プラズマフリゲートの一室に入ると、異様に散らかった空間の真ん中で、一人の男性が倒れているのが見えた。
しかし少女は特に驚かない。この人が研究中に、エネルギー不足と睡眠不足で倒れるように眠りこけてしまうことも、
研究をするのは得意だがその結果として生じる数多の資料の整理を苦手としていることも、よく知っていたからだ。
「さて、何から片付けようかな……」
2日振りに訪れたその空間の入り口で、少女は腕を組み考え込む。長いツインテールが腰の傍でふわりと揺れる。
暫くその体制で思考を巡らせていた彼女は、取り敢えず足を取られて転んでしまわないように、床に散らばったものから纏めようと一歩を踏み出した。
ポケモンの心電図をグラフにしたものや、技の威力の数値が殴り書きにされたもの、次の研究の予定が書かれた小さなメモまでもが、何の規則性もなく床にばら撒かれている。
グラフには幸いにも番号が振られていたため、少女はそれを頼りにそれらの紙を並べ替えた。
「……」
こう見れば、甲斐甲斐しく男の身の周りの世話をする少女という構図でしかないのだが、少女は別の目的でこの部屋を訪れていた。
先程から彼女が手に取り並べ替えている実験結果のグラフ、少女はそれを盗み見ているのだ。
彼が今、どのような研究をしているのか、どのような仮説を立て、それを検証するためにどのような実験が必要なのか。
対照群はどのように設定して、その結果はどの形のグラフで表すのがいいのか、など、そうしたことを読み取りながら無数の書類に視線を落としていたのだ。
……私はこの人ほど博識でも聡明でもないけれど、せめて自分のことくらいは自分でできる研究者になろう。
そんな誓いを立てながら、今日も彼女は甲斐甲斐しく彼の世話を焼く。世話を焼きながら、彼の下で学んでいる。
つまりはそうした、ウィンウィンの関係であったのだ。少女にも男にも不満は全くなかった。
もし、少女の方に不満があるとすれば、せめてちゃんと食事を摂って規則正しく眠ってくれ、ということになるのかもしれないが、こればかりは彼の悪癖なのだから仕方ない。
そうこうしている内に、少女の靴音や紙の擦れる音に反応したのか、隣の部屋から1匹のポケモンがふわふわと漂ってくる。
洗濯機の形をしたそのポケモンに、少女は「おはよう」と挨拶をした。
「ロトム、ご飯はちゃんと食べた?」
その問いに頷いたことを確認して、少女は安堵の溜め息を吐く。
彼はよく食事を怠るが、自身の食事だけでなく、自身のポケモン達への食事も往々にして忘れてしまうことがあるのだ。
自己管理の甘さも此処までくると危険な域に達しているような気もするが、何度言っても彼の悪癖は治る兆しを見せなかったため、ついに少女は諦めてしまっていた。
化学的な分野に秀ですぎた代償であるような気もしていたし、治らないのであればこうして自分がフォローすればいいだけのことだと思っていたのだ。
どのみち、まだ10代である少女は一人で研究職になど就くことはできない。
彼女も彼のフォローなくして将来の道に進むことはできないのだから、似たようなものだ。少女はそう考えていた。
「ねえ、昨日、アクロマさんがご飯を食べているのを見た?」
その言葉を言い終えるのと同時に、その身体が大きく横に振られたので、少女はやっぱり、と苦笑する。
睡眠も食事も忘れ、ただ目の間の現象と数値とに心を奪われ続けた結果がこの様だ。
けれどこれが「彼」なのだから仕方ない。そんな彼の傍で学ぼうと決めたのも私であるのだから、仕方ない。
そして奇妙なことに、少女はその「仕方ない」を、とても嬉しそうに紡いでみせるのだから厄介だ。
彼女がこの、寝食を忘れるという悪癖を持つ男にどのような感情を抱いているのかは、その笑みから推して知るべしと言ったところだろう。
さて、そうと決まれば適当に食べるものを用意しておくべきだ。少女は彼の自室に隣接している簡易キッチンに向かい、段ボールの中身を探る。
少女は男から預かったお金で保存の効く食料を定期的に買い込んではいたが、その殆どが使われることなく放置されているのだ。
カップラーメンやパスタの類が大量に詰め込まれた段ボールの中から、少女の好みでパスタを選び、鍋に水を満たして火にかける。
研究のためならどんな煩雑な手順も息をするようにこなしてみせるのに、料理となるとお湯を沸かすことすら億劫だというのだから、おかしな話だ。
小さなテーブルの上に詰まれていた実験器具を下におろし、料理を置くスペースを作ったところで、彼を起こしに向かった。
