『私、自分の家が大嫌いなんです。』
旅の中で何度か出会ったその少女は、繰り返しそんなことを呟いていた。
最初は、10代の少年少女によくある反抗期という奴だろうかと思った。
しかし、およそ16歳とは思えない程に大人びている彼女に限ってそんなことはないだろうと思い直し、ダイゴはその可能性を切り捨てた。
次に考えたのは、それも彼女によくある「嘘」の類なのではないかということだった。
彼女は「私は嘘吐きなんです」と高らかに宣言している。そしてその宣言の通り、会話に巧みに嘘を混ぜ込み、決して己を悟らせることをしない。
自分の家が嫌いだというその呟きも、彼女が吐いた嘘の一つに過ぎないのではないかと思った。
けれど、ダイゴはその可能性も切り捨てざるを得なくなってしまった。「嫌い」と呟く時の少女の目が、あまりにも荒んだ色をしていたからだ。
そこには反抗期特有の苛立ちも、嘘を吐く時の至極楽しそうな声音も感じられなかった。
いつものさえずるようなソプラノの声音を捨て去り、ただ静かに、地を這うように、沈んだアルトで「嫌い」と紡いでいる。
それは紛れもない彼女の本音で、彼女は心から、自らの生まれ育った場所である家を嫌っているのだと、ダイゴはいよいよ確信せざるを得なくなってしまったのだ。
この少女は、自分の家を嫌っている。
たったそれだけの事実が、何故かダイゴの胸を強く締め付けた。
それなりに整った環境で育ち、相応の愛情を受けて育ってきたダイゴにしてみれば、反抗期以外の理由で、自分に近しいものを嫌うことなどあり得なかったのだろう。
きっとそんな事実も、この少女にしてみれば「羨ましい」ものなのかもしれない。いつだって、少女はダイゴの全てを「羨ましい」と紡ぎ、困ったように肩を竦めて笑ってみせる。
けれどダイゴは知っているのだ。その「羨ましい」が紛れもない嘘の声音を呈していることを。
この美しい少女は、決してダイゴを羨んでなどいない。寧ろ、蔑んでいた。
「あはは、変なの!わざわざスーツを新調することなんてなかったのに!」
だから、そんな彼女に「来週の日曜、私の家に来ませんか?」と言われて、ダイゴは口から心臓が飛び出るのではないかという程に驚いたのだ。
断る理由などなかった。ダイゴは9つも年下のこの少女に惹かれていたし、そんな彼女からの誘いだ、乗らない筈がなかった。
けれど彼女が自分を誘った、その意図だけはずっと解らなかった。何故だろう。君はボクのことを軽蔑しているのではなかったのか。
いつでも笑っている彼女の真意は、相変わらず掴めない。この少女がどんな思惑で自分を家に呼んだのか、さっぱり解らない。そうして、当日になってしまった。
人の家に呼ばれるのだからと、それなりの装いで彼女の家の門を叩いたダイゴを、しかし少女は大きな笑い声と共に出迎えた。
いつものスーツではなく、もう少し装飾を抑えたものをこの日のために購入していたのだが、どうして彼女にはそれが解ったのだろう。
「そのスーツが下ろしたてのものかどうか、判別するなんて造作もないことです」
末恐ろしい発言をする彼女に肝を冷やしながら、ダイゴはその「豪邸」に足を踏み入れた。
隣を歩く彼女をそっと覗き見る。……ああ、眩しい。
*
カントーのヤマブキシティにある彼女の実家は、とても広い。大企業の社長令嬢である彼女の社会的身分は、おそらくダイゴのそれを大差ないのだろう。
しかし、財産を蓄えることに興味のないダイゴの父の家と、この家とでは天と地ほどの差があるような気がした。
玄関も予想に違わず広く、トクサネシティに構えるダイゴの小さな家が丸々入ってしまいそうだった。
「こんなに立派な家にお邪魔したのは初めてだよ」
客人を迎える部屋らしき一室に通され、席に着いたダイゴが発したその言葉に、しかし彼女は特に感情を見せることなく「そう」と素っ気ない相槌を打つだけだった。
どうやら彼女が「自宅を嫌っている」というのは本当のようで、給仕が入れてくれた紅茶にも、執事が運んできた焼き菓子にも全く手を付けていなかった。
自分ばかりが食べるのもおかしな話だと思い、紅茶だけ少しずつ口に付けながら、彼女に視線を移す。
いつもの、笑顔を湛える彼女がそこに居た。何も変わらない筈のその姿に、しかしダイゴは緊張と憎悪の感情を見る。
目が、鈍色の目があまりにも荒んでいるのだ。彼女の目はあまりにも雄弁だった。ダイゴが慌てて口を開こうとしたその瞬間、彼女は立ち上がり、ダイゴの手を引いた。
「何処へ行くんだい」
「私の部屋です」
含みのある笑みで彼女はクスクスと笑った。それだけ楽しそうな声音を震わせておいて、それでいて目は全く笑っていないのだから恐れ入ってしまう。
部屋を出て、廊下を足早に歩く彼女に、廊下ですれ違う執事やメイドが頭を下げる。彼女は彼等に愛想よく挨拶を交わしながら、通り過ぎていく。
