磯織りシルク

※雨企画、エピソードデルタ後

ミナモシティの浜辺を、彼女はスキップでもしそうなほどに陽気な足取りで歩いていた。
大人びたその体をオレンジ色の水着に包み、浅く打ち寄せてくる波の上に裸足の足跡をつけていた。潮風がワンピースタイプの水着をふわりと撫でていった。

季節は夏。海水浴を楽しむならカイナシティの浜辺の方が適しているようにも思えたが、彼女は決まってこちらの浜辺を選んでいた。
曰く「ミナモの方が浜辺の白も、海の青も鮮やかだから」ということらしい。
詩人のような表現は果たして、彼女の持ちうる本来の気質だったのか、それとも、彼女の纏った仮面の一つにすぎないのか。
しかし理由がどうであれ、彼女はカイナの海よりもミナモの海の方を好いている。それだけは確信することができたのだ。ダイゴは浜辺に足跡をつける彼女を呼んだ。

彼女は自分の名前が呼ばれたことに少しだけ驚いたようで、きょろきょろと辺りを見渡し、ダイゴの姿を見つけるとぱっと笑顔になって駆け寄ってきてくれた。
その反射的とも呼べそうな笑顔が心からのものであるのか、それとも、大人びた彼女が身に着けた他愛もない処世術の一つであったのか、ダイゴには知る術がない。
相変わらず、ダイゴはこの少女の隠しているところに辿り着けない。

「こんにちは、ダイゴさん。奇遇ですね」

「君は本当にこの海が好きだね」

「あら、海だけじゃありませんよ。私はフエンシティの東にそびえる煙突山も、サイユウシティの大きな滝も、好きです。
ダイゴさんと顔を合わせるのが専らこの場所だから、そんな風に思うのかもしれませんね」

そう告げた彼女から、サイユウシティの滝や煙突山にも頻繁に訪れているという情報を聞き出せたダイゴは内心で安堵の溜め息を吐く。
そう、ダイゴがこの町で少女と出会ったのは、決して「奇遇」などではなかったのだ。
勿論、最初に顔を合わせたのは全くの偶然だったが、それ以降、彼は意図的にこの場所を訪れていた。彼女と出会うことを期待して、この浜辺を歩いていたのだ。
ダイゴはこの少女を探していたのだ。故に浜辺を歩いている彼女を、見逃すわけがなかったのだ。この少女の想いをどうしても得たいと、ダイゴは常々、思っていたのだから。

サイユウシティならポケモンリーグから近い。少しくらい無断でリーグを空けても気付かれない筈だ。
そんな算段を始めている自分にダイゴは少しだけおかしくなる。9つも年下である筈の彼女は、その息を飲むように美しい動作の数々でダイゴを魅了するのが得意なのだ。
この、浮世離れした美をその身に纏う少女には、そうした不思議な引力があるように思われた。
顔立ちだけ見れば、彼女よりも整った容姿をしている人間は少なくないのかもしれない。けれど彼女の美しさはそうした形ではなく、その動きに宿っていた。
たとえば、その華奢な腕を上げて手を振る時。あるいはその、少しだけ日に焼けた足で砂浜を跳ねるように駆ける時。
そして、ホウエンの何もかもが好きだと紡ぎ、屈託のない笑みで微笑む時。

「ホウエン地方って素敵ですよね。ずっとここで暮らしたいなあ」

「でも、カントーよりかなり暑いだろう?」

「そんなことありませんよ。ヤマブキシティのヒートアイランド現象に比べたら心地よい熱気で、ほっとします」

都会は熱を逃がす土の代わりに、熱をため込んでしまうアスファルトがあまりにも多い。
そうした影響から、彼女の故郷は夏になると、連日かなりの暑さを記録しているらしい。こっちの方がずっと住みやすい、と彼女は歌うように紡いで笑った。

「それじゃあ、ずっと此処で暮らすかい?」

「……ふふ、ダイゴさんは狡いわ。そんなことが許される筈がないのに、そんな美味しい餌をぶら下げて笑うんですもの」

「そんなことはないよ、君が望めばすぐにでも叶う願いだ」

「貴方に縛られる不自由と引き替えに?」

その瞬間、彼女はその声音のトーンをすっと落として紡いだ。ソプラノの声音がすっと大人びたアルトのそれに変わり、ダイゴは息を飲む。
その鈍色の瞳は射るようにすっと細められていて、弧を描いたその唇はあまりにも冷たい笑顔を作っていた。
ダイゴは自らの肌が粟立つのを感じていた。「冗談だよ」と微笑みながら、ああ、やはりこの少女は手強いのだと思い知る。思い知って、少しだけ寂しくなる。

彼女はホウエンの土地と自由を心から愛していた。それと同時に、カントーと不自由を厭う心を持っていたのだ。
あの町に帰りたくないと思いつつ、それでも不自由をもってしてこのホウエンに留まるのも御免だと彼女はきっぱりと告げ、笑っている。
良家のお嬢様である少女がダイゴと婚約すれば、彼女の「ホウエンで暮らしたい」という望みは簡単に叶う。彼女はあのカントーの家から自由になれる。
けれど彼女はそうした想いに縛られることを拒み、ダイゴの提案を笑顔で切り捨てる。

この少女に想われることは、世界を救うことよりもずっと、難しい。

「ダイゴさん、見て。布を織っているみたい」

彼女は目の鋭い光を緩め、いつものようにふわりと笑って浜辺を指差した。波が白い砂浜に打ち寄せ、また海へと戻っていった。
その様子を「布を織っている」みたいだと形容した彼女が、その光景を何に重ねたのか、ダイゴは少しだけ時間を掛けてその答えに辿り着く。

「ああ、機織り機のことか。面白い表現をするね」

「こんな風に、寄せたり引いたりしながら、糸を組み合わせて布を織るんでしょう?」

実際にしたことはないんですけどね、と付け足し、彼女は裸足で熱い砂浜を駆け、浜辺と海の境に立つように、波の打ち寄せる浅瀬をゆっくりと歩いた。
ダイゴは自分の靴が濡れない範囲で彼女に近付き、その隣を同じ速度で進んだ。

「北の国でオーロラが見えることも、星の光は何百年もかけて私達の目に届くことも、知っているだけで、実際に見たことも経験したこともありません」

「残念ながら、ボクもオーロラをこの目で見たことはないなあ」

「……ねえ、ダイゴさん。本当にオーロラはあると思いますか?」

唐突にそんな不思議なことを尋ねて少女は笑う。
勿論、あるに決まっている。だからこそあの幻想的な光景が数多の写真となって世に送り出されている訳で、ダイゴも少女もその存在を認知するに至っているのだから。
その存在を知って、北に赴いた人間が、何人もその美しい光景を目にしているのだから。

けれど、少女の鈍色の目はどこまでも透き通っていて、ダイゴはそう即答することを躊躇わざるを得なかった。
本当に北にはオーロラがあるのだろうか。本当に夜空の星は何百光年という遠さに位置しているのだろうか。本当に布は機織り機で織られているのだろうか。

「私、その全てをこの目で見てみたいんです。機織り機も、オーロラも、星も、私の目で見て、実在するものだと確かめたい。
だから、カントーに閉じ込められることも、貴方に縛られてホウエンに残ることもできないんです。だって、カントーにもホウエンにも、オーロラはないんだもの」

そう紡いだ彼女が、あまりにも遠くへ行ってしまいそうな気がして、ダイゴは思わず言葉を紡いでいた。

「それじゃあ、ボクを連れていってよ」

「え……?」

「ボクもオーロラを見てみたいと思っていたんだ。ボクを君の旅に同行させてくれないか?」

その鈍色の目が、零れ落ちそうな程に大きく見開かれた。最初からこうしていればよかったのかもしれないと、ダイゴは微笑みながらそんなことを思う。
彼女はダイゴの想いを拒んでいた。それは彼の思いを受け取ることで、自分が今の自由を失ってしまうことを懸念していたからである。
彼女は愛よりも自由を尊んでいた。彼女がダイゴを好いているか嫌っているか、そんなことはどうだってよかったのだ。
大事なのはこの青年が自分の自由を脅かす人間であるか否かという、その一点に尽きるのであり、その一点において、彼女はダイゴを拒み続けてきたのだ。

ダイゴは少女の欲する自由に敵わない。その事実は動かなかった。
しかしその自由をダイゴが尊重し、自らを二番手に甘んじることで、彼女の想いは真っ直ぐに自分へと向けられるような気がしたのだ。
その想いが、少女の焦がれる自由に敵わずとも、今はそれでよかったのだ。

「……私と一緒で、ダイゴさんは楽しめるんですか?」

「ああ、十分に」

息をするように肯定の返事を紡げば、彼女はいよいよ驚きに沈黙する。その頬が僅かに赤く染まっている。
……ああ、なんだ。自分はこの少女に嫌われている訳では決してなかったのだと、認めた瞬間、ダイゴの心を温かい何かが満たした。安堵と歓喜に溜め息すら震えていた。
彼女は肩を震わせてクスクスと笑い始めた。ダイゴは感情を持て余し過ぎて笑うことができなかった。

「嬉しい!私、ダイゴさんと一緒に行きたいところが沢山あるんです!」

「……そ、それならそうと言ってくれればよかったじゃないか」

「あら、ダイゴさん、これでも私は16歳の女の子なんですよ?デートの誘いを自分からしろ、なんて、随分と野暮なことを仰るのね」

ダイゴはいよいよ息を飲む。少女はクスクスと笑いながら赤く染まった頬のままにダイゴの手を引く。
波が織った白い布の上に、二人分の足跡が重なる。次の波がきっとその軌跡を飲み込むのだろう。
今はそれでいい。きっとそれがいい。この少女の自由を今から奪い取ってしまうには、その鈍色の目はあまりにも眩しすぎる。

2015.7.16
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございました!

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