぶくぶくと浮き上がる泡に向かって、トキちゃん、トキちゃんと、狂ったように叫ぶように彼女の名前を呼んだ。
スーツを乱暴に脱ぎ捨て、自ら川に潜ってその姿を探そうと身を屈める。しかしその瞬間、少女が川底から勢いよく姿を現した。
迷わずその右腕をぐいと掴んで引き上げれば、ようやく肩から上が水面から浮き出る。
苦しそうに何度か喉の水を吐き出した彼女は、しかし次の瞬間、水中に沈んだお腹に左手を当てて大声で笑い始めたのだ。

それは、あっという間の出来事だった。

「……トキちゃん」

「ああ、もう、急に私を呼ばないでください。せめて橋を渡りきるまで待ってくれてもよかったんじゃないですか?」

クスクスと楽しそうに笑い声を上げる彼女に、ダイゴは勢いを殺がれたように肩の力を抜いて立ち竦んだ。
手伝ってください、と言われ、まだ震えの残っているもう片方の手を彼女の方へと差し出せば、彼女は「私じゃありません」と首を振った。

「キンセツシティで貰った自転車、引き上げるのを手伝ってください。カゼノさんから宣伝の代わりに受け取った、とても大事なものなんです」

まるで自分よりも自転車の方が大事なのだ、と言わんばかりのその口調に、ダイゴはしかし、憤ることを忘れていた。
この、川に転落したとは思えない程にあっけらかんと笑っている少女と、溺れてしまったのかもしれないと驚愕し、恐怖したダイゴとの間には、大きすぎる壁が敷かれていたのだ。
本当に大丈夫なのかい、と尋ねれば、少女は呆れたように肩を竦めてもう一度笑ってみせる。

「いいえ、貴方のせいで大事な自転車を川に落っことしてしまうし、私の一帳羅はずぶ濡れだし、川の水はびっくりするくらいに冷たいし、散々です」

そういうことじゃないと、怒鳴ることすらできなかった。
川の底に置き忘れた自転車を探しに潜った少女に続くため、ダイゴは脱ぎかけていたスーツを畳んでエアームドの背中に乗せた。

二人掛かりでようやく引き上げることに成功した自転車を、少女は太陽の光で乾かそうとしていた。
「一帳羅」と彼女が称した通り、彼女は着替えの服を持っていないようだった。唯一、同じ服の予備を鞄に入れていたようだが、それも先程の転落で見事に水を吸ってしまっている。
すまない、と頭を下げるダイゴに、彼女はクスクスと笑いながら「もういいですよ、気にしないでください」と告げた。

ダイゴにも言い分こそあったものの、あの狭い橋を渡っていた少女を大声で呼び止めたことが、結果的に今回の転落に繋がったことは否定しようのない事実だった。
危なっかしいことをしている彼女を咎めるつもりが、逆に彼女を危険に晒してしまった。ひたすらに謝罪の言葉を紡ぐダイゴを、少女はただ笑って許した。
「危険すら楽しむ」という、本来なら咎めるべき彼女のその姿勢に、よもや自分が救われることになるとは思わなかった。

「でも、どうしてあんな大声で私を呼び止めたんですか?何か緊急の用件でも?」

「いや、……君があまりに危なっかしいことをしていたから」

「あはは。ダイゴさん、あの橋は自転車に乗って渡るためのものです。ホウエン地方のあちこちにある筈ですが、知りませんか?」

勿論、ダイゴとて、ホウエンの各地にそうした、幅の狭すぎる白い橋が設置されていることは知っていた。
しかし、それらは自転車を堪能に乗りこなす、ごく一部の人間にだけ許された領域だと思い込んでいたのだ。
つい数か月前に旅を始めた少女が渡り切れるものではない。ダイゴはそうした勝手な推測を立てていた。だからこそ、橋を渡る少女に恐れを抱き、慌てて呼び止めたのだ。

「私はもう、あれに似た橋を他で何度も渡っています。だから大丈夫ですよ」

「しかし……」

「それに、もし私にそんな技量がなかったとして、それでも私はさっきのように、川底に落ちることを覚悟してでも橋に足を架けます」

「相変わらず、君は危ない橋を渡るのが好きだね」

そう返せば、寧ろ得意気に少女は肩を竦め、その鈍色の目をすっと細めてみせた。
「橋だけに?」と至極楽しそうに笑い声を積もらせるその少女が「危ない橋を渡ってきた」のは、何も今回に限った話ではない。
ダイゴが渡した筈のデボン製のボンベを使わずに海底へと潜ったり、隕石を破壊する役目を終えてからも、レックウザの背に乗り数時間の宇宙旅行を楽しんだりと、
……傍から見れば間違いなく「生き急いでいる」と称するに相応しい行動を彼女はずっと繰り返していた。
あれらに比べれば、今回の橋渡りなど大したことではなかったのかもしれない。彼女だって「いつものこと」として、その狭い橋に足を架けたのだろう。
ただ、その場にダイゴが居合わせてしまった。ただそれだけのことが少女を川底へと誘ったのだ。

この少女は、もし自分がその命を失えば、そのことでどれ程の人がどれだけ悲しむかということに思い至っていない。
いや、16歳という年でそれに気付かない筈はないのだが、彼女は敢えてそこから目を逸らし続けている。私は私だけのものなのだという姿勢を崩さない。
その歪んだ強情さが酷く哀れだと思った。けれど同時にとても眩しいと感じていた。

「君が大きな怪我をしたら、悲しむ人が沢山いるんだよ」

けれど、それでも敢えてダイゴはそう伝えてみる。少女は案の定、いつもの鈴を転がすような笑い声でダイゴの忠告を煙に巻く。

「あら、そんな人いないわ」

「いや、いるよ。少なくとも一人は、確実にいる」

「ふふ、ありがとうございます。でもダイゴさん、私は私のことしか考えていないんですよ。私が楽しければそれでいいんです」

傍若無人なその言葉は、しかしこのホウエン地方を自らの手で救った人間の言葉なのだ。
その身の危険を顧みずに、超古代ポケモンと対峙し、大災害を治めた。この星に迫りくる隕石を壊すために、レックウザに乗って単身、宇宙にまで旅立った。
そんな献身的な行動を尽くしてきた理由は一つしかない。「楽しかった」からだ。
超古代ポケモンと対峙することも、宇宙へ飛び立つことも、彼女にとってこの上ない享楽だったからだ。

だからこそ、「私が楽しければそれでいい」とする、その歪んだその思想はどこまでも神聖で、それ故に、ダイゴは次の言葉を生み出せないままに苦笑するしかなかったのだ。

「酷い人間でしょう?ダイゴさんも、私のことを嫌ってくれて構いませんよ」

ああ、そうできたらどんなによかっただろう!
ダイゴは思わず自身の両手を強く握り締めた。その変化を鋭く拾い上げた少女は、その笑みを顔からそっと拭い去った。

「残念だけどトキちゃん、ボクは何があっても、君を嫌いにはならないよ」

ダイゴは笑うことを止めた少女の代わりに、諦めたように、泣くように笑ってみせた。
この発言の意図を、この表情の意味を、賢い君はきっと直ぐに察するのだろう。
さあ、どうするんだ。今までと同じように、知らない振りをするのかい?解りませんと偽るのかい?
それでもよかった。そうであったとして、それでもダイゴは少女を嫌いになどなれないのだから。

ふわりと、夏空の陽に溶けるように笑った彼女の表情は、今まで見た彼女のどんな笑みとも違っていた。
少女の栗色の髪から滴り落ちる雫が、乾いた土に染み込んで色を変えた。

2015.8.18

© 2024 雨袱紗