傲慢な花嫁

食事に誘われた。
それ自体はダイゴにとってそれほど珍しいことではない。
しかしその相手が、滅多にこちらを誘うことをしない「あの少女」であったため、彼は驚きと歓喜のままに頷くという間抜けな返事をするに至ってしまったのだ。

少女が指定した店は、とある観光ホテルだった。
ミナモシティにあるそのホテルの1階は、宿泊客以外の人間にも開かれている。ダイゴも何度か訪れたことがあったため、特に不安は感じていなかった。
ただ、意外だとは思っていた。
彼女から何処かへ誘われることがあったとして、それはもっと、ポケモンの背中に乗って空や海を渡ったり、石の洞窟を探検したりといったものだと思っていたからだ。
カントーにある大きな会社の社長令嬢である少女は、レストランや料亭での堅苦しい食事を嫌い、大通りに構えられた屋台やコンビニの食べ物を好んで食べるような子だった。
だからこそ、今日、こうしてレストランに自分を誘ったことが、どうしても不思議でならなかったのだ。

けれど、「君はこういう場所が嫌いなのではなかったのかい?」とは尋ねなかった。
あまり好んで立ち入らないレストランに足を踏み入れるだけの理由が、きっと彼女の中にはあるのだ。それならば自分が詮索するのも無粋だと思ったのだ。
それに、どんな理由であれ、彼女が他の誰でもない自分を誘ってくれたという事実は、ダイゴの心を少なからず高揚させていた。
しかし、その事実を表に出してはならない。9歳も年下である彼女に、自分の方が強く惚れ込んでいるなどと、知られるようなことが決してあってはならない。

木目の美しいテーブルに案内され、向かい合って座れば、即座に熱く濡らしたハンドタオルと割り箸が運ばれてきた。
あまりにも美しい会釈と微笑みでハンドタオルを受け取った少女は、その細長い指を白いタオルに艶やかに絡ませた。
手を拭いている、ただそれだけの動作である筈なのに、そこに類稀なる神聖さを見出してしまった自分にダイゴはそっと苦笑した。ああ、これだからこの想いは厄介だ。

「ここ、男女のペアで入ると割り引いてくれるらしいんです。どうせならダイゴさんと行きたいなと思って」

ハンドタオルをテーブルの隅に置いた少女は、首を少しだけ傾げ、微笑みながらそう紡いだ。
これに動揺したのは彼の方で、ぎこちなく瞬きをしながらその言葉の意味を考える。……いや、考えるまでもなかったのだが、その「割引」に肖った少女の意図はやはり、読めない。

「それは恋人割引というやつではないのかい?ボクでよかったのかな」

「ふふ、嫌なら構いませんよ。他の方を誘うだけの話ですから」

「……いや、ボクにしておくといい。君の誘いならいつでも駆けつけるから」

ああ、失敗した。
この場においてイニシアティブを少女に譲る発言をしてしまったことに、ダイゴは後悔の眩暈に襲われ思わず眉をひそめる。
そんな彼に少女は口元を長い指で隠してクスクスと笑う。彼の放った言葉の余韻と戯れるように、彼の焦りと後悔をそのさえずりの上で転がすように。

「私のために時間を割いてくれてくれたこと、感謝しています。このお食事の代金は私が持ちますから、どうぞ気にせず楽しんでくださいね」

……それは、確実にこちらの台詞であった筈だった。
けれど事実として、このレストランに予約を入れたのも、二人分の食事を先に向こうに申し立てていたのも、ダイゴではなく彼女の方だった。
年下である彼女に何もかもを奪われてしまったダイゴは、大人しく「それじゃあ、お言葉に甘えよう」とだけ返した。
今日くらいは、彼女のその厚意に甘えるのも悪くない。次の機会に、またこちらが先導すればいいだけの話なのだから。

そうして、当たり前に「次」を脳内で組み立てていたダイゴは、またしてもおかしくなって一人笑い出す羽目になってしまう。
ああ、とても滑稽だ。人を好きになるということはこんなにも自身を浮つかせ、思い上がらせるものなのか。

そうして運ばれてきた、色鮮やかな器に盛られた前菜を、二人は静かに食べ始めた。
流石は社長令嬢と言ったところか、饒舌な彼女は、しかし箸を箸置きの上に戻すまでは決して口を開かなかった。
そうした礼儀を幼い頃から叩きこまれているのだろうと感心し、一方で箸を持ったままに彼女の言葉に返事をしてしまう自分を少しだけ恥じ入った。

そうして少しずつ運ばれて来る料理を静かに食べ続け、時折、他愛もない話をした。
互いのポケモンのこと、ポケモンリーグに訪れる挑戦者のこと、石の洞窟で見つけた新しい石のこと。
ダイゴは幸いにも話題には事欠かない、忙しない生活を送っていたため、会話に困ることはなかった。
箸を置き、珍しく聞き手に回っていた彼女は、ダイゴの話に相槌を打ちながら、時折小さく肩を竦めて笑っていた。
そうして数十分が経った頃、運ばれてきた茶碗蒸しの蓋を開けようとしていたダイゴに、少女の方から声が掛かった。

「ダイゴさん、見て。……中庭」

彼女の視線の先を追えば、この観光ホテルが「恋人限定の割引」なるものを掲げている理由をようやく理解することができた。
白いウエディングドレスとタキシードを身に纏った新郎と新婦が、大勢の人に囲まれて花束を投げようとしているところだった。
どうやら此処には結婚式場も併設されているらしい。賑やかな歓声が、分厚い窓ガラスを隔てたこちら側にも聞こえてきていた。
「いいなあ」と呟いた少女のたった一言を、聞き逃してしまいそうな程に小さなその言葉を、しかしダイゴは拾い上げてしまった。そして、息を飲んだ。

「愛した人と結婚できるって、とても素敵なことですよね」

そうだね、と返す彼の声はあまりにも弱々しく、掠れていた。けれど少女はそのことを特に気にする様子もなく、窓の外に遣っていた視線をテーブルに戻した。
彼女は今、自分がどんな目をしていたのか解っているのだろうか。

再び食事の場へと向き直った彼女だが、しかし茶碗蒸しに手を付けることはしなかった。
代わりに、割り箸の入っていた白い箸入れの中央辺りを短く縦に二度千切り、小さな輪っかになったそれを自分で左手の薬指に通す。
まるで幼児がやるような、箸入れを使ったお遊びを、とても真剣な、しかしどこか愁いを帯びたような表情で行う。

「形式でしかない神への誓いの言葉、彼等はきっと心から紡ぐことができるのでしょうね」

そして、結婚式で登場するその一節を、まるで歌のように目を細めて諳んじる。

「汝、病める時も健やかなる時も、この者を愛し、支え、共に歩むことを誓いますか」

その後に続くであろう「誓います」の言葉を、しかし彼女は紡がない。
紙で作った輪っかは彼女の薬指には余るようで、くるくるとフラフープのように指を回せば、紙の指輪はそれについてくるようにひらひらと回転した。
クスクスと笑う少女の本音が何処に在るのか、ダイゴはやはり突き止めることができずにいる。しかしそんな暗中模索も、次の彼女の言葉で一気に明るみに引き上げられた。

「きっと私は、望まない人と結婚するでしょうから」

「……恵まれた家庭に生まれた者の、宿命のようなものだからね」

「ええ、解っています。だからダイゴさんと見られてよかったわ」

それはどういう意味なのかと、尋ねることは果たしてルール違反だろうか。その発言で察してくれという懇願が、彼女の言葉には含まれていたのだろうか。
今、ダイゴの目の前で至極楽しそうに微笑んでいる彼女のその言葉を、ダイゴの都合のいいように解釈することは容易い。
彼にとってとても喜ばしい想いを差し出されたのだと、推測したとして、それは仕方のないことだ。

けれどその推測は、彼の背中を押すには少し弱い。
何故ならそれは推測であって「確信」ではなかったから。自分を構成する全てを煙に巻く彼女の、その発言が嘘ではないという確信がダイゴにはなかったから。
だから「ボクも君と一緒に見られてよかったよ」という程度に留めておくべきだったのだ。
けれど、ダイゴは大きすぎる賭けに出てしまった。

「……もしボクとなら、君は心からの笑顔で先程の言葉に「誓います」と続けられるのかい?」

彼女は木のスプーンを持っていた手をぴたりと止めた。そこに留まっていた茶碗蒸しの具である銀杏は、ぽろりと零れ落ちて茶碗の中へと戻ってしまった。
鈍色の目がぎこちなくぱちぱちと瞬きをして、暫くの間を置いてから彼女はクスクスと笑い始めた。

「それは、プロポーズですか?」

「そうだと言ったら?」

「残念ですが、今はお断りさせて頂きます。私はもう少し、このホウエン地方で遊んでいたいので」

それでも、彼女にとっては愛だの恋だのといったことよりも、ポケモントレーナーとしてホウエンを走り回っている方が性に合っているようで、ダイゴの言葉を笑顔で切り捨てた。
あまりにもあっさりとした拒絶にダイゴは面食らい、そうした恋慕を含ませた言葉の情緒を解さない彼女があまりにもおかしくて、笑った。
それでもよかったのだ。彼女が自分の提案に渋ることなど予想できていた。ダイゴとて今すぐ彼女とそうした関係を結ぶつもりは微塵もなかったのだ。
ダイゴがしてみせたのは、単なる意志表示だ。彼女もそれを解っている。だから「今は」という言葉を付けて、彼の提案を保留としたのだ。

でも、と続けた彼女は、茶碗蒸しの底に沈んだ銀杏をスプーンで掬い上げ、それをこちらに示すようにすっと掲げる。

「信じてもらえないかもしれないけれど、今、とても嬉しいのよ。どうにかなってしまいそうなくらい」

ふふ、と飲み込みきれなくなった歓喜を喉の奥から零す少女に、ダイゴはいよいよ言葉を失い瞬きを忘れる。
一体、どこまでが冗談で、どこからが本気で、どれが嘘でどれが真実だったのか。
解らない。解る筈もない。それなら一番幸せな誤解をしよう。今、二人の心は正に通じあったのだと、そう思うことにしよう。
ボクも嬉しいよ、と返せば、とうとう彼女は口を隠すことを忘れ、声を上げて笑い始めた。二人分の笑い声はオクターブ程の高低差があって、その和音が酷く心地良かった。

2015.8.17

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