いざとなれば、ロトムのハイドロポンプで起こせばいい。
荒っぽい起こし方だが、実は「揺すっても起きない場合はそうしてくださっても構いません」と、本人から許可を貰っているのだ。
少女は躊躇する様子を見せず、ロトムを引き連れて床に転がっている男に近付いた。
「……アクロマさん、起きてください」
「……」
「眠るならせめてベッドで寝てください。風邪を引きますよ」
何度か揺すってようやくその金色の目を開けた彼は、不機嫌そうに眉をひそめたものの、その目に少女の姿を映すや否や、その顔をふわりと綻ばせて微笑んだのだ。
まだ遠近感を掴むことができないのか、左手が不自然に宙を彷徨っている。
その様子を見て困ったように笑っていた少女だが、彼の開口一番発したとんでもない言葉に頬を引きつらせた。
「おやおや、可愛らしい奥さんですね。今日もわたしに会いに来てくれたのですか?」
……勿論、まだ15歳にも満たない少女が、この男と結婚している訳がない。けれどこの男はたまにこうして、寝起きのよく回っていない頭で幻想を語るのだ。
彼のもう一つの悪癖に少女は驚き、こればかりは何度経験しても慣れないと、跳ねた心臓を落ち着かせながら彼の額を軽く叩く。
「何を言っているんですか。私はまだ結婚できる年齢じゃありませんよ」
「でも、そのつもりなのでしょう?」
……いっそのこと、ロトムにハイドロポンプを命じてみようか、と思った。今日の彼は酷く饒舌だ。
それだけなら別にどうってことはない。我に返った彼が顔を真っ赤にして謝る様子が見られるのなら、少女もまだ、許すことができただろう。
「だから貴方は、こんなわたしの元へ何度もやってきてくれるのでしょう?わたしより優秀な科学者など、いくらでもいるのに」
しかし厄介なことに、彼はこの微睡みの中で発した言葉の全てを、その思考が覚醒しきった頃には綺麗さっぱり忘れているのだ。
彼が完全に目を覚ますまで、少女は彼の言葉に振り回されるしかない。
そして彼が目を覚ました後は、あれは夢の中の出来事だったのだと、少女の方でも綺麗さっぱり忘れる努力をしなければならないのだ。
「……ええ、そうです。優秀な科学者は他にも沢山いらっしゃるのに、私は貴方の傍で学ぶことを選んだんですよ。
さあ、パスタを茹でている間にちゃんと目を覚ましてくださいね。どうせ私が来なかった2日間、空っぽの胃にコーヒーだけを注ぎ続けていたんでしょう?」
クスクスと笑いながら、少女は彼の手からするりと抜け出してキッチンへと向かった。
沸騰したお湯に大量の塩を放り込んでから、二人分のパスタを入れる。茹であがるまでの間に、レトルトのクリームソースも別の鍋で温める。
もし結婚したら、こんなレトルトや既製品ばかりじゃなくて、もっとそれらしい栄養価の高いものを作ってあげなければいけないなあ。そんなことを思いながら少女は笑う。
彼のうんざりするような悪癖を少女はよく知っていたけれど、その悪癖から紡がれる彼の言葉が全くの嘘ではないこともまた、知っていたのだ。
彼は嫌っている相手を「奥さん」などと呼ばない。思ってもいないことを口にすることなどできない。
今はそれだけでよかった。仮に将来、そうならなかったとしても、それはそれでよかったのだ。
彼はどんな形であれ、私が彼の傍で学ぶことを許してくれるだろうと確信していたからだ。少女はそれだけで満たされていた。
その後に、そうした「おまけ」が付いてくるなら、なんと幸せなことかとは思ったけれど、そうでなくとも十分だと微笑める程には、少女は彼を慕っていたのだ。
まだ15歳にも満たない少女の想いなど、その程度で十分だった。
そうして茹であがったパスタにクリームソースを絡め、グラスに水と氷を入れてテーブルに並べていると、白衣をしわのないものに着替えた男がいつもの表情で現れた。
おはようございます、と紡がれる柔らかなテノールに少女は思わず目を細める。
少女はおはようございます、と返さない。その挨拶は先程、彼が忘れてしまった記憶の中で既に告げていたからだ。
「昨日は来られなくてごめんなさい」
「ええ、おかげで丸一日、何も食べることができませんでした」
「それは私のせいにしないでください。食べるものは有り余る程に買い溜めているんですからね」
ぴしゃりとそう言い放てば、彼は困ったように肩を竦めて微笑む。
昼の1時という、昼食にしては少しだけ遅い時間帯に、二人はテーブルに着き、湯気の立つパスタを食べるためにフォークへと手を伸べる。
2015.8.22