こわれもの

※ED後

プラターヌ博士の手はとても綺麗だ。細くて長い、ピアニストのような指と、深く切られた爪。そしてやや冷たい温度。
女である私ですら憧れる程にその手は綺麗だった。それでいて節張っている辺りに男性らしさをも感じさせる。
いいなあ、と呟くと、彼は困ったように笑って向かいに座った私の手を握った。

「君の手だって綺麗じゃないか」

「ありがとうございます」

即座に苦笑しながら返したその言葉から、彼は自分の褒め言葉が真摯なものとして受け取られていないことを敏感に感じ取ったらしい。
「いやいや、本当のことだよ」と付け足して笑うので、その優しさが嬉しくて私も笑った。

ミアレシティのカフェにて、こうした他愛もないやり取りをする。この時間は私の宝物だった。
彼は「ボクの休憩に付き合って」と言っていつも私を誘ってくれる。
「君とのコーヒーブレイクがあると思うだけで、明日も1日頑張れるよ」だなんて、笑顔でそんなことを口にする。
しかし訂正を加えるなら、元気を貰っているのは明らかに彼ではなく私である。

「小さいね」

彼はコーヒーで温まった手で私の指をなぞった。それほど綺麗でもない指を見て微笑み、ありふれた形の爪に触れてはにかむ。
私の手なんか、見ていて面白くもなんとも無い筈なのに。
それとも研究者である彼は、私には見えない面白さをこの手に見出してくれているのだろうか。
もしそうなら在り難いことだと思った。どんな形であれ、彼の興味を引けるものが私の中に存在するという事実は歓喜して然るべきだ。

「背も低いですから」

「いいじゃないか、女の子は小柄なくらいが可愛いよ」

「こ、これからもう少し伸びる予定なんです」

「おやおや、これは失礼」

彼は肩を竦めて笑い、手元のコーヒーをそっと口に含んだ。

彼の動作は基本的に優しい。男の人だから、私よりも力がある筈なのに、私の前ではそうした男らしい素振りを見せない。
勿論、私の重い鞄を軽々と持ってくれたり、ローラーシューズでの滑走に失敗してひっくり返っているところを助けてもらったりはしたのだが、
こうしたちょっとした動作は基本的にとても穏やかになされる。激情に任せてグラスをテーブルに叩きつけたり、私を強引に抱き寄せたりしない。
それは私に気を遣っているからではなく、ただ単に彼の性分なのだろう。そして私は、彼のそんな一面をとても好ましく思っていた。

ゆっくりと飲んでいたコーヒーが空になった頃、どちらからともなく席を立つ。
当たり前のように財布から二人分のコーヒー代を払ってくれる彼に、最初こそ萎縮していたが、今では素直に「ありがとうございます」と言えるようになった。
「誘ったのはボクなんだから、ボクが払って当然だろう?」と、私を納得させるために彼はそんな風に言うのだ。
いつか私からコーヒーブレイクを誘いたい。そして当たり前のように財布から彼の分のコーヒー代も支払って、「だって私が誘ったんですよ?」と言えるようになりたい。
断られることへの恐れから、私はそれを実現させたことがないのだけれども。

私よりも遥かに背の高い彼が、そっとドアを開けて私を通してくれる。
ありがとうございます、とお礼を言うのだけは欠かさない。それは私が彼に報いられるたった一つの手段だからだ。
コーヒー代をいつも支払ってくれる彼に、何かプレゼントを用意するだなんて可愛い真似は出来ない。しかし私が自分のコーヒー代を出すことを彼は許さない。
毎日のようにコーヒーブレイクに誘ってくれる、そんな優しい彼に、自分から誘いの言葉を掛ける勇気すらない。
だから、こんなみっともない人間だけれど、いつも気に掛けてくれてありがとうございます、と、そうした気持ちは伝えるようにしていた。
逆に言えば、それくらいしか彼に報いられる手段が思いつかないからだ。

彼が私のことを気に掛けてくれているのは知っていた。
イッシュからやって来て、右も左も言葉すらも解らない私を、彼はよく助けてくれた。
そうした行為が、全ての新米トレーナーに対してなされている訳ではないことを、私は随分後になって知った。
私がメガシンカを使いこなせたからだろうか。フレア団と戦ったからだろうか。リーグのチャンピオンになったからだろうか。
しかしそのどれもが、私を称賛してくれる理由にはなれど、こうして毎日のように私との時間を割いてくれる理由にはならない。
彼がこうして私に良くしてくれる理由を、私は頻繁に考えていて、しかしどうしても解らないのだ。私は彼ではないから。彼を解ろうとしていないから。その勇気がないから。

シェリー

カフェを出て、夜も更けたミアレの町を歩いていると、不意に彼は立ち止まった。
呼ばれた名前にほんの少しだけ驚き、はい、と上ずった声で返事をすると、彼は自分の左手をひらひらと掲げて笑った。
そしてそのまま、そっと私の手を握る。繊細なガラス細工を扱うかのように優しいその手つきに息が詰まった。
最近では、たまにこうして手を繋いでミアレの町を歩くことがあった。
まるで恋人みたいだ、と、恐れ多いことを考えたりもした。私達の関係に名前はなくて、きっと名前など付けるべきではなくて、それでも私は満たされている。

彼は優しい。私は彼の優しさに甘んじている。
私は彼に報いられる時が来るのだろうか。

「あ」

ふいに夜の空を見上げた私は、綺麗な三日月が浮かんでいるのを見つけて思わず声を上げていた。
私から会話を作ることは本当にまれで、彼はそれを取り零すことなく拾い上げてくれる。
今回もそうで、「本当だ、綺麗だね」と私以上に感慨深く呟いて、いつまでも月を見上げている。
ボクはちょっとぽってりしたくらいの三日月が好きだけどね、とうそぶいて、それでも手は離されない。

「君はこういう、綺麗なものを見つけるのが得意だよね」

「……」

「素敵だと思うよ」

私は眩しい三日月のことを忘れたかのように茫然と立ち尽くした。
手を握ったままだったため、彼も私の一時停止に巻き込んでしまった。不思議そうに笑って、茫然自失になった私の顔を覗き込む。

「どうしたの?ほら、固まらないで」

彼は空いた方の手で私の頭をそっと撫でた。腫れ物に触るような、あまりにも優しい手だ。

「……ありがとうございます」

「うん、こちらこそ、いつも遅くまで付き合ってくれてありがとう」

違う、違うのだ。そうではない。私が言いたいのはこんなことではない。
自分の臆病さが自分の首を絞めていることに、随分と前から気付いていた。
この優し過ぎる人に伝えたいことはありすぎて、しかしそのどれもが音にならず消えていった。私は馬鹿の一つ覚えのようにありがとうとしか繰り返せなくなっていた。
ありがとう、ごめんなさい、すみません、ありがとうございます。
そんな言葉ではない、それでは足りない。勇気も言葉も何もかもが足りない。

「いいんだよ、シェリー。ゆっくりでいいからね」

それでも彼は許してくれる。私は彼に報いる術が見つからない。

ついにはみっともなく泣き出した私の頭を、彼はあやすように優しく撫でた。
そっと肩に手を回し、大丈夫だからねと囁いてくれる。ガラス細工を扱うように優しく力を込める。
嗚咽を噛み殺しながら私は彼に縋り付いた。それを彼は許してくれると確信できたのだ。
変わる筈のなかった何かが少しずつ変わり始めていた。しかしそのことに気付くのはもう少し後の話である。

2014.2.13
ものすごく臆病な少女とものすごく優しい彼との関係は前途多難そうですね。

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