魔法の色は檸檬

※恋愛描写がやや強めです(当サイト比)

シアさん、また背が伸びましたね」

テーブルの向かいで食事をしていた彼は、至極嬉しそうに微笑んで僅かに首を傾げた。
そこにはその言葉を受けて、私が「そうなんです!」と嬉しそうに同意することを期待する色が含まれていると、解っていたから私は得意気に笑う。笑ってから、本音を告げる。

「背が伸びたことは勿論嬉しいけれど、でも、悲しいことも少しだけあるんです」

「……ふむ、お気に入りの服が小さくなってしまった、ということでしょうか?」

「あれ?……あはは、どうして解ったんですか?」

去年の誕生日に買ってもらった、お気に入りの靴がもう小さくなってしまっていた。
青色のダッフルコート、彼に貰ったおもちゃの指輪、旅に出た頃から使い続けてきた鞄、それら全てを置き去りにして、私の体は大きくなった。
コートも、指輪も、靴も、私の時間に合わせてなどくれない。彼等は何も変わることなくそこに佇んでいる。大きくなり、姿を変える私を何も言わずに見送っている。
身に着けることの叶わなくなったそれらのお気に入りは、捨てざるを得なくなったその全ては、
しかし寧ろ「そう在ることが自然である」とでも言わんばかりの屹然とした態度で、クローゼットの奥に佇んでいる。

私はそれらを時折手に取り、けれどすぐに戻す。まだ、捨てられなかった。捨ててしまえば、私はいよいよそれらの思い出から見限られてしまうような気がしたからだ。
彼等を見限ったのは大きくなってしまった私なのに、何故か大切な時間を共にした彼等の方に、私が見限られているように思われてならなかったのだ。

そうした何もかもを彼は見抜く。私の心を読み、私の葛藤を言い当てて微笑む。
見抜かれることは恐ろしいことなどではなかったのだと、私はこの人に教わった。
私のことを私と同じくらい、いや、もしかしたら私以上に知ってくれているという「事実」は、数年前の私の心をほの甘く揺らした。そして、それは今でも続いている。

「服も靴も、鞄も、貴方と大切な時間を過ごした思い出の品だから、捨てられずにいるのでしょう?」

「……呆れましたか?」

「いいえ、全く」

優しく告げて、彼は首を振る。ほの甘い幸福が頬を撫でる。

ウエイターさんがデザートを運んできてくれた。真っ白なテーブルクロスの上に、真っ白なお皿が2枚、音を立てることなく並べられる。
マカロンとジェラートという組み合わせに、歓喜の声を上げそうになったのは不可抗力だ。コーヒーの到着を待っている間の時間すらもどかしいと感じた。
子供のような振る舞いを見せる私を、彼は笑って許してくれた。そうして許しながらコーヒーの入ったカップを掲げ、至極楽しそうに笑みを深くした。

シアさんがコーヒーを飲めるようになったのは、いつからだったのでしょうね。少なくとも、わたくしと出会って直ぐの頃は、コーヒーよりもココアを好んでいましたが」

「でも、旅を終えてプラズマフリゲートで再会した辺りから、私、コーヒーを飲もうとしていましたよ。
貴方が研究の合間にいつも飲んでいるものを、私も飲めるようになりたいって、背伸びをしていたんだと思います」

これは歯の浮くような、恥ずかしい台詞であったのかもしれなかった。けれど私はもう、そうした言葉を告げることに気恥ずかしさを感じないようになっていた。
私が彼を想っていることは事実であり、誰よりも何よりも慕っている「私」に嘘など吐きたくなかった。この人には誠実で在りたかったから、私はありのままを彼に伝えた。

私達の間には、大人っぽい恋の駆け引きも、甘酸っぱい恋模様もなかった。それがよかった。私は、ただこの人と一緒に居られればそれでよかったのだ。
そうした愚直の過ぎる私に、彼は呆れているのかもしれなかった。こんな単純で愚鈍な私など、見限られてしまうのかもしれなかった。
けれど、見限られるかもしれない、私は彼に相応しくないのかもしれないと、そう思いながら3年が経った。彼は未だに私を見限らない。
だから私は思い上がった、浮ついた心のまま、今日も彼の傍で笑うことを許されている。魔法はまだ、解けていない。

「では、今こうしてわたくしと同じコーヒーを注文したのも、貴方の背伸びだったのですか?」

「いいえ、今は違います。好きになったんですよ。貴方の好きなものを、好きになることができたんです」

貴方と過ごした3年は、それを可能にするだけの長い時間でした。
そう、声に出すことなく付け足して笑う。彼は驚いたように目を見開いて、困ったように首を傾げた。
「貴方の真っ直ぐな言葉と誠実な音は、時々、わたくしには眩しすぎる」だなんて、私がこの人に抱いているような言葉を並べて、彼は重い瞬きをする。白い肌が僅かに赤い。

背が伸びた。お気に入りの靴や服が小さくなった。コーヒーを飲めるようになった。
私はこの3年で、目まぐるしく変わっていった。そうした忙しない、慌ただしい私を許すように、責めるように、彼は何も、何も変わらなかった。
その高い背がそれ以上に伸びることも、服が窮屈になることも、毎日飲むコーヒーの量が増えることも、彼にとっては「在り得ない」ことだった。
彼の変化の時間は、もうとっくに終わっていたのだ。だから彼は変わらない。変わらないままに此処にある。これからもずっとそうなのだと思っていた。……けれど。