しかしその仮面も、3階の自室に入った途端、一気に崩れ落ちてしまったようで、彼女は大きすぎる溜め息を吐いて近くの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「いい人達じゃないか。キミを嫌っている様子もない。紅茶も香りが立っていてとても美味しかったよ」
「お気に召して頂けて何よりです」
「……あまり嬉しそうじゃないね」
「貴方は自分の檻を褒められて喜ぶことができるの?」
すっと落とされたアルトの声音に、今度こそダイゴは戦慄した。
ああ、この少女はこの家で暮らすことが窮屈で仕方ないのだ。こんなにも立派な部屋を与えられ、こんなにもいい扱いを受けているのに、彼女はそれが悉く気に入らないのだ。
そのことを彼女が纏う空気で、冷たい声音で、荒んだ視線で感じ取ったダイゴは、そんな彼女の笑顔がようやくいつもの朗らかさを呈したことに少しだけ安堵していた。
「そういえば、どうしてボクを家に呼んでくれたんだい?」
「だってダイゴさん、私が「家が嫌い」だということを信じていないようでしたから」
「……それは誤解だね。信じていたよ。君はあんな目で嘘を吐ける人間じゃない」
その言葉に彼女はその鈍色の目を見開き、そして次の瞬間、声を上げて笑い始めた。ダイゴの新調したスーツ姿を見たのと同じ、けれど全く異なる笑い声だった。
ああ、家の者がいないところでようやく、この少女はダイゴにとっての「いつもの少女」に戻ってくれるのだと、ダイゴはようやく理解するに至ったのだ。
そんな「いつもの」様子に戻った彼女は、いつものようにクスクスと楽しそうに笑い、椅子から立ち上がってダイゴの手を引いた。
どうしたんだい、と尋ねる彼に、少女はタンスの下から長いロープのようなものを取り出す。
二本の長いロープには、別のロープがしっかりと、二本をそれぞれ繋ぐようにしっかりと結びつけられていた。50cm程の間隔で、同じ幅で。
あまりにも長いそのロープが意味するものに気付き、思わず吹き出せば、彼女は寧ろ誇らしげにそれを大きく広げて笑ってみせた。
「あの窓から外に投げて、脱獄するんです。素敵な梯子でしょう?」
「……まったく、君のお転婆には恐れ入るよ」
そう呟き、しかしとんでもないことに気付いたダイゴは、慌ててその窓に駆け寄り、勢いよく開け放って下を覗き込んだ。
ここは2階ではない、3階だ。しかも立派な邸宅であるだけあって、床から天井までかなりの高さを確保している。
普通のビルの高さにして4階程はあるのではないかと思える高さに、ダイゴはさっと青ざめた。
「……君は、」
命が惜しくないのか?
こんな危険なことをしてまで、君は外に出たいのか?
それで万が一、命を落とすことになったとしても?
「ああ、ダイゴさん。貴方は私のことを何も解っていません」
「……」
「私は、命よりも自由の方がずっと大事なんです」
凛としたアルトの声音で紡がれたその音に、ダイゴは自らの肌が粟立つ心地がした。
それは恐怖故にではなかった。自由のためなら命すら捨ててしまえると宣言するこの少女に、彼は憧憬のようなものを抱いていたのだ。
ダイゴよりも9歳年下でありながら、自分よりもずっと度胸があり、外の世界への狂気めいた執着を見せる彼女に、ダイゴは焦がれていた。焦がれすぎていた。
その言葉に垣間見えた、彼女の執着の底知れなさに、震えている。恐れではなく、畏れを抱いている。この少女の底は未だに見えない。そして、だからこそ尊く、愛しい。
「私はもう、ガラスケースの中で美しく輝くオブジェのようにはならないわ」
その屹然とした声音にダイゴはその身を震わせる。
ああ、だって、こんなにも眩しいのだ。自分が立ち入ることのできない領域にいるこの少女は、自分を軽蔑するこの女の子は、こんなにも美しく、眩しい。
「さて、それじゃあ早速、この梯子を使って外へ抜け出しましょうか」
「ふふ、トキちゃん。君はポケモントレーナーになったのではなかったのかい?こんな危ない梯子を伝わずとも、君はもう自由に飛んでいける」
さあ、と伸べた手を、少女は僅かに頬を赤らめて握った。
少女はガラスケースを叩き割り、外へと飛び出す。その背中に翼を生やすためなら、きっと少女は命すら喜んで投げ出すのだろう。
あまりにも危なっかしいその思想を、狂気めいた執着を、しかしダイゴは窘めない。咎めない。ただ黙って、見守っている。
構わない。もし少女が命を投げ捨てても、自分が拾い上げればいいだけのことだ。
だから君は安心して羽ばたくといい。
ボクのことを蔑んでも見下しても構わない。もしその翼が誰かに殺がれたとして、落ちてきた彼女を受け止められる距離にボクがいることを許してくれれば、それでいい。
隣を飛んでいた少女は、そんなダイゴの心を読み取ったかのように声を上げて笑い出す。
2015.8.13