※雨企画
激しい音を立てて降り出した雨に、マツブサはジェラートを掬ったスプーンをぴたりと止めて窓の外を見遣った。
少女もまた、弾かれたように顔を上げて外を見る。
いきなりの豪雨に食事をしていた人達もどよめき始めていた。
「凄いスコールですね」
マツブサの向かいに座った少女は、寧ろ楽しそうにそう告げて笑ってみせた。
普段とは違う天候にわくわくする。子供なら誰しもそういった経験があるのではないだろうか。
しかしそうした子供の反応を、目の前の16歳の少女が屈託なく見せたことにマツブサは少しだけ驚き、微笑む。
この少女は大人も顔負けの淑女のように振舞いながらも、その心はまだ幼いままなのだと、そうした彼女の一面が垣間見える瞬間だった。
「君、傘は?」
「そんな上品なもの、持っている訳がないじゃないですか」
クスクスと冗談のように言って少女は笑う。淑女の振る舞いを身に着けている上品な少女が、自分のそうした性を否定して屈託なく笑う。
そのアンバランスな心が酷く愛おしいと感じた。つまるところ、マツブサはこの少女を大切に思っていたのだ。
彼女は残りのジェラートを口に収めてから、すっと立ち上がった。
「マツブサさん、ゆっくり食べてくださいね。その間に近くの店で傘を買ってきますから」
「……は?いや、君は、」
鞄を持って得意気に笑い、マツブサが制止をかける暇もなく駆け出した。
暫くして、マツブサははっと我に返ったように立ち上がった。ジェラートはまだ半分ほど残っていた。
あの少女は自分のために傘を買いに走っていったのだと、認めた瞬間マツブサは焦った。
早く追いかけなければ。しかしマツブサの焦りも虚しく、彼が席を立ったその瞬間に、豪雨の中を少女が猛スピードで駆けていく姿が見えた。
こんな雨の中を走っていては風邪を引いてしまう。普通なら、こうした行為は男性である自分がすべきことである筈だった。
先を越されてしまったことに対するやるせなさと、早く少女に追いつかなければという焦りが交錯して、マツブサは慌てて会計を済ませた。
喫茶店を飛び出せば、豪雨が彼の衣服を濡らした。
視界を遮る程の雨の中、彼は大通りに飛び出す。彼と同じように、傘を持ち合わせていなかった人々が、鞄や衣服を傘の代わりにして雨宿りできる場所を探していた。
マツブサは視線をさっと泳がせたが、彼女は既に見つからなかった。
何処に行ったというんだ。益々焦ったマツブサは、群衆の間も憚らずに大声をあげた。
「トキちゃん、何処に居るんだ!」
この豪雨の中、行き交う人は自分のことで精一杯で、マツブサの方を振り返る余裕などなかった。そしてマツブサも、そうした人の視線を気にする余裕などなかったのだ。
マツブサは彼女の名前を呼び続けた。衣服が雨に浸り、重くなっていく。体が急激に冷えているのが解り、ああ、彼女はこんな雨の中を駆けたのだと恐ろしくなる。
自分も決して体力に自信がある方ではなかったが、それでも今、足を止めれば間違いなく後悔することになるだろうということは解っていた。
「……」
何度呼んでも、返事は返ってこない。「マツブサさん」と自分の名前を呼ぶ、彼女の屈託ないソプラノは聞こえない。
もう既に傘を買って、あの喫茶店に戻っているのかもしれない。もしそうなら、入れ違いにならないように戻らなければならない筈だった。
しかし、マツブサの足が再び喫茶店の方を向くことはなかった。代わりに彼はありったけの声を振り絞って彼女の名前を呼ぶ。
激しさを増す雨がマツブサの不安を煽った。
「!」
そうして雨の中を走っていたマツブサは、角を勢いよく曲がって来た人影にぶつかってしまう。
すまない、と謝ろうとして、そして気付いた。その人物の背格好と見に纏っている服が、自分のよく見知った少女のそれに酷似していることに、
そうして勢いよく顔を上げ、ソプラノで紡がれた自分の名前に、マツブサはようやく確信する。
「マツブサさん!」
「……ああ、やっと見つけた」
安堵の溜め息を吐いたマツブサだが、少女はビニール傘を持っていない方の手でマツブサの腕を強く引く。
その顔色には驚愕と叱責の色が映っていた。少女は珍しく声を荒げて彼に詰め寄る。
「どうして付いて来たんですか!びしょ濡れじゃないですか!」
「それは君も同じだろう」
「私は旅をしていて、スコールには慣れているから少しくらい濡れたって平気なんです。
それに、私が風邪を引いたとしても困るのは私だけです。マツブサさんが風邪を引いてしまったら、困る人が大勢いるんですよ」
そう言いながら、彼女は近くの店の屋根へとマツブサを引っ張っていった。
髪や服から雨を滴らせておきながら、少女は自身ではなくマツブサの心配をしている。そのことがおかしくて彼は笑った。
相手の方を心配してしまうのは、自分も少女も同じだったのだと気付いたからだ。
少女は自分の服の裾を摘まんで、ぎゅっと絞る。鞄に入っていたまだ濡れていないハンカチをマツブサに差し出す。
君も濡れているのだから、君が使いなさい。そう言おうとしたマツブサの声は豪雨に掻き消された。
「しかし、どうして急に飛び出したりしたんだ」
「え……?」
「このような雨の中を走れば、そのように濡れてしまうことは解っていただろう?この豪雨が収まるまで、喫茶店で時間を潰すことだってできたというのに」
できるだけ彼女を責めないようにそう尋ねれば、何がおかしいのか、少女は声をあげて笑い始めた。
追求しようとしたマツブサの声は、やはり雨音がさらっていく。この雨の中ではまともに会話をすることすら困難だ。
しかし彼女はそんな豪雨の音にも怯まず、ビニール傘を掲げて大声で紡いでみせた。
「だって、雨が降っているんですよ?」
その当たり前の事象にマツブサが首を傾げれば、少女はクスクスと笑いながら「なんでもありません」と続けた。
この少女は雨に濡れるのが好きなのだろうか?そう思っていたマツブサの手を少女はもう一度、強く引く。
そうしてビニール傘を勢いよく広げ、雨の中に飛び出し、マツブサを手招きして見せるのだ。
初めて雨を見た子供のようにはしゃぐ彼女が解せなくて、けれどその笑顔の引力に従うようにマツブサは足を進め、少女から傘を受け取った。
マツブサの方が背が高いため、必然的に彼が傘を持つことになるのだ。
「!」
そうしてマツブサはようやく気付いた。少女が僅かに頬を赤らめて笑っていることに。
ああ、そういうことだったのか。ようやく腑に落ちたマツブサは同じように笑ってみせた。
「二人ともびしょ濡れだから、傘の意味がなくなってしまいましたね」と、そんな心にもないことを少女は紡ぐ。
少しだけからかいたくなって、マツブサは真面目な顔つきで言い返してみる。
「そんなことはない。二人で傘を差していることに意味があるのだ。そうだろう、トキちゃん」
「あら、マツブサさんは何でも知っているんですね。大人って狡いなあ」
「大人だからではない。君を見ていたからだ」
「……そんなことを言う人にはもう傘を貸してあげませんよ!」
後半の言葉は冗談ではなかったのだが、彼女は顔を赤くして強い口調で言い返した。
手を伸ばして傘を奪い取り、駆け出す。マツブサは彼女を追い掛けながら笑う。彼女が振り返って何かを叫んだが、雨の音に掻き消されて聞こえない。
けれどマツブサの彼女を呼ぶ声は、ちゃんと聞こえているのだろう。その証拠にもう一度名前を呼べば、雨の向こうの少女は頬を染めて屈託無く笑い、手を振った。
傘を畳んでしまった少女に苦笑する。ああ、頼むから傘を差していてくれ。君が風邪を引いて心配する人間が、ここに少なくとも一人は居るのだから。
2015.4.17
素敵なタイトルのご提供、ありがとうございました!