「貴方はこれから、もっと素敵な女性になるのでしょうね、シアさん。わたくしは、きっといつか置いていかれてしまう」

驚きに目を見開いた私は、しかし次の瞬間、クスクスと努めて声を抑えつつ、笑い始めた。
堪えなければと思えば思う程にその愉快な悲しい気持ちは喉の奥からせり上がってきた。止まらなかった。
本当は笑いたくなどなかったけれど、此処で感情のままに別のものを零すことなど許されなかったから、愉快であるということにしておいた。楽しくて仕方ないのだと嘘を吐いた。
そんな醜い嘘も、実際にこうして笑えば真実になった。

長い、長い時間を彼と過ごしていたかった。
彼が次にどんな言葉を紡ぐのか、彼が私の言葉を受けてどんな風に笑うのか、そうしたことが読めるようになるまで、彼と同じことができるようになるまで、共に過ごしていたかった。
私の傲慢な予言が真実の形を取るまで、そして、取ってからもずっと、彼と一緒にいたかった。それは私の、それ以上でも以下でもない心からの願いであり、祈りだった。
けれどそのささやかな祈りは、届かない。

「それは違います、アクロマさん。私をいつか置いていくのは貴方です」

私は成長する。彼は老いていく。十数歳という年の差は残酷にも、二人の共有できる時間が一般のそれよりも短いものであることを克明に訴えてくる。
貴方はいつか私を置いていく。私はそれを引き留めることができない。

孤独、不安、恐怖、絶望、そして僅かな憤りを込めて私はその音を紡いだ。
貴方はいつか私を置いていくのだと、それは貴方の命が、この美しく廻る世界の仕組みに従っただけのことで、誰のせいでもないのだと、けれど、どうしようもなく苦しいのだと。
彼はその眼鏡の奥で驚いたように目を見開いていたけれど、やがて長い、長い沈黙の後でそっと口を開いた。

「……それは、貴方にとって悲しいことなのですね、シアさん」

貴方にとってはそうではないのだろうか。そう尋ねようとして、思い留まった。
いよいよ泣きそうになる私の前で、彼は寧ろ楽しそうに微笑んで手を伸ばす。私の頭がそっと撫でられる。顔を見られたくなくて私は目を伏せる。マカロンの鮮やかな赤が、揺れる。

「ただ、申し訳ありません。それはわたくしにとってはこの上なく幸福なことです」

「え……?」

「だって貴方が、ずっとわたくしと一緒にいてくださるということなのでしょう?わたくしがいなくなってしまうまで、ずっと」

弾かれたように顔を上げた。金色の目がすっと細められた。凪いだ海のような深い彼の笑みは、私にはどうにも眩しすぎた。見て、いられなくなった。
私は置いていかれてしまう。それはとても苦しいことだと思っていた。けれど彼はその現象を指して「幸福なこと」だと言う。
私が絶望を見出したその別離に、彼は希望を見る。

「互いに大きな病気や怪我をしなければ、少なくともあと、50年。十分すぎる時間だとは思いませんか?わたくしと貴方は、もしかしたら出会うことさえなかったかもしれないのに。
……シアさん、貴方はわたくしと出会ってくださったことを喜ぶより先に、わたくしに置いていかれることを悲しんでしまうのですか?」

「……」

「一緒にいましょう、シアさん。貴方の背が伸びなくなるまで、わたくしの背が曲がってしまうまで。悲しむのはきっと、それからでも遅くありません」

成長すること、老いること、それは彼を絶望せしめるものではなかった。
別離の絶望よりも先に、邂逅の喜びを噛み締めるべきだと、彼はやわらかく諭すように告げる。
私は彼の言葉に間違っていると言い返せるだけの意思を持たない。私は彼の幸福を糾弾できない。
だから、彼の笑顔に寄り添うようにぎこちなく笑った。笑えばやはりそれが真実になった。

人より少し短い間だけれど、それでも私は世界の理が許す限り、彼の傍に在れるのだ。

「貴方の、」と吐き出した息は、しかし私の恐れた震えの形を取りはしなかった。
どうしました、と首を傾げる彼に、少しばかりからかうように告げる。もう私の発する音に絶望の火は灯らない。もう彼は私の言葉に驚かない。

「貴方の背が曲がるところなんて、想像もつかない」

「ええ、そうでしょう?わたくしも、貴方がどんなに素敵なおばあさんになるのか楽しみです」

私は肩を竦めて微笑み、スプーンを手に取って、……そして、笑い始めた。
レモンのジェラートはすっかり溶けてただの液体と化し、その中を赤いマカロンが呆れたように泳いでいたのだ。
こうやって不思議な言葉を夢中で交わし、時を忘れ、スープを冷ましたりジェラートを溶かしたりして折角のディナーを台無しにする。
何も今日に限ったことではなかった。私と彼との間には、こうしたことがよく起こるのだ。

私はもう、彼の前でジェラートを溶かした回数を覚えていない。それがいよいよ幸福なことであると、解っていたから私は笑った。
液体のジェラートを冷製スープのように掬って口に運ぶ。この中にはきっと3年分の、「私と彼が共に在る」という、奇跡と呼べそうな魔法の色が溶けている。
魔法がなくとも時は流れ、ジェラートは溶け、私達は此処に在るのだと、解っているから私はその魔法を飲み込んだ。
マカロンは檸檬色の魔法をスポンジのように吸って、笑うようにふやけていた。

2016.10.23
霙さん、ハッピーバースデー!